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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

三 主要食糧の生産の回復


 生産量の戦前水準への回復

 戦前、昭和一〇年~一二年の米の平均生産量は約一四万二、〇〇〇tであるが、昭和三〇年には約一五万九、○○○tとなった。戦中・戦後を通じて減退し続けていた生産量が、あらゆる角度からの食糧増産対策がようやく実を結んで、戦後一〇年にしてついに戦前水準を一二・二%上回った。また麦類は昭和二九年に、戦前の水準を突破し戦後最高を記録した。甘藷は戦中から年々増産していたが、昭和三〇年には戦前平均の二・二倍に達している。
 このような成果を収めた理由は、前述したように緊急開拓事業とか土地改良事業、あるいは特殊地帯農業振興策、肥料、防疫など具体的な施策に負うところが大きかった。しかし同時に終戦後いち早く実施された農地改革、農業協同組合の整備、農業改良普及制度の創設、農業金融制度の充実、米価政策など戦後農政の根幹となった諸施策の成果でもあった。
 ところで、米・麦・甘藷の生産増加について、戦前水準とそれを上回った昭和三〇年を比較してみると、米の作付面積は終戦時を上回ったもののまだ八%余り少ない。麦類の作付面積は三・三%、甘藷の作付面積は約五〇%ほど増加している。
 次に一〇a当たり収量を比較すると、米のばあい二二%、麦類一四・八%、甘藷四四%の増加となっている。つまり甘藷は作付面積の増加と単位当たり収量の増加がそれぞれ大きな理由である。しかし、米と麦類については、単位当たり収量の増加こそが戦後の生産力回復の鍵であった。それらの技術については別の項で記述するが、若干の事項をあげておく。

 (1) 低位生産地の調査と耕土培養事業の推進
 低位生産地については昭和二二年から農事試験場で調査を開始した。その結果、県下には強酸性以上の耕地が水田の約六・四%、畑の約三九%。また、不良火山性土壌は水田で一、二二〇ha、畑で二、一二五ha。秋落水田は実に約二五%、九、三一六haが分布し、そのほか常習塩害地などもあった。これらに対しては、耕土培養法に基づいて、含鉄物や石灰の施用などの改良事業が行われ大きな成果をあげた。

 (2) 肥料の増施と施肥方法の改善
 化学肥料の生産回復に伴って、施用量が増加したが、同時に化学肥料偏用の害が出て来た。そこで昭和二九年からは、県の施肥合理化運動が進められた。

 (3)病害虫防除の進歩
 威力的な新農薬の出現と、高性能の防除機械の普及によって、効果的な病虫害防除が行われるようになったが、昭和二六年の植物防疫法の改正により、病害虫発生予察事業の拡充と、防除組織の整備が進められ、画期的な拡充進歩をみるようになった。

 (4) 保温折衷苗代および水稲早期栽培の普及
 ビエール・ポリエチレン・油紙などを利用した早期育苗によって、早期植付を実施した。それによって成育期間を移動し、寒冷地の稲作技術の安定を実現し、さらに宿命的といわれていた台風被害を回避することもでき、停滞気味であった西南暖地の生産力向上のための新しい技術体系を確立することとなった。

 (5) 優良品種の普及
 品種改良が土地生産性の向上の上に果たした効果は極めて大きい。これまでの品種改良は、①多収穫品種の追求 ②安定品種の創出 ③育成期間の変化 ④品質の改良などに重点がおかれたが、稲・麦・甘藷の品種改良にその成果が大きかった。また、この新しい品種が迅速に濃密に普及したことが、戦後の特色であったが、それには主要農産物種子法の公布と、戦後いち早く公布された農業改良助長法(昭和二三年)に基づいて創設整備された農業改良普及制度に負うところが大きかった。



表6-20 主要食糧生産量、戦前水準へ回復

表6-20 主要食糧生産量、戦前水準へ回復