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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

第三節 米の投売防止運動


 運動の経緯

 大正九年の一二月から翌年にかけて、全県下、とくに松山市を中心として米作農家により米の投売防止運動が展開された。大正七年の米騒動を米価の暴騰に対抗、憤激した消費者の不買運動とすると大正九年のこの騒動は米価の激落に反発した生産者の不売運動であった。
 大正九年の初頭には五〇円(一石)台を維持していた米価が、九月に入って三〇円台に急落し、年末の一二月には二六円三七銭(東京市場)に暴落した。その一二月二日に神戸市で兵庫県農会ほか五府県農会(本県も含まれる)の主催で、関西二二府県農会長と農政倶楽部の代表者が参集して大会が開かれ、この暴落対策として米の投売防止運動の決行が決議された。続いて帝国農会の主催で全国道府県農会代表者協議会が開催され次の運動方針が策定された。

     米投売防止運動方針
(一) 各府県は一二月二五日迄に一斉に投売防止を実行すること
(二) 価格は三五円を以て最低価格とする
(三) 目的の価格に達したる時は、平均売を励行すること
(四) この目的を達成するため産業組合、府県農工銀行、農業倉庫等と協調して金融の便を講ずること
(五) 目的達成のため農民の強固な結束を図ること

 本県の運動と経過

 運動に参画した府県は、三府四二県に達したが、本県では兵庫大会の報告と運動の是非を協議するため、一二月一〇日に郡農会長・郡農政倶楽部員・倶楽部関係の県会議員その他五六名が出席し、激論二時間に及ぶ討議のすえ、次の投売防止運動方針と米穀投売防止組合規約準則が決議された。

      愛媛県米穀投売防止運動方針
一、応急対策
 本年の米一石の生産費は少くとも四拾円を下らず。しかるに最近の米価は著しく暴落し、農家の経済は非常なる窮境に陥らんとす。是れ独り農村の危急存亡に関するのみならず、又実に将来食糧の自給独立の基礎を破壊するものなり。仍て我農会並農政倶楽部は、農村自衛策として差当り左の事項を決議し極力之が実行を期す。
 (1) 米価一石参拾五円を以て最低価格とし、夫れ以下に於ては売却せざること
 (2) 此の目的を達成するため左の方法をとること
  一、金融及経済を円満ならしむることを期し、各種業者の了解を求むること
  一、平均売を目的として共同販売をなすこと
  一、投売防止規約を定め組合を設くること
  一、農会及農政倶楽部は極力実行に尽力すること
  一、実行は全県一斉を期すること
二、恒久的対策
 (1) 普く法令により重要物産同業組合を設立すること
 (2) 府県農会連合販売斡旋所を活用し米麦の平均売を奨励すること
 (3) 農業倉庫の普及利用に努むると共に籾貯蔵の方法を奨励すること
 (4) 系統農会、産業組合又は地主会等の活動を促し一層低利金融の便を図ること
三、政府当局に対し建議又は要望する事項
 (1) 米の買上を要望すること
  但し其数量は五百万石以上とし価格は生産費以上たること
 (2) 外米の輸入関税の増率をなすこと
 (3) 低利資金の供給を一層潤沢ならしむること
 (4) 常平倉の急設を図ること
 (5) 米を国家管理とすること
 (6) 肥料を官営とすること
     附帯決議
 農業機関新聞の発刊を実現せしむべく帝国農会に要望すること

        米穀投売防止組合規約準則
第一条   本組合は米価の調節を計り、米穀所有者を保護するを以て目的とす
第二条   本組合は区域内に居住する米穀所有者を以て組織す
第三条   組合員は当分の内、米価一石参拾五円以下にては米穀の販売をなすことを得ず
第四条   組合員にして金融関係のため米穀販売の必要を生じたるときは其旨組合長に申出べし
第五条   組合長は前條の申出を受けたるときは金融及決済の円満を図る事に尽力すべし
第六条   本組合事務所は○○○に置く
第七条   本組合に組合長一名、協議員若干名を置き何れも組合員会に於て選挙す
第八条   組合長は本組合に関する一切の事務を処理す
第九条   協議員は組合の重要事項に関し協議をなす
第十条   本組合員会並協議員会は必要に応じ随時之を開催す
第十一条 本組合の経費は有志の寄附又は組合員の負担とす

