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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

六 米の過剰と水田利用再編対策


 米の過剰

 食糧増産政策の転換は昭和二九年ころから始まった。すなわち国際収支の悪化に対応するための緊縮財政がとられたことと、アメリカの余剰農産物の受入れのためのMSA協定(昭二九)などにより 「食糧増産」は国の最重要政策ではなくなり始めた。アメリカ産小麦・脱脂粉乳・大豆は大量に供給されて安い外国農産物に依存する体制が強まった。
 しかし、あらゆる手段を尽くしてとられた食糧増産政策と、相対的に有利な米価の影響を受け、さらに生産技術の進歩と普及により、米の生産量は年々着実に増加する傾向を示し、昭和三〇年の大豊作を契機に一、〇〇〇万t台の高位安定時代に入る。
 一方、食糧不足時代から進められていた食生活改善運動の成果により、食生活の欧米化が定着し、一人当たり米の消費量は昭和三七年の一一八・三㎏をピークに減少し始める。さらに昭和四二・三年の連続豊作で一、四〇〇万t台の生産を見るに至って米は確実に過剰となった。米の需給関係は図6―4に見るとおりであるが、この結果昭和四三年には全国で二四〇万tの過剰米が見込まれるに至った。

 生産調整と水田利用再編対策

 米の過剰による生産調整問題は昭和八年ころ起きたことがあるが実施しなかった。しかし、長期需給見通しでも過剰基調が見込まれたため、ついに昭和四四年試験的ではあれ、史上初の生産調整を実施した。翌四五年生産調整を含む「総合農政の推進についての基本方針及び生産調整実施要綱」を決定し、この年一三〇万tの生産調整が実施された。ついで四六年から五年間にわたって、生産調整と稲作転換が推進された。五一年からは水田総合利用対策、水田利用再編対策として引き継がれている。
 本県でも昭和四四年に初めて一一九haの生産調整を試験実施した。その後については図6―4のとおり順調に推移ほとんど目標を上回る実績を示している。米の需給事情などによって年により差があるが、最近は面積で六、五〇〇ha~六、八〇〇ha、数量で二万三、〇〇〇t~三万三、〇〇〇tであった。
 なお、生産調整は四五年は、休耕比率が五五%であったが年々低下して四八年には三一%となった。転作は果樹が非常に多かった。しかし五〇年以降は、野菜・麦・大豆・飼料作物などを重点作物として奨励し、主産地化を図るなど、構造政策の一環として実施されている。



図6-4 米需給の推移(全国)

図6-4 米需給の推移(全国)


表6-25 水田利用再編対策の推移と愛媛県の実績

表6-25 水田利用再編対策の推移と愛媛県の実績