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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

二 昭和戦後の酪農の変遷


  1 変遷の概要

 戦後における酪農発展の推移について検討を加える場合、いろいろの時代区分の仕方はあるが、最も一般的な区分に従うと第一期は、昭和二〇~二五年の「低迷再建(混乱)期」、第二期は同二六~三五年のいわゆる「復興期」、第三期は昭和三六年以降の「激動期」である。さらに三八年までを「酪農家増加期」、その後四五年までを「選択的発展期」、四六年以降を「新酪農政策斯」と言える。
 昭和四八年はオイルショックにより配合飼料価格の値上げ、牛価の暴騰・暴落のあった年で酪農はもちろん、日本経済が大打撃を受けて進路変更を余儀なくされ、長い不況期を迎えたのである。これにより酪農界は五〇年までは混乱はあったが、その後今日までは比較的平隠な推移をみており、この期間を「安定成長期」とでも言える時期であった。


  2 時代区分別酪農の進展

  (1) 低迷再建(混乱)期
 戦争の終結により乳業・酪農界はもとより一般県民はぼう然自失、虚脱状態となり、なすべきところを知らなかった。しかも終戦直後の九月と一〇月の二回にわたる台風被害を蒙り、県民の生活は食糧と住宅の絶対量の不足で深刻を極めた。当時は牛に食べさせるより先ず人間が食べていかねばならなかった。米の買い出しは聞いてても牛乳の買い出しはついぞ聞いたことのないまま、衰退崩壊の寸前であったが昭和二一年食糧品配給公団が設立され、乳製品なども配給統制が行われるようになって戦後の混乱も次第に平静をとり戻すようになり、食糧の自給自足もいままでのような米麦中心でなく、牛乳にまつところ大となり農村酪農に拡大されて行った。殊に馬産が後退して乳牛に代わり、中島・野村・大洲・三間地域をはじめ今治河南・松山・砥部地域など新旧の酪農地帯が急速に牛乳生産をあげるようになり、またララ物資の脱脂粉乳を中心とした学校給食がスタートするなどにより乳量の増加がみられるようになって、乳業の設備投資が行われるようになった。昭和二三年三月に飼料統制が撤廃になり、同二五年一月には乳幼児食品需給調整規則が公布され、乳幼児に煉粉乳の配給が実施され同二月二三日飲用牛乳が、ついで三月には食料品配給公団は解散となり、乳製品の配給統制が廃止されて乳業は自由経済に入った。また同年三月三一日に飼料配合規則が廃止され、四月一日付で飼料需給調整規則が制定された。
 またこの時期においては二三年富田村を中心として約五〇名の有志により河南酪農組合が結成され、翌二四年五月には河南酪農業協同組合創立総会が開催され、ついで野村町を中心に東宇和酪農業協同組合が設立せられるなど農業協同組合法に基づく酪農組合が相次いで誕生した。

