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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

一 主要果樹導入の状況

 果樹栽培の自由

 幕藩体制の崩壊により、明治時代を迎えて、農地は農民の所有となった。農産物の作付制限が解かれ、農地の売買も自由になった。この社会的条件の変化のなかで、愛媛の持つ温暖な気候、長い海岸線に面した傾斜地や半島、瀬戸内海に浮かぶ島々などの自然環境は、果樹栽培の好適地として、あらためて浮かび上がることになるのである。すでに幕末において、北宇和郡立間におけるミカン、伊予郡唐川の枇杷、新居郡の柚柑、温泉郡興居島の桃など、果樹産地形成の萌芽となる植栽の記録がある。

 果樹導入の記録

 明治時代を主体とする、主要果樹導入の記録は左記の通りであるが、はじめは先駆者による点在的な導入から、次第に地域的、組織的導入に発展して産地化が進み、産業的規模を持つようになった。愛媛県における明治一〇年代から二〇年代は、外国のものも含めて多様な果樹が導入された時代であり、三〇年代以後は、その普及の時代ということができるであろう。


愛媛県における果樹栽培発展の記録

一、温州ミカン(普通種)
 (1) 寛政五年(一七九三)ころ、北宇和郡立間村白井谷の加賀山平次郎土佐より一本のリュウリン(温州ミカン)苗を購入植栽、之を母樹となし寄接育成して同族に頒つ。                      
   -立間村農会大正二年発行『立間柑橘』
 (2) 文久元年(一八六一)北宇和郡立間村加賀山平次郎紀州より温州ミカン苗を八本導入、三年後更に三五本、更に三年後五〇本導入、同族に植付けさせた。
   -安部熊之輔著明治三七年版『日本の蜜柑』
 (3) 慶応元年(一八六五)東宇和郡俵津村苗木商「熊吉」兵庫県東野村で育成(原産は紀州)の温州ミカン苗五五本を持ち帰り、北宇和郡立間村白井谷の加賀山千代吉(現主千代吉氏の祖父)之を購入植栽                
   -『立間柑橘』
 (4) 明治初年立間村三角勘六(商用上阪に托し)兵庫県川辺郡東野村より温州ミカン苗(数十本)を移入、同村赤松彌助、土井惣吉、加賀山金平、芝銀蔵等逐次東野より苗木の移入を試み、明治四、五年ころより加賀山金平、加賀山作治、薬師寺庄吉等山野を開墾又は良圃に植栽、特に加賀山金平は、自から東野村に行き、苗木を購入栽培につとめた。
   -『立間柑橘』
 (5) 明治四年、越智郡関前村に桧垣信庸(旧里正、村長)温州ミカンを導入植栽                            
   -愛媛県農会(明治四三年発行)『愛媛の果樹』
 (6) 明治五年、温泉郡中島大浦山狩の人森田六太郎初めて温州ミカンを導入植栽                          
   -『中島町誌』
 (7) 明治一七年ころ越智郡盛口村松岡梅吉広島県より温州蜜柑苗を導入植栽
   -愛媛県農産物配給販売 斡旋部昭和九年発行『愛媛県の果物』
 (8) 明治二〇年、中島町大浦森田六太郎和歌山県よりミカン苗一〇〇本を購入二反の畑に植栽
   -伊予果物同業組合昭和七年発行『伊予のくだもの』
 (9) 明治二〇~二六年、西宇和郡保内地区において温州ミカン(立間村の系統)の栽培に着手
   -『保内町誌』
 (10) 明治二四年、西宇和郡真穴村大円寺住職松沢大拙師の奨めで、真穴村で旭柑試植
   -西宇和果物同業組合昭和一二年発行『西宇和の果物』
 (11) 明治二四年、越智郡大西町山之内白石良吉温州ミカン数本試植(長男誕生祝)                
   -『大西町誌』
 (12) 明治二六年、越智郡宮窪村友浦に立間村から温州ミカンが導入された
   -『吉海町誌』
 (13) 明治二八年ころ、八幡浜向灘に大家百次郎約三、〇〇〇本(温州ミカン、夏ミカン、ネーブル)の苗木導入栽培始まる 
   -『西宇和の果物』
 (14) 明治三〇年、宇摩郡天満村西之江秦幾太郎集団的に温州ミカン栽培
   -愛媛県農林統計調査事務所(昭和四二年発行)『愛媛のみかん』
 (15) 明治三〇年、喜多郡喜多灘村東福太郎、出海村植村梅次郎、耳塚源次郎温州ミカン植栽            
   -『長浜町誌』
 (16) 明治三一年、砥部町宮内山岡吉五郎山林を開墾して温州ミカン植栽
   -『砥部町誌』
 (17) 明治三二年、南宇和郡内海村柏、宮下亀一郎が温州ミカン栽培
   -『内海村史』
 (18) 明治三二年、越智郡菊間町菅政二郎温州ミカン試作
   -『菊間町誌』
 (19) 明治三三年ころ、西宇和郡真穴村阿部大三郎立間村加賀山金吾よりミカン苗三〇〇本導入、阿部庄右衛門、吉川音松等と植栽
   -『西宇和の果物』
 (20) 明治三五年、越智郡上浦町盛、土井兼四郎、大岡寅一郎温州ミカン植栽
   -『上浦町誌』
 (21) 明治三五年、伊予郡下灘村加納善太郎温州ミカン植栽
   -『双海町誌』
 (22) 明治三七年、松山市太山寺小池梅吉、三津米谷徳太郎温州ミカン植栽
   -『伊予のくだもの』
 (23) 明治三八年、北宇和郡清満村芝栄八尾張から温州ミカン苗を導入植栽
   -『津島町誌』
 (24) 明治三九年、温泉郡川内町曲里菅國一、西ノ側藤井繁太郎・渡部綱久ミカン植栽   
   -『川内町誌』
 (25) 明治四〇年ころ、伊予郡原町村西岡種憲、道後村三好保徳、石手河野房五郎・三好良三、和気村井上又蔵・渡部善太郎等が温州ミカン園を開園
   -『伊予のくだもの』

