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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

二 アジア大陸輸出


 大陸進出と果樹

 アジア大陸への果実輸出が盛んになり始めるのは、明治の末期からであり、関東州の租借(明治三九年)や日韓合併条約調印(明治四三年)を通じて実現した人文の交流と経済進出に負うものである。本県の果実も、明治末期から大正時代においては、産地商業者の先駆的活動によって、大連・朝鮮への輸出から始まった。大正の後期には、満州奥地の奉天などにまで伸びている。また中国の青島・天津にも大正一〇年ころから輸出開拓が進められている。昭和六年には、日本柑橘中華民国輸出組合が愛媛など一府九県で結成され、中国への輸出が本格的にたった。ところが、その同じ年に満州事変が発生し、満州国の独立言言(昭和九年)に発展した。満州国の独立に反発した中国は、関税障壁を設けて事実上中国輸出は中絶した。前記輸出組合は、日本柑橘満州国輸出組合に改組され、満州国への輸出伸長をはかることになった。昭和九年には、大連に中央卸売市場が開設されて、満州に対する輸出基地の機能を備えるに至った。本県果樹生産者団体の急速な輸出進出が見られるようになるのはこのころからである。伊予果物同業組合は、大連に駐在員を派遣し、市場開拓につとめるまでになった。翌年には県斡旋部駐在兼任となった。

 輸出統制の進行

 前記の情勢に更に変化をもたらしたのは、日中戦争(昭和一二年)であり、北支の軍事的支配が進んだことにより、昭和一四年ころから、青島・天津・上海への輸出が復活することになった。このようにして成立した円貿易圏の拡大は、さらに輸出の飛躍拡大を約束するかにみえたが、戦争による物資の消耗は、国内物資の調整を必要とする情勢となり、これらの大陸輸出にも規制の網をかぶせることになった。昭和一四年九月、円域輸出物資調整令(商工省令第五三号)を公布し、輸出数量の割当、輸出期間の指定、承認証紙の貼付などが規制されることになった。国内においては、昭和一六年に青果物配給統制規則が強化され、それに対応する形で同じ年に満州国では満州生活必需品統制会社、朝鮮では朝鮮青果物配給統制組合がそれぞれ設立されて、輸入の一元統制を行うことになった。これら一連の動向と関連して、貿易統制令(昭和一六・二)が公布され、輸出団体の統合が進められた。それが終局的に交易公団(昭和一八・六)となり、公団の受託輸出機関として日本青果物輸出組合が設立された。本県では、昭和一四年(輸出規制)以後も、移出業者と生産者団体の二元輸出が続いていたが、情勢の変化に応じて、両者の一本化による輸出組織の結成が提唱されるようになった。この輸出会社の出資をめぐって、移出業者は、過去の輸出実績の優位性を主張し、生産者団体は、出荷権を盾に譲らず、県内あげてのはげしい論議が続いた末、昭和一七年対等出資による、愛媛貿易協会・愛媛貿易株式会社を設立した。この組織が、前記日本青果物輸出組合へとつながって、指定機関として輸出実務を遂行することになった。

 大陸輸出の意義

 愛媛の柑橘にとって、この大陸への輸出は、昭和一〇年ころになると出荷量の二〇%以上を占めるまでになり、価格面でも国内市場より有利な状態が続いた。輸出されるミカンの品質においては、国内市場への年内出荷には不向な陸地部(奥地)のものが、腐敗のおそれがなく好適であるという国内販売との好ましい補完関係が成立していた。事実大陸出荷で息をついていた産地もあったのである。また国内中央卸売市場への生産者共販の進出に対して、県内移出業者の大陸輸出への転換という出荷構造も生まれた。このように本県にとって地の利を得た重要な大陸輸出であったが、残念なことに記録や資料に乏しい。それは、北米輸出のような規制が、昭和一四年までなかったこと、輸出のルートも複雑多岐(大連中継、鮮鉄経由、北鮮経由)にわたっていたこと、苛酷な戦争のなかでの資料喪失などが考えられる。別表(表4-13)は、大陸輸出の推移を知る僅かな手がかりにすぎない。



表4-13 愛媛柑橘の大陸 (満州、関東州、朝鮮、中国) 輸出状況 ①

表4-13 愛媛柑橘の大陸 (満州、関東州、朝鮮、中国) 輸出状況 ①


表4-13 愛媛柑橘の大陸 (満州、関東州、朝鮮、中国) 輸出状況 ②

表4-13 愛媛柑橘の大陸 (満州、関東州、朝鮮、中国) 輸出状況 ②


表4-13 愛媛柑橘の大陸 (満州、関東州、朝鮮、中国) 輸出状況 ③

表4-13 愛媛柑橘の大陸 (満州、関東州、朝鮮、中国) 輸出状況 ③


表4-13 愛媛柑橘の大陸 (満州、関東州、朝鮮、中国) 輸出状況 ④

表4-13 愛媛柑橘の大陸 (満州、関東州、朝鮮、中国) 輸出状況  ④