   (2) 復興期
 この時期は食糧事情の回復と朝鮮戦争の外需による工鉱業生産の躍進した時代であった。農業の畜産化・酪農化が進められ、有畜農業の創設時代が長く続いた。従って、一戸当たり飼養頭数は二六年一・二頭、三五年一・五四頭の零細規模ながら各地に新興酪農地帯が広がった時代である。
 その飼養頭数においてもおおむね戦前の水準に回復したと思われる昭和二七年を一〇〇とした指数を見ると、三五年には全国が二九九に対し本県は四〇一を示しており、その増加率はめざましいものがある。またこの時期は酪農関係の諸制度が整備された時期でもあった。すなわち二六年には牛乳及び乳製品の成分規格などに関する省令の制定にはじまり、この年に制定せられて戦後農民的酪農化の出発点となった愛媛県有畜農家創設要綱に基づく有畜農家創設事業は、二八年に有畜農家創設特別措置法(法律第二六〇号)により法制化された。これにより従来ほとんど顧みられなかった畜産に制度融資と利子補給の道が開かれた。この事業は昭和二七年から三五年までの九年間に一五億七、一九二万円に上る低利融資によって、三、二六二頭の乳牛が導入された。翌二九年には酪農振興法が制定せられ、これに基づいて、合理的な酪農経営がなされるべく、飼料の自給度などの諸条件を具えた地域を選定して集約酪農地域として指定し、酪農による後進地開発を目的としたもので、事業は生乳取り引きの合理化、契約の文書化、紛争の行政斡旋を柱に政府が直接乳牛の導入、融資、工場の指定など酪農の安定を図ったものである。これにより本県においても昭和三〇年度から三四年度に至る五か年間の第一次酪農振興計画を樹立し、昭和三〇年一二月一〇日野村町を中心とする二市一一か町村を範囲とする南予集約酪農地域が酪農振興法に基づく地域指定を受け、種畜場に集約酪農指導所が併設されて、地域内に三駐在員(大洲、野村、三間)を置き、酪農家の飼料自給や飼養管理の向上などについて庭先指導の徹底を期することとなった。
 しかし、このころから夏季における不受胎乳牛の多発問題などから、種畜場に県下種雄牛を集中管理するため、一般酪農関係業務を専門的に分掌する機関として内子町に県立酪農指導所が発足した。
 また三三年一月から学校給食用牛乳供給事業の開始に続き酪農振興基金法の公布、乳質改善事業が着手された。三四年には第一回酪農大会が松山市で開催されたほか、県乳牛産乳能力検定指導事業実施要領の制定や、北海道酪農短期大学の通信分校として北条酪農高等学校が開設された。
 そしてこの年、牛乳・乳製品の消費を促進して需要の拡大による酪農事情の改善、長期的な経営安定、合理化と県民の栄養改善、体位向上に資するため国の助成を得て、牛乳消費拡大協議会の開催、啓蒙資料の配布、牛乳週間の実施などを柱とする牛乳需要増進事業を行った。
 なおこのころから「多頭飼育」「主産地形成」が志向されるようになり、さらに長期的な酪農経営の安定合理化を図るため三四~三五年度において左記のように県下二四市町村を酪農経営改善地区に指定し、経営改善計画を樹立してその実現に努めた。
 これらのほか種畜場においてホルスタイン種とジャージー種との比較試験あるいは第一次酪農振興五か年計画の二か年間延長などが実施されて、三五年には牛乳の需要が大幅に増大し、乳製品の緊急輸入が行われた。

   (3) 激動期

 酪農家増加期

 昭和三六年においては、農業基本法の下に、自立農家の育成、所得格差の解消、技術革新などが標傍されて、零細規模の非能率な農家が整理され、他産業の所得に肩を並べるまでに経営拡大、主産地形成が進められることとなった。
 さらに三七年三月酪農によって計画的、綜合的な農業経営の合理化を一層促進すると共に、乳業の合理化を徹底すると同時に農業構造改善事業による原料乳生産地を南予集酪地域に含めて推進すべく、第二次酪農振興五か年計画が樹立された。
 こうした施策がとられるなかにあって、酪農家戸数は順調なる増加を続け、三八年には七、三五〇戸に達した。
 しかしこれをピーダに戸数は以後急速な減少の方向をたどるが、一方乳牛頭数は依然として、急速な伸びが続いた結果三七年には乳製品の滞貨が急増し、畜産振興事業団が買入れて需給の調整に努める事態となった。