二、早生温州
 (1) 明治三八年、越智郡関前村(岡村島)に広島県大長村から青江系の大長早生導入栽培
   -『愛媛県果樹園芸史』
 (2) 明治四五年、伊予郡(伊予市)に大長早生(青江系)導入される
   -『伊豫市誌』
 (3) 大正元年、温泉郡和気村西浜政吉、石手河野房五郎早生ミカン栽培
   -『伊予のくだもの』
 (4) 大正五年、西宇和郡真穴村、村田市太郎大分県津久見より早生温州苗を求め植栽           
   -『西宇和の果物』
 (5) 大正一四年、立間地方に広島県大長から村松春太郎の指導により早生温州を導入              
   -愛媛県(昭和三四年発行)『愛媛県の園芸』
 (6) 昭和九年、立間村経済更生計画によれば、四ヶ年計画で桑園等の荒廃園一五町歩を柑橘園に改植するに際して早生温州の増植を図った。
   -『吉田町誌』
 (7) 昭和五〇年、極早生温州(徳森、楠本、市丸、橋本、茶原等)の試作高接更新はじまる                      
   -「果樹園芸誌」(第三六巻第八号)

三、伊予柑
 (1) 明治二二年、温泉郡道後村持田三好保徳、山口県萩より穴戸蜜柑(伊予柑)を導入苗木育成増殖をはかる。   
   -(三好保徳頌功碑)
 (2) 明治三〇年、温泉郡西中島村忽那恕(村長)三好保徳より伊予柑三〇本、夏柑五〇本を購入自己栽植及び希望者に頒つ 
   -『中島町誌』
 (3) 昭和四一年、宮内伊予柑(早生種)出現、温州ミカンの暴落(昭和四三・四七)を契機にミカンの転換品種として愛媛県を中心に全国的に増殖される。(昭和三八年発見、昭和四一年品種登録)
   -温泉青果農業協同組合「生産販売の歩み三五年」
 (4) 昭和五二年ころより宇和青果農協の地域を中心に大谷伊予柑の試作高接始まる。(昭和四七年発見、昭和五五年品種登録)
   -昭和六〇年発行『(宇)七〇年のあゆみ』

