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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

三 学徒・軍隊の勤労奉仕


 学徒の勤労奉仕

 昭和一九年八月二三日に学徒勤労令、女子挺身隊勤労令が交付され、二〇年一月から食糧増産のため農学校、国民学校高等科生か通年動員されるようになるが、学徒による農繁期の自発的勤労奉仕は事変勃発の昭和一二年の一一月に、旧制松山高等学校の運動部員(ボート部一四名)が温泉郡三内村東谷の応召留守家庭の稲刈作業を援助したのが最初であった。昭和一四年の秋に松山農学校生が稲刈作業の奉仕に出役し、一五年春の農繁期には各地で中学生の奉仕隊が食糧・飼料・木炭などの増産作業に出動した。同年一一月には松山高等学校生徒三〇名が温泉郡石井村、久米村両村の応召遺家族の稲刈作業の奉仕に出動し刮目された。労力不足が決定的となり、農繁期の適期作業が脅かされるようになった昭和一六年の初頭に、全国的運動として青少年学徒の動員計画が発表され、本県もこの示達により次のような指導指針を定め、学徒の援農活動を積極的に進めるようになった。

        青少年学徒勤労動員指導指針
  一、学徒が食糧増産に関し関係機関より労力援助を求められた時は速に学徒を動員し所要の勤労作業に従事せしむること
  二、学校は可能な限り直営の農場を設置しこれに学徒を動員して食糧増産に従事せしむること
  三、農繁期その他必要あるときは授業を廃し自家農業に従事せしむること
  四、必要に応じ授業日又は授業時間を勤労作業に振り替え、一学年を通じ三〇日以内の日数は授業を廃し勤労作業に振り
   替えて差支えなく、勤労作業に振り替えた日数又は時間はこれを授業したものと見なす
  五、作業の種類
     開墾、土地改良、麦刈、田植、茶摘、草刈、除草、麦調整、稲刈、耕耘、堆肥の造成又は収穫物及肥料の運搬食糧並飼
   料の増産に最も関係深きものを選択し特に労力不足のため荒廃せんとする土地又は未墾地、休閑地等を活用することに
   努める

 奉仕活動の実況

 昭和一六年の勤労奉仕は、この方針に基づく年間三〇日におよぶ学徒の総動員に加え、帰農命令で帰村した出稼部隊、各種団体、職場で編成された勤労奉仕班の出動などにより、四月から七月の農繁期間中に出動した奉仕人員は男女、延人員で一七万人に達した。
 初期の勤労奉仕、とくに学徒の奉仕活動は主として春秋二期の収穫作業を対象としていたが、活動が本格化した昭和一六年以降は、甘藷の挿苗、田植、麦蒔、病虫害の防除、甘藷の特設育苗、蜜柑野菜の収穫、藁工品、自給肥料の増産、軍用材の増産、湿田の土地改良、災害復旧工事(昭和一八年七月大水害)など奉仕の対象が広範囲に拡大し、昭和一六年の年間出動延人員は二〇万人に達した。
 一八年七月に、県は雑穀増産のため県内の木材伐採跡地の開墾可能地、休閑地を合わせた二、〇〇〇町歩の中から五五〇町歩を学徒の勤労奉仕で開発する計画を立て、大量の学徒を動員した。
 勤労奉仕で農村から最も歓迎され、成果も顕著であったのは、春秋の農繁期に各地で実施されていた共同炊事(昭和一七年より急増)の援助に出動した都市の女子青少年団員の奉仕であった。奉仕者のため共同炊事の基礎知識、奉仕の心得を授ける大規模の講習会が各地で開催されたが、奉仕者の中には、一五、六歳の青年学校生も数多く混じっていた。

 軍隊の勤労奉仕

 農村の労働力が極度に窮迫した昭和一九年の春の農繁期は一般の勤労奉仕、学徒の動員をもってしても労働力の確保が困難な情勢となり、七月六日、七日の両日、松山駐屯の九九部隊三五〇名が五名宛の七〇班に分かれて拓南、久米、石井の応召農家七〇世帯に出動し苗取、田植作業に従事した。
 第一次世界大戦後の著しい産業の興隆で、農村青年の都市への流出が急増し、農繁期における適期作業の完遂が困難となり始めた大正八年から、軍人の農繁期帰休が実施されるようになったが、戦時下のしかも連日連夜空襲警報が鳴りひびいている中での軍隊の援農出動は異例のことであった。戦争末期の農村では、労働力の不足がそれほど深刻になっていた。