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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

一 栽培技術の普及

 
 苗木育成・接木

 大正時代には、県内の苗木商で、果樹の種苗育成をはじめるものが現れるようになった。また有力な栽培家は、接木技術を習得して、苗木の育成あるいは高接による更新などが実施されるようになった。柑橘苗の砧木についても、『立間柑橘』によると、今までの柚砧から枳殼砧にうつり、第三年ないし第四年目の春切接法で接木し、爾後二、三回の床換えを行い、五年苗又は六年苗として本圃に定植するとしている。
 接木技術は、大正時代に著しい進歩を見た技術とされており、明治後期から末期にかけて、切接法・芽接法・高接法・根接法などが開発導入されたが、それらが一般に普及実施されるようになったのは、大正時代である。

 栽植距離の拡大

 明治時代の果樹植栽は、総体的に密植栽培であった。土壌の肥沃地・痩地・傾斜地などを忘れた密植の弊害が現れはじめ、栽植距離に対する反省が起こった。反当本数の変化が出始めたのは、大正の後期であった。(表3-1)

 剪定・整枝

 柑橘類の剪定技術の普及には、明治三九年から始まった興津園芸部の園芸技術者育成事業(見習生制度)によって養成された技術者が、全国的に剪定技術の指導に当たった。しかし、一般に明治時代の柑橘剪定技術は、模索の時代といってもよく、大正時代になって、次第に剪定の必要性と効果が関心を呼ぶようになった。本県においても大正時代には、農会及び果物同業組合に園芸技術者が配置されるようになり、技術指導の体制が強化された。大正四年には、県に宮之原健輔技師、宇和柑橘同業組合に村松春太郎技師が着任し、柑橘剪定技術の著しい普及向上がはかられることになった。

(1) 柑橘の剪定整枝には、盃状形整枝法が普及され、隔 年結果を防ぐため、豊作年には結果枝の剪定及び夏秋梢の摘除が行われるようになった。また村松技師によっ て、盃状形ではなく、樹をあまり大きくせずに主枝をおさえる方法(準盃状形)が普及され昭和初期まで続いた。
(2) 落葉果樹は、梨・リンゴ・オウトウなどでは、円錐形整枝が採用された。しかし、梨についての剪定整枝については、あまり技術的改革がなされなかったといわれている。桃は盃状形が中心であり、柿では富有柿には盃状形整枝が採られ、生理落果の防止に環状剥皮が実施された。アタゴ柿に対しては、円錐形整枝が取り入れられた。

 土壌管理及び施肥

 大正時代には、果樹園の敷草、敷ワラの指導奨励が行われ七・八月に山野草・ワラ・海藻類・綿くずなどを樹冠下に敷くことを奨めている。除草は、三、四月に中耕を兼ねたもの、五、六月の雑草繁茂期、梅雨あけ後二回位の除草作業が行われた。
 果樹の施肥については、肥料の研究が進み、肥効が明らかにされるようになったのは大正年代である。大正一〇年興津園芸試験場の独立によって、はじめて土壌肥料の研究部門が新設され、柑橘施肥試験や柑橘産地の土壌調査分析などが着手されて、ポット法による本格的な肥料試験及び圃場試験が創設されたのである。本県の農試園芸部で、はじめて果樹の肥料試験として、「温州ミカン用量試験」が開始されたのは、大正一二年である。それまでは、肥料試験と言えるものは、大正四年に実施された柑橘石灰施用試験がある程度である。施肥方法は輪状施肥法(樹冠下に輪溝を掘りそれに肥料を埋没する)が実施されていたが、大正九年ころから全園肥沃法・(樹冠下全体に肥料散布)及び緑肥栽培による緑肥鋤き込みを兼ねて、少し深く中耕(七寸位)するようになった。大正時代に指導奨励された標準施肥量(表3-2・3-4)や肥料配合表(表3-3)などは、施肥合理化の出発点となるものと言えよう。






表3-1 果樹の反当栽植本数の変せん対照表 (一九四三)

表3-1 果樹の反当栽植本数の変せん対照表 (一九四三)


表3-2 温州蜜柑一反歩施用三成分標準量 (ア)

表3-2 温州蜜柑一反歩施用三成分標準量 (ア)


表3-2 温州蜜柑 (二〇年生) 一反歩施肥量計算例 (六〇本植) (イ)

表3-2 温州蜜柑 (二〇年生) 一反歩施肥量計算例 (六〇本植) (イ)


表3-3 柑橘肥料配合表

表3-3 柑橘肥料配合表


表3-4 日本梨一反歩施用三成分標準量

表3-4 日本梨一反歩施用三成分標準量