四、ネーブルオレンジ
 (1) 明治二八年、温泉郡浅海村尾上又次郎道後村持田の三好保徳よりネーブルオレンジの苗をもとめ、りんご・梨と共に植栽した。
   -『愛媛県果樹園芸史』
 (2) 明治二九年、西宇和郡宮内村佐々木秀次郎・田鶴谷千頴、神山村紀伊清治等が、和歌山県那智郡よりワシントンネーブルを導入栽培を始める。次いで真穴村加賀城庄九郎・阿部庄右衛門、日土村清水谷巖等が栽培した。
   -愛媛県農会明治四三年発行『愛媛の果樹』
 (3) 明治三一年、北宇和郡立間村に和歌山県那智郡よりネーブルオレンジ導入植栽      
   -『立間柑橘』
 (4) 明治三三年、温泉郡東中島村堀内唯八郎(村長)ネーブルオレンジを導入植栽      
   -『中島町誌』
 (5) 明治三五年、温泉郡汐見村門屋礼三郎ネーブルオレンジ大栽培
   -『愛媛県果樹園芸史』
 (6) 明治三五年、宇摩郡川瀧村紀伊義玲ネーブルオレンジ三〇〇本植栽
   -『 同上 』
 (7) 明治三六年、温泉郡古三津北山に米谷市太郎ネーブルオレンジ三〇〇本植栽   
   -『 同上 』
 (8) 明治三六年、伊予郡唐川吉沢兼太郎ネーブルオレンジ一二○本植栽
   -『 同上 』
 (9) 明治三八年、越智郡津倉村片山新太郎八幡山麓にネーブルオレンジ植栽
   -『吉海町誌』
 (10) 明治四〇年、伊予市唐川吉沢武久ネーブルオレンジ一二○本植栽 
   -『愛媛県果樹園芸史』

五、夏柑
 (1) 明治一二年ころ宇和島須賀通り(宇和島市御船頭町の記録もある)の士族中臣次郎大夫が山口県萩より夏柑の苗をもとめて庭前(藤江に植えたとの記録もある)に植栽した。
   -『立間柑橘』
 (2) 明治一六年、温泉郡道後村持田三好保徳山口県萩より夏柑苗を導入五反歩に試植     
   -(三好保徳頌功碑)
 (3) 明治一六年、西宇和郡神松名村大字松、宇都宮誠集大阪近在から夏ミカン苗一五〇本を購入自宅附近(唐岩)に植栽
   -三崎村農会昭和一〇年発行『三崎夏柑について』
 (4) 明治一八年、越智郡盛口村に夏ミカンが導入された
   -『今治市誌』
 (5) 明治一九年、西宇和郡日土村二宮嘉太郎、神松名村宇都宮誠集が、それぞれ夏柑栽培をはじめ、二宮の系統は、宮内・喜須来・川之石・磯津・八幡浜方面に、宇都宮の系統は、佐田岬半島一帯に広がった。
   - 愛媛県農会『愛媛の果樹』
 (6) 明治二〇年、西宇和郡伊方町亀浦、中田太郎吉(イリコ商人)が夏ミカン苗を山口県から持ち帰り庭先へ植付けた。
   -『伊方町誌』
 (7) 明治二二年、南宇和郡城辺町大字豊田、中尾一二が夏ミカン一反歩植栽
   -『愛媛県果樹園芸史』
 (8) 明治二六年(二〇年説もある)伊予郡南黒田の砂丘に庄屋鷲野紹三郎が夏柑を植栽   
   -大正六年版『愛媛県誌稿』
 (9) 明治二八年、西宇和郡三崎町杉山勝蔵、川田熊一等夏ミカンを栽培
   -『西宇和の果物』
 (10) 明治二八年、温泉郡小野村北梅本(桐の木畑)に道後村の三好保徳夏柑を栽培   
   -『愛媛県果樹園芸史』

