データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

一 昭和農業恐慌と果樹


 時代区分

 昭和戦前期の時代は、その初期から始まった農業恐慌を経て、満州事変・日中戦争と進行する戦時経済から、更に第二次世界大戦への発展、敗戦に至る激動の時代である。この時期の果樹の動向について、恐慌から戦時経済体制が整備された昭和一五年ころまでと、第二次世界大戦に突入した昭和一六年以降に分けてみてゆくこととする。

 恐慌と果樹の増植

 昭和初期(昭和五年)から始まった農業恐慌は、農産物価格、特に米・繭の暴落によって、農家経済が破綻窮乏に落ち込んだ。東北地方では冷害がそれに拍車をかけることになった。国は救農国会(昭和七年)を開き、緊急対策として救農土木事業(開墾を含む)を起こし、農家労働の雇用、賃金支給による救済を行い、低利融資による経営援助を強化した。長期的には、農山漁村経済更生計画(五か年)の樹立助成を打ち出した。経済更生計画には、経営の多角化をめざして、果樹・野菜・養鶏・藁工品などの副業振興がとりあげられると共に、負債整理による自力更生運動が展開された。すでに大正時代から一貫して生産の拡大基調にあった果樹が、この農業恐慌を契機に更に飛躍拡大することになった。昭和六年から恐慌のおさまりを見せ始めた昭和九年までの果樹の増植状況をみると、年々四〇〇町歩に余る果樹の増植があり、なかでも温州ミカン二○○町歩・栗一〇〇町歩・柿六〇町などが目立っている。(表4-1)このように果樹の増植が進行したのは、経済更生計画や桑園整理助成などの政策的な面もあるが、何よりも大きな原因は、米麦や繭の価格低落に比して、果実の価格下落率が軽微であったことにあるとされている。(表4-2)

 梨の整理進行

 しかし、果樹のなかでも、梨については、大正末期から始まった整理転換は続いて進行し、栽培面積の減少した唯一つの果樹であった。伊予果物同業組合は、昭和二年一〇月発行「伊予の園芸」第一四巻第一号で「梨伐るべし伐るべからず」という社説を掲げて不適地における梨(長十郎)の整理と適地温存を説いている。

 桑園整理と果樹

 恐慌による繭価の暴落は、生糸の輸出先である米国の恐慌が最大の要因であるが、それに加えて昭和五年産繭の大豊作(一億六〇〇万貫)と浜口内閣の金輸出解禁(昭和五年)による円高(生糸輸出価格の高騰、輸出減少)の影響があった。この繭価好転の展望が得られないままで、わが国の社会情勢は、満州事変(昭和六年)、国際連盟脱退(昭和八年)と国際的な孤立化を深めることになり、輸出拡大の道を閉ざす方向へ展開した。この間アメリカの人絹開発も輸出の壁となりつつあった。こうして桑園整理という農政の一大転換により、明治以来輸出産業の花形であった養蚕の衰退が始まることになった。西日本第一の養蚕県であった本県(桑園面積一万四、七二九ha、農家戸数五万五、八四六)の受けた打撃は大きく、なかでも養蚕の主産地であった南予(桑園面積の七四%)は一層深刻であった。県内の桑園整理の状況は、助成措置がなされた昭和七年から昭和九年までに(表4-3)の推移を見せており、果樹に転換された面積もかなり多いと推定される。



表4-1 昭和農業恐慌と果樹増殖状況

表4-1 昭和農業恐慌と果樹増殖状況


表4-2 主要農産物の価格変動指数 (昭和元年を一〇〇として)

表4-2 主要農産物の価格変動指数 (昭和元年を一〇〇として)


表4-3 昭和七~九年における桑園改植による作目転換

表4-3 昭和七~九年における桑園改植による作目転換