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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

二 選果場統合近代化の実態


 愛媛県には、戦後、旧産地を中心に、集落単位の共選(部落共選という)が二〇〇か所以上あったといわれているが、確かな資料はない。昭和三五年の調査(注一)では、カキの選果所を含めて一三三か所あり、とくに北宇和郡、西宇和郡、越智郡に多くみられる。その後、共選の合併統合が次第に進められて、その数は減少し、平均規模も拡大してくる。四一年の調査(注二)では、三五年の半分以下の六三か所となっている。

 (注一)愛媛県青果連調査、三九年にも同様の調査が実施されている。
 (注二)愛媛県園芸蚕糸課(当時)調査


  1 南予の動向

 宇和青果農協

 昭和三八年、宇和青果農協が、吉田町立間に、総工費一億三、〇〇〇万円で、一日処理能力三○○tの大型選果場を新設、これにより吉田、立間、喜佐方、奥南の一二共選が統合された。これが、宇和青果本部共選、後の第一共選である。さらに四一年、国鉄宇和島駅に、総工費一億二、〇〇〇万円で、処理能力二〇〇tの宇和青果第二共選を新設、これにより宇和島・高光・下波・遊子・津島の五共選が統合された。また同じく四一年、吉田町玉津に、これまでの古い選果場を更新し、総工費六、二〇〇万円で宇和青果第三共選(二〇〇t処理)が新設され、さらに第一共選でも、選果機や自動製函機を増設するなど近代化が進められた。その結果、宇和青果農協のマークは、第一(本部)・第二(宇和島)・第三(玉津)の三つに集約されたが、四三年にこれらのマークを廃止して、【字】マークの完全一本化が実現される。

 西宇和青果農協

 昭和三九年、西宇和青果農協は、国鉄八幡浜駅に、総工費六、〇〇〇万円で西宇和青果中央共選(一五〇t処理)を新設、八幡浜周辺の八共選(宮内【み】・千丈【千】・【千】・八幡浜【八】・神山【果】・合田【旭】・舌間【舌】・矢の崎【矢】)が、夏ミカンに限って統合し、中央共選で選別荷造りし、中央共選マークで出荷することになる。温州ミカンについては、当初三支部(宮内・八幡浜・矢の崎)のみ統合したので、夏ミカン先行の統合といえる。
 三瓶地区では、三五年の農協合併で、三つの青果組合が統合して農協青果部となった。その時点で、三か所にあった共選を二か所に統合。三八年、二か所の共選を統合して、新選果場が作られた。また眞穴地区では、これまで眞網代(【マ】第一)・小網代(【マ】第二)・穴井(【マ】第三)の三共選があったが、三八年に総事業費一億円で新選果場(二〇〇t処理)を新設、三共選が統合される。さらに川上地区でも、四一年に、総事業費一億二、〇〇〇万円で、二〇〇t処理の新選果場が完成する。

  2 中予の動向

 伊予園芸農協

 昭和三九年、伊予園芸農協は、構造改善事業で国鉄伊予市駅に、総工費一億五、〇〇〇万円で伊予園芸第一共選(三六〇t処理)を新設し、それを契機に伊予郡内の支部九共選(郡中【一】)、下灘【山】、上灘【上】、南伊予【南】、麻生【麻】、丸二【二】、砥部【砥】一、【砥】二、中山【中】)が統合し、第一共選で選別荷造りし、【伊】マークで出荷することとなった。一郡を統合集約した典型的な事例である。なお、四〇年以降、第七章第二節でみるように、「時期別地区別出荷方式」を採用することによって、選果場の分散が行われた。