六、甘夏柑
 (1) 昭和二五年、松山市菅野寿章(県青果連参事)福岡県浮羽郡田主丸、福島正助より川野夏橙苗五本を導入(果試に二本、伊豫市大平久保正勝に二本、自己植栽一本)   
   -『愛媛県果樹園芸史』
 (2) 昭和二六年、松山市北山和田尚彦長崎から一年生四〇本、福岡から二〇本の甘夏柑苗を導入栽培
   -『 同上 』
 (3) 昭和三六年、南宇和郡御荘町平山、小野直喜等により熊本県田浦から甘夏ミカン導入(昭和三六年一六○本、昭和三七年一、〇〇〇本)
   -『 同上 』

七、新甘夏(異名-サンフルーツ、田浦オレンジ、ニュセブン)
 (1) 昭和四四年、西宇和郡三崎地区を主体に新甘夏の導入栽培はじまる   
   -「果樹園芸誌第三七巻第二号」
 (2) 昭和四五年、夏柑(普通)価格の暴落(昭和四四年産)による夏柑改植更新計画により、甘夏柑、新甘夏への転換増植が本格化した。           
   -西宇和青果農協昭和五四年発行『西宇和柑橘三〇年の歩み』

八、梨
 (1) 東宇和郡の「山田梨」(在来種)は、寛政年間(一七八九-一八〇〇)東宇和郡山田村の長十郎なるもの、自然生のものを畑に移し、良質多産の結果を得て次第に拡まる。              
   -大正六年版『愛媛県誌稿』
 (2) 温泉郡の「津吉梨」(在来種)は、随分古いもので「霜カヅキ、松尾、白ボシ、土用ナシ」と称する在来種であるが、之は宅地や山畑の端に一~二本とあったに過ぎない。             
   -『伊予のくだもの』
 (3) 安政六年(一八五九)温泉郡興居島村由良、小林佐七郎桃に次いで梨栽培を試みる。
   -「県農会報第二五号」(愛媛県農会明治三四年発行)
 (4) 明治五年ころ伊予市南山崎、佐川与市・福井倉吉・吉沢兼太郎等が梨およびりんごを導入植栽したが、りんごは失敗(病虫害発生)、梨がしばらく残った。
   -『伊豫市誌』
 (5) 明治二四年、温泉郡道後村持田三好保徳湯山村溝辺の山林開墾梨栽培を始める  
   -「県農会報第二五号」
 (6) 明治二四年、温泉郡浅海村尾上又次郎梨植栽(りんご七〇%、梨二〇%、ネーブル一○%)
   -『北条市誌』
 (7) 明治二四年、西宇和郡日土村二宮嘉太郎岡山県(備中)小田郡より梨苗導入植栽 
   -「県農会報第二五号」
 (8) 明治二四年、温泉郡和気村太山寺渡部吉太郎山林開墾梨植栽 
   -愛媛県農会明治四三年発行『愛媛の果樹』
 (9) 明治二八年、温泉郡道後村持田三好保徳、内田実と共に桑原村東野に梨及びりんご園(四ha)開園
   -『愛媛県果樹園芸史』
 (10) 明治二八年、温泉郡桑原村畑寺、吉田氏義梨植栽
   -『 同上 』
 (11) 明治二九年、伊予郡砥部町宮内、前田英五郎梨栽培を始める。
   -『砥部町誌』
 (12) 明治三〇年、温泉郡久米村仙波八三郎梨植栽
   -『愛媛県果樹園芸史』
 (13) 明治三〇年、温泉郡小野村北梅本、山田融(長浜町出身)山林四ha開墾梨植栽、更に夏ミカン・モモ・カキ・除虫菊等特用作物の栽培を試みる。
   -『小野村史』
 (14) 明治三〇年、温泉郡和気村太山寺小池梅吉梨栽培を始める。
   -『愛媛県果樹園芸史』
 (15) 明治三〇年、伊予郡南伊予村宮ノ下大塚幸吉梨栽培
   -『 同上 』
 (16) 明治三二年、小野村播摩塚に内田眞香園(内田実)、一〇haの開墾に着手梨園の大規模経営を図る。これに刺激されて、小野村大尺寺の渡辺七郎、北梅本の渡辺常三・宮内多三郎・宮内兵三郎、平井谷の三上栄五郎等が開墾し梨と共にミカンを植えたものもあった。                    
   -『 同上 』
 (17) 今治市「新谷の梨」は、明治三二年、丹下米之助・丹下好太郎が埼玉県安行から苗をとり寄せ(品種淡雪)植栽した。
   -『 同上 』
 (18) 明治三二年、砥部町宮内、山岡吉五郎梨植栽
   -『砥部町誌』
 (19) 明治三九年、温泉郡久枝村久万ノ台、白石忠五郎大阪より梨苗導入
   -『愛媛県果樹園芸史』
 (20) 明治三九年、伊予郡砥部町岩谷口、佐川岩太郎・日野陽三郎、万年西岡丈吉梨栽培   
   -『砥部町誌』
 (21) 明治四〇年、三津浜町米谷徳太郎・米谷市三郎、北山のりんご園の跡に新長十郎(一五〇本)早生赤(一五〇本)を大阪泉北郡横山村より導入植栽
   -『愛媛県果樹園芸史』
 (22) 明治四〇年、温泉郡久枝村渡部善太郎・井上又将梨栽培
   -『 同上 』
 (23) 明治四〇年、伊予郡砥部町岩谷口、原田馬太郎梨植栽
   -『 同上 』
 (24) 明治四二年、伊予郡砥部町外山、大内太郎・門田利太郎・石司佐一郎、岩谷口、原田馬太郎、北川毛、政岡弥三郎・楠音五郎、梨栽培を始める。
   -『砥部町誌』
 (25) 越智郡波方村の「養老梨」は、大正三年、八木愛次郎・河野伊佐吉・八木静夫らが植栽した。   
   -『愛媛県果樹園芸史』