 選択的発展期

 かくして三九年には一万五、二三〇頭に達したが、しかしこの年以降は全国的傾向と同じく乳牛頭数の伸びも停滞し、かえって四一年には一万二、五一〇頭へと減少する傾向を示した。特にこのころの酪農は三~四年のサイクルで不況を迎えたものである。
 すなわち前にも述べたように三五年の乳製品の緊急輸入に続き、三七年は乳製品の滞貨が急増する事態を生じて、畜産事業団の調整介入があったが、またまた三九年度は牛乳・乳製品の価格が大幅に値上がりするなど不況と好況が繰り返され、加えて飼料問題、乳価問題など困難な問題を抱えて一喜一憂を繰り返しながらも、基調としては着実に伸長を遂げて、四五年には戦前・戦後最高の一万九、一〇〇頭に達する進展をみた、いわゆる選択的発展期の時代であって、三五年に比較して飼養頭数では二倍、酪農家一戸当たり飼養頭数では三倍に達し、生乳生産量においては二倍余りの四万九、四九五tとなり、五三年の五万一、五六三tに達するまでの最高を記録する発展を遂げた。
 そしてこの期間の四〇年一〇月には、県下生産牛乳の共同販売体制を確立し、積極的な酪農事業の推進を図るため、県下に分立した九つの酪農関係組合が構成する愛媛県酪農業協同組合連合会が発足し、県信連、県経済連、県共済連の三連の加入により組織機構の強化がはかられ、翌四一年四月には酪農関係法の改正に伴う、加工原料乳生産者補給金など暫定措置法の制定に基づき、県酪連が指定生乳生産者団体としての指定を受け、一元集荷、多元販売の原則の下で共販体制の整備促進が図られた。
 さらに四二年四月には生産者団体による機能強化をはかるため、各単位組合が実施していた生産指導、処理加工および製品の販売事業を県酪連に事業統合して名実共に県下の酪農、乳業事業が一体化され、生産者団体による生乳生産-集乳-処理加工-一元販売体制が確立され、全国唯一の組織事業体制ができ上がり、県下の生産基盤の整備、集送乳路線の整備合理化、加工処理施設の集中近代化および「らくれん牛乳」の愛飲運動の促進などにより、県下の酪農の長斯安定向上に大きく寄与することとなった。
 また一方施策の面でも四〇年には酪農関係三法が公布され酪農の庇護は厚いものとなった。
 同時に酪農振興法に基づく酪農近代化基本方針が公表され、県においても四二年一月一七日酪農振興法第二条の三第四項の規定により、国の方針・計画に調和するとともに、県における酪農の実態および将来における酪農振興の方向に即して目標年度である四六年度において到達が可能となることを配慮しつつ県第一次酪農近代化計画が作成公表され逐次期を追って公表されている。
 次いで同年二月二四日南予集約酪農地域集約酪農振興計画を公表した。
 この計画は県酪農近代化計画における理念のもとに、南予地域の全体計画内容の大部分を占める集約酪農地域内一三市町村において、近代的な酪農経営農家群を育成し、この上に立って合理的な生乳の濃密生産団地を形成するものであり、市町村および関係方面の協力のもとに推進することとなった。
 なお四五年には温泉青果農協乳業部門の県酪連統合により農協系統乳業部門の統合が完了したのである。

 新酪農政策期

 多頭化が進むにつれて、自立経営的酪農あるいは商業的「企業的酪農」が行われるようになった。またこれと反対に農業開発公社の設置、気密サイロの開発などにより地域的に草地型酪農も発達してきた。加えて畜産公害による環境保全対策として打ち出された畜産経営集団移転団地の造成、稲作転換飼料作物生産対策事業の開始、地域複合酪農の提唱などから新しい畜産・酪農政策の見直しが行われ九時期であった。

 安定成長期

 石油ショックによる日本経済の変化、配合飼料の異常高騰による緊急対策の開始、畜産物需要の減退などから、今までの経営の拡大基調から、安定効率化に軌道修正を余儀なくされることとなった。
 このころ世界的な食糧不足で、にわかに食糧の自給論が高まる中で酪農は第二の危機を迎えた。その後乳価の値上がり、飼料価格の下落などに支えられて、大きな曲折もなく需要に見合う安定的な成長を遂げたのであるが、最近の状況であるので紙面の都合でその説明を省略する。








表2-2学校給食用牛乳供給実績の推移

表2-2学校給食用牛乳供給実績の推移


表


図2-1 生乳流通図 (昭和56年度)

図2-1 生乳流通図 (昭和56年度)


表2-3 酪農近代化計画の概要 (目標年度、昭和46年度)

表2-3 酪農近代化計画の概要 (目標年度、昭和46年度)