データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

一 流通対応の地域的動向


 南 予

 県内で最もはやく集団産地を形成した立間地方を中心とする柑橘の販売は、吉田港の商業者(産地問屋)による先駆的活動で展開された。その方法は、関門・瀬戸内沿岸・四国などの各都市へ和船又は定期航路の汽船によって出荷販売するものと、ミカンの先進地である紀州の商人や瀬戸内沿岸の都市からの買船が吉田港に来航し、産地問屋を通じて買い付けるみちとがあった。初期には紀州からの買船によるものの方が多く、立関のミカンが紀州ミカンとして販売されていたのである。立間のミカンが東京市場へ初めて出荷されたのは明治一六年で、翌一七年、一八年には、全国の共進会、品評会で一等に入賞し評価を高めたが、実際の出荷は、輸送条件の悪さから腐敗を生じ、明治三八年ころまで中絶する状態であった。西宇和地方のミカン販売も、八幡浜・吉田の商業者によって展開されていた。

 中 予

 中予地方では、梨・桃・りんごなどの生産が先行した地帯であるが、販売は三津浜港を集散地として、三津浜を中心とする商業者の手により、海路各方面に出荷販売された。島しょ部の中島では、地元の問屋の手を経て、三津浜の市場あるいは移出問屋に販売する方法と、各地からの買船が来航し、地元問屋を介した浜売りとがあった。この中島の問屋は、商業資本家というよりも、部落の生産者による推せん指名により、一年間自由に営業するもので、販売代行者的性格をもち、一定の金額を部落に寄附することになっていた。

 東 予

 東予地方における初期の販売も、商業者により主導されたことに変わりはないが、今治地方では、生産者による振り売りや、生産者が商業者に販売を委託するなどの手段がとられ、販売に苦慮した時代もあったようである。

生産者共販の模索

 明治三〇年代の後半になると生産の増加につれて、販路を大都市市場に求める必要が起こり、京阪神には明治三五年、東京市場には明治三八年ころから本格的な出荷が行われるようになった。この大都市への進出は、現金取り引きから市場問屋への委託販売へと変わり、出荷果実には荷造規格を設けて、大・中・小の三段階に仕わけ、しかも品質の良いものを箱詰めにして大都市に送り、下級品を地方市場に出荷するなど、出荷販売体制の変革が進行することになった。このような販売の展開は、生産者と産地商業者との関係にも影響をもたらし、商業者の組織化、生産者による販売の模索、あるいは取り引きの改善に対する関心を呼び起こすようになった。
 吉田港では、明治四〇年、産地商業者の組織として「立喜組」が結成され、続いて明治四二年「吉田青果物組合」が設立された。立間村では、生産者組織として明治四三年「立間柑橘販売組合」が結成された。
 西宇和郡では、明治四五年日土村に「七組合」、真穴村に「柑組合」が設立された。
 中予地方では、明治三九年に三津浜の商業者と中予地方の有力な果樹栽培家の共同出資によって、「三津浜青果市株式会社」が資本金二万円で設立され、セリによる市場販売が開始された。当時として特異なものであったが、市場の運営をめぐる対立によって永続しなかったことは惜しまれる。また中島(大浦)では、明治三九年神戸市場にミカンの共同出荷が試みられた。