九、りんご
 (1) 明治五年、伊豫市南山崎、佐川与一郎・福井倉吉・吉沢兼太郎が梨と共にりんごを植栽したが、りんごは病虫の被害により失敗した。
   -『伊豫市誌』
 (2) 明治一〇年ころ大阪の苗木商が持参のりんご苗を興居島村の山本権四郎これを買入れ試作、明治一四・一五年ころ三津市場に出荷好評を受け、島民の多くが接木植栽した。              
   -『松山市誌』
 (3) 明治一二年、摂津の苗木商が西洋りんご苗(品種は後に中成子と紅魁と判明)を持参、興居島村由良の東矢馬吉三本、泊の山本久五郎八本、山本喜八郎二本、計一三本を植栽          
   -『愛媛県果樹園芸史』
 (4) 明治一六年、愛媛県勧業課より、りんご・天津水蜜・上海水蜜の苗木を興居島村に配布、田村昌八郎・篠塚國松・堀内新三・山田元五郎・中本小三郎等が試作
   -『愛媛県果樹園芸史』
 (5) 明治二四年、愛媛県勧業課より西洋りんご苗数種を興居島村に配布、前項五人試植 
   -『 同上 』
 (6) 明治二四年、興居島村田村昌八郎(田村晴耕園主)明治二三年東北を視察、りんご栽培法を研究帰省、翌年東京・岩手・青森等よりりんごの苗木(三一種を比較研究)をもとめ栽培を始む。
   -「県農会報第二五号」(興居島村農友会田村晴太郎報告)

     田村昌八郎の東北視察については、明治二九年一一月二六-二九日に田村昌八郎と山田元五郎の二人が、りんごの本場弘前の後凋園(園主菊地楯衛-京都大学名誉教授菊地秋雄博士の父)に宿泊している記録もある。
       菊地秋雄著昭和一三年発行『菊地楯衛遺稿』
   -『愛媛県果樹園芸史』
 (7) 明治二八年、温泉郡浅海村尾上又次郎りんご・梨・ネーブル等を植栽
   -『 同上 』
 (8) 明治三〇年、道後村持田三好保徳小野村播摩塚横原の山林五haを開墾りんご栽培を始める。   
   -『小野村誌』
 (9) 明治三一年、伊予郡原町村、山岡吉五郎、りんご(中成子・紅魁)を植栽、成果得られず梨に転換   
   -『愛媛県果樹園芸史』
 (10) 明治三九年、越智郡宮窪町「友浦のりんご」は、青野太郎吉・越智友吉が興居島村よりりんご苗一三本を持帰り、その後更に越智友吉・矢野藤作・今川清作らが興居島から苗を取り寄せ山を開いて植えたが、綿虫のため多くはミカンに転換した。今村清作は栽培を続け、大正末期にりんご栽培で巨利を博し、刺激されて多くの者が栽培を始めた。
   -『 同上 』

