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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

第二節 恐慌下の農業


 養蚕業の衰退と推移

繭価の暴落、養蚕業の衰退とともに、養蚕農家戸数、桑園面積は急速に減少した。蚕糸業界の隆盛に雁行して明治いらい増加の一途をたどり続けた県下の養蚕農家・桑園面積は、昭和四年に両者とも最高に達し、養蚕農家は五万六、八〇五戸(全農家の四三・五%)、桑園面積は一万四、七六七町歩(畑面積の三三%)になったが、この年を頂点として翌五年以降は双方ともに漸減の歩趨をたどり、とくに昭和九年(未曽有の大旱ばつで桑園が全滅、晩秋蚕の産額が前年の一割に著減の地帯もある)以後は急激に減少した。
 養蚕農家の減少は、作目の転換・離農・ブラジル移民(昭和九年南米移住四一家族二八八人)・北海道・阪神・宮崎県方面への出稼(三万五千人)などによるものである。昭和初期の県下の農家戸数は、産業界の不況、解雇による帰農者の増加(年間四、五〇〇人)で一時的に微増したが、養蚕農家は逆に減少した。
 桑園面積の減少は、水田への還元のほか果樹(温州蜜柑、葡萄)・蔬菜(西瓜)・工芸作物(除虫菊、菜種、ラミー)などへの転作によるものであった。蚕糸業界が隆盛をきわめた大正時代には、養蚕地帯のほか米麦作地帯にも、水田に桑を栽植して規模拡大、副業養蚕を営む者が続出し、

 米の成る田に桑の木植えて
  おまえ喰う気か桑(喰わ)ぬ木(気)か

と歌われ警告されたものであるが、養蚕の不況でそうした桑園の多くが、再び往年の水田に還元された。

 農作物の変遷

 不況克服のため、桑園の整理転作を中心にして各種の作物、副業が奨励され、日中戦争勃発までの約一〇年間に農作物が大きく変貌したが、最も急速に成長したのは、除虫菊・西瓜・菜種・葡萄・温州蜜柑の五作物である。除虫菊は昭和初期から将来性のある有望作物として嘱目され、越智郡の島しょ部を主産地として栽培面積が漸増していたが、昭和六年七月に越智郡自治会が中心となり、広島、岡山の三県で除虫菊同業組合が結成され、同組合の活動により栽培農家が急激に増加した。とくに昭和九年以降は不況対策に加え、県衛生課が薬草増殖の見地から積極的に奨励したため、栽培農家・栽培面積ともに著しく増加した。
 菜種は油粕の輸入防止を目的に奨励された。なおこの年から県営検査の対象作物に除虫菊と菜種の二作物が追加された。
 以上のほか恐慌を転機としてその後、増加のすう勢をたどったものは、果樹の夏柑・桃・枇杷・柿・栗、蔬菜類の馬鈴薯・大根・牛蒡・玉葱・トマト・胡瓜、特用作物の(木へんに巳)柳・葉煙草のほか畜産では、豚・兎などがあり、特殊なものとしては、小麦・ラミー・糸瓜・落花生などである。
 小麦は昭和七年に国策として樹立された小麦増殖奨励五か年計画による、全国的規模の増産運動で栽培面積が急速に増加した。本県の小麦面積は昭和六年には四、六六四町歩(明治大正期は五千町歩を超えていた)に減少していたが、運動に呼応した強力な増産指導(増殖計画宣伝の郡大会、現地講習会の開催など)により、昭和一一年の作付面積は五割増加の七千町歩弱に急増した。
 ラミーは昭和九年から、国防の見地に立脚した輸入防遏の目的で奨励され、本県では同年四月に上浮穴郡明神村で栽培試験を開始し、その後、桑の代作として奨励され養蚕地帯の一部で増殖された。糸瓜は農事試験場、落花生は西宇和郡の篤志家によって試作され、有望な換金作物として注目されたが、広く普及するには至らなかった。作物の交代が激しく進むなかで衰退したものも少なくない。大麦・大豆・小豆・玉蜀黍・粟・豌豆・茶・櫨(西宇和郡、城辺御荘では不況下で増加)などは恐慌以降、減反の傾向をたどった代表的な作物である。




表4-5 養蚕農家

表4-5 養蚕農家


表4-6 農作物の変遷

表4-6 農作物の変遷