 中島青果農協

 中島地区は、古くからのミカン産地で、これまで五つの島に一七の共選があったが、島の関係でそれぞれ独立してミカンを出荷販売していた。三五年に、中島町農協青果部の設立を契機に、中島東地区の大浦、小浜、長師、宮野、神浦の五共選が支部となり、マーク統一を実施、三七年に二神共選が加わり、六支部が【中】マークで出荷することになる。しかし三九年、中島西地区の宇和間、熊田、饒の三共選が温州ミカンに限って統合し、【み】マークで出荷、同じく夏ミカン、伊予カンについては、さらに吉木共選が加わり、四共選が統合して【西】マークで出荷を開始する。
 四〇年、中島地区の全農協(七農協)が合併するが、青果組織の一元化をめぐって西中島地区の出荷者が対立し、宇和間、熊田、吉木、饒、畑里の五共選が統合し、西中島統合共選(一五〇t処理、準オートメ選果場)を新設、独自に【西】マークで出荷を開始する。
 中島農協(最初の名称)は、農協合併を契機にマーク統一をはかり、一元出荷を進めることにし、西中島以外はすべて【中】マークで出荷することになったが、選別荷造りはそれぞれ旧施設(共選)で実施されていた。そこで四一年、中島町大浦に、構造改善事業で総工費二億三、〇〇〇万円を投じ、懸案の中島農協中央共選が新設された。この選果場は、一日処理能力四〇〇tと、当時としては全国有数の規模を持つものであった。この新設で、中島東地区の大浦、小浜、長師、宮野、神浦と、二神、上怒和、元怒和、津和地、野忽那、睦月の一一共選が、中央共選で選別荷造りを行い、【中】マークで出荷することになった。この時点で、中島地区のミカンの出荷系統は、【中】、【西】、あさひ組合(大浦、非参加者)、睦月共選(統合反対者)の四つに集約された。

 温泉青果農協

 三七年九月、温泉青果農協は、果樹コンビナートの一環として、国鉄松山駅の南側に、温泉青果第一共選(三五〇t処理)を新設した。総工費六、〇〇〇万円、同規模の選果場と較べて低い投資額だが、これは支部の旧選果場の機械施設をできるだけ利用したからという。温泉青果のマーク統一は、三〇年代に入って東温地区、城北地区、北条地区で進められたが、松山市内、とくに城東地区のマーク統一にかなり時間を要し、結局、三七年一〇月の第一共選の新設を契機に完全統合を実現した。また選果場も、四二年時点で、第一(本部)、第二(城北)、第三(北条)の三か所に集約された。

 (注)第一選果場は、四二年九月、一億四、三〇〇万円をかけて全面的に改修され、一日処理能力四八〇tとなった。


  3 東予の動向

 越智園芸連

 三六年九月、越智郡大西町の小西園協が、新方式の自動選果機を導入して選果場を新設した。これが、わが国最初のオートメ選果場といわれている。また同時に、マーキングマシン(自動果実捺印機)を導入したが、恐らくこれもわが国最初の試みであろう。四〇年代に入り、これまで共選の統合近代化が比較的おくれていた越智郡の島しょ部と陸地部で進められた。まずその一つは、越智園芸連が、四国の対岸広島県三原市に、構造改善事業の一環として、総工費二億九、〇〇〇万円を投じ、越智園芸第一共選(三六〇t処理)を新設し、島しょ部の共選統合をはかったことである。島しょ部には、これまで大小二二の共選があり、越智園芸連の支部になっていたが、それぞれ単独で市場出荷をしていたため、出荷計画や調整が困難であった。これを改善するには、大型選果場を新設し、島しょ部のミカンを一か所に集めて出荷するほかはないが、設置場所などの点で意見がまとまらなかったという。しかし、地区外の三原市に新設することで、共選統合が実現した。もっとも、当初は、関前、宮窪、吉海、宗方、口総の五共選が不参加のため、処理実績は計画を下回った。
 同じく越智郡の陸地部には、これまで九共選(菊間・亀岡・大井・小西・波方・乃万・日高・桜井・朝倉)があったが、越智園芸連は、四〇年、国鉄今治駅に、総工費七、〇〇〇万円で越智園芸第二共選(一〇〇t処理)を新設し、乃万・日高・朝倉・桜井の四共選が整理統合された。その後、越智園芸連は、選果場を、第一(三原)、第二(今治)、第三(小西)、第四(菊間)の四つに集約する。

 東予園芸農協

 四一年、東予の周桑青果農協(丹原町)が、構造改善事業の補助をうけ、国鉄壬生川駅に総工費一億三、〇〇〇万円で、一日二四〇t処理の周桑青果第一共選(後の東予園芸第一共選)を新設し、それを契機に出荷組織の統合が進められた。東予地域では、これまで周桑青果農協、新居園芸組合、宇摩園芸組合の三青果組合および各農協青果部が、ミカンとカキの集出荷を行っていたが、周桑青果第一共選の新設を契機に、周桑青果、新居園芸、宇摩園芸の三組合が合併し、四一年一〇月、東予園芸農協が設立された。






図6-1 宇和青果農協のマーク統合の推移

図6-1 宇和青果農協のマーク統合の推移


図6-2 中島青果農協の共撰統合過程

図6-2 中島青果農協の共撰統合過程


図6-3 温泉青果農協のマーク統合過程

図6-3 温泉青果農協のマーク統合過程