一〇、桃
 (1) 嘉永四年(一八五一)興居島村由良の小林佐七が北浦の山林五反歩を開き桃苗五〇〇本(摂津東野の種苗家を訪ね苗を購入)を植えた。これが興居島の果樹栽培の最初で、安政年間に再び摂津に行き、梨・枇杷・柑橘・梅・桐・シュロを導入植栽した。世人は「佐七モモ」と称した。                   
   -『松山市誌』

     小林佐七に次いで安政年間に桃を植えたのは、由良の坪内市蔵・東田甚蔵(俗称好五郎といい「好五郎モモ」の名がある)小田佐左衛門・山本与左衛門、泊の小池幸作、船越の山内重五、鷲ヶ巣の東矢馬吉・中矢光五郎・中山佐五次・松本権左衛門・酒井久次郎、北浦の中野松五郎、門田の寺本喜名吉らである。
   -『愛媛県果樹園芸史』
 (2) 安政二年(一八五五)ころ興居島村大字由良小林佐七郎桃樹を北浦の開墾地に栽培、是れ本村に於ける果樹栽培の濫觴なり、降って安政六年(一八五九)のころ梨樹栽培を試み農家に勧誘す。
   -愛媛県農会明治三四年発行「県農会報」(興居島村農友会田村晴太郎報告)
 (3) 明治八年、興居島村、田村昌八郎がはじめて字梶之波の山林(〇・一ha)を開墾桃植栽
   -『愛媛県果樹園芸史』
 (4) 明治一六年、愛媛県勧業課、天津水蜜・上海水蜜の苗を興居島に配布、田村昌八郎等(五人)が試作。
   -『 同上 』
 (5) 明治二六年、温泉郡垣生村西垣生、油家浜太郎兵庫県川辺郡より桃苗を導入植栽  
   -『伊予のくだもの』

     松山市西垣生、吉田浜の砂丘に桃が盛んに栽培された時代があり、伊予節の文句に唄われたが、昭和の初期砂丘の一部に天津水蜜が一haばかり残っていた。昭和一五―一六年戦争のため飛行場となった。
   -『愛媛県果樹園芸史』
 (6) 明治二六―二七年、桃栽培はじまる。
   -『新今治市誌』

一一、枇杷
 (1) 明治四三年を起点として約一〇〇年前(一八一〇)伊予郡南山崎村上唐川畑中の中村清蔵が枇杷を郡中町で売り金になったという。
   -明治四三年発行『南山崎郷土誌』

  イ、池田憲司著一九二五年博文館発行『最新枇杷栽培法』の「唐川枇杷の沿革」の項には、「大正一四年より一五〇年前、中村清蔵なるもの少しばかりの枇杷を栽植し、郡中町に売りに行き、売れ行き意外によく皆おどろいた」とある。本書によれば中村清蔵は、安永時代(一七七二-一七八〇)のことになる。    
   -『愛媛県果樹園芸史』

  ロ、前記中村清蔵の子(喜三太)が天保一二年(一八四一)生れで、明治四年七〇才で死亡したと言う(沢両東四郎研究)。それからみると清蔵が枇杷を販売したのは天保時代(一八三〇―一八四三)と推定される。
   -『 同上 』

 (2) 天保時代に大洲藩主加藤泰幹は吉沢藤蔵に枇杷苗数本を与えて殖産を奨めたので、多くの人々も盛んに植えるようになった。
   -『伊豫市誌』
 (3) 明治二八年、伊予郡唐川の影浦定次郎(一八四〇-一九一〇)は、和歌山県下を視察、枇杷の接木による品種改良を知り、同地から唐枇杷の穂木を持ち帰り普及した。唐川には、品種改良や導入者の名をとり「長さん枇杷」、「兼さん枇杷」などの名が残っている。                      
   -昭和三七年発行『南山崎果樹園芸誌』
 (4) 明治三六年、南山崎村吉沢兼太郎が淡路島津名郡青波村園芸組合長池本文雄(県会議員)を訪ね田中枇杷の苗二〇本を導入普及した。(広島で枇杷を出張販売中、田中枇杷(淡路産)の優秀さに押され改良を志した。
   -『伊予のくだもの』

     池田憲司著「最新枇杷栽培法」によれば、吉沢兼太郎が桜島・長崎(茂木)・淡路島・和歌山(山内村)を視察し、田中種・茂木種・楠種・鹿児島白種・平張種などの品種を持ち帰ったのは明治三二年とあり、若干年代が違う。
 (5) 明治三四年興居島の枇杷は、六二本現存していたという。それが大正七年一七町歩、昭和五年一〇四町歩に拡大した。 
   -『松山市誌』(晴耕園記録)
 (6) 大正七年、越智郡津倉村本庄、村上忠一山林開墾枇杷植栽
   -『吉海町誌』

一二、富有柿
 (1) 明治三九年、伊予郡砥部町岩谷口、日野陽三郎の弟日野富三郎(東京帝国大学農学部学生)岐阜より富有柿数本を持帰り、陽三郎が植付けたのがはじまりである。                        
   -『砥部町誌』
 (2) 大正七年、伊予郡原町村七折の小笠原葵と宮内の高市亀太郎が富有柿園を開園したのが経済的栽培のはじまりである。      
   -『 同上 』
 (3) 昭和一〇年ころ喜多郡大瀬上和田地方の篤農家が柿の栽培に着目し、山野を開いて富有柿の栽培をはじめた。
   -『内子町誌』

一三、あたご柿
 (1) 愛媛県の特産である「あたご柿」は、周桑郡石根村(現丹原町内)の原産である。聖武天皇の神亀年間(七二四-七二八)に石根村大頭へ京都の貴船神社を勧請した時に伝来したといわれる。その後天保年間(一八三〇―一八四三)に穂木を接ぎ、その枝によって繁殖し、原木は枯れた。
   -昭和三四年発行『愛媛県の果樹』
 (2) 大正二年、周桑郡田野村長野の櫛部國三郎が優良系統を選抜したのが現在のあたご柿である
   -『 同上 』

     柿は古くから本県各地の山野や畦畔、宅地などに在来種が点在しており、明治末期に国の園芸試験場が全国の柿の品種(三、〇〇〇点)を分類調査報告書を出版している中に愛媛県のものとして、甘柿三、渋柿三三(うち二つは異名同種)がある。                         
   -『愛媛県果樹園芸史』

一四、栗
 (1) 徳川三代将軍家光のころ大洲藩主加藤泰典の参勤交代の際、その随行者の一員であった「太兵衛」なるものが栗の実を藩公に納め、これを将軍に献上し賞讃された。これが現在の「赤中栗」であったと伝えられている。
   -『中山町誌』

     前記に対し別の記述として「寛政年間(一六二四-一六四三)大洲藩主加藤泰興が参勤交替の献上品として、中山の百姓太兵衛に命じて栽培させたという」がある                
   -『愛媛県果樹園芸史』

 (2) 明治一〇年、中山町柚ノ木馬曳二宮冬五郎が郡中で栗一升を二銭で売ったのが商品として販売されたはじめとされている。
   -『中山町誌』
 (3) 明治三七年、中山町高岡の梶野宇太郎が赤中を(〇・六ha)、山内惣衛が赤中及び早生種を(〇・五ha)園として栽培した。
   -『愛媛県果樹園芸史』

    中山栗は、自然林の形から明治一四-一五年ころから次第に園の形に改良され、小池部落では、接木が発達し、明治三一年に一、四〇〇本、明治四四年に二、五〇〇本となった。       
   -『 同上 』
 (4) 昭和初期東宇和郡農会技師林重幸は、城川町の栗栽培希望者と先進地中山町を視察、苗木を導入、また城川町土居地区の森田喜三郎も中山町より種苗八〇〇本を導入し山林を開墾して栽培をはじめた。   
   -『城川町誌』