 この決議(運動方針)に基づき、温泉郡では一二月一三日に郡農会の主催で町村農会長、郡内農政倶楽部代表者と有志の会合を開き、続いて町村ごとに一斉農民大会を開催し、さらに町村農会技術員会議を開いて指導督励の具体的方策を決め、二〇日から郡内を三区三班に分けて運動の周知徹底を図る宣伝講習会を実施して生産者の団結と積極的な参加を促した。
 全町村の講習会が終了すると同時に、二二日から松山市の関門(新立口・立花口・小栗口・木屋町口・三津口など)と北条、横河原などの要所に監視員を配置して、出穀状況と販売価格を調査し、三五円以下の販売者があれば町村と氏名を報告させ、当人と町村長に警告を発して運動の徹底をはかった。
 温泉郡に続いて伊予郡(一四日)、周桑郡(一四日全郡大会、二四日町村一斉農民大会)、越智郡(一五日)、東宇和郡(一七日)、宇摩郡(二〇日)、新居郡(二二日)、南宇和郡(二三日)、喜多郡(二四日)の各郡でも相次いで大会が開催され、県農会、郡農会の技術員はその指導と運動推進のため年末、年始の休暇を廃して奔走した。運動は翌大正一〇年の迎春後も続けられたが、活発な本県の運動は全国から注目された。
 ちなみに前記の運動方針には明記されていなかったが、松山市周辺の町村では農民大会の要望により、投売の防止に加えて松山市内の人屎尿の汲取を拒否することを申し合せていた。しかし零細貧農にとって人屎尿は不可欠の麦肥であったため、実践者がなく申し合せに終った。

 投売防止運動の背景と成果

 投売防止運動の直接の原因は、米価の暴落であったが、真因は二年前の米騒動にあった。初頭から米価が暴騰していた大正七年の七月に富山県滑川町で発生した米騒動が一日にして全県に波及し、さらに三週間で三府三〇県に飛火して各地で焼打(本県でも松山、郡中で発生)の暴動が続発し、戒厳令が布かれ軍隊が出動する大騒動に発展した。この米価の暴騰について言論界は筆をそろえて農家の売惜しみをとがめ、米価の激騰は生産者が米を喰うためであると論難する新聞もあり、これに類する言辞がいずれの新聞・雑誌にも散見され、米作農家を侮べつしたかかる問罪的論説が生産者の激怒を募らせていた。
 騒動が全国に拡大した大正七年の九月に、本県の米価は京都府・徳島県と並び全国中の最高値となり、その原因が農家の売惜しみにあるとして、穀物収用令(同年八月一六日公布)の発動を用意して農商務省から係官が現地調査のため来県した。これに対して一部の村長、有志により農民暴動を起こす計画が準備され、緊迫した険悪な空気が漂っていた。係官の現地踏査に基づき、九月二三日から四日間、県庁で対策会議が開かれた結果、幸いにして収用令の宝刀は鞘を払うことなく終ったが、政府、言論界の農民圧迫に対する不平不満はその後も根強く農村に沈潜していた。その不平不満のうっ積が米価の暴落を引金として爆発したのが投売防止運動であり、本県の運動が全国からかつ目されるほど活発に展開された背景には以上のような経緯があった。
 投売防止運動は、標榜した最低価格の三五円を貫徹するに至らず、また農村内部から投売防止組合の破壊者が続出して統制が崩れ失敗に終った。しかし運動の不活発な地方や弛緩した時期は、米価の惨落が顕著であった事実からみても運動は決して無意味ではなかった。また米騒動に続いてぼっ発した生産者によるこの投売防止運動は、消費者に米の安定的生産と供給の重要性を認識させると同時に、系統農会が多年にわたり主張し要望していた米価調節政策の実現を促す決定的な最後の起爆剤となり、翌大正一〇年に米穀法の制定をみるに至ったことは運動の歴史的成果として評価することが出来る。
 また生産者に対しては、この運動により共同活動の重要性を教え、その後の農政運動、農産物の共同販売(平均売)の促進、米穀検査等級制の実施(大正一一年)などに大きい影響を与えた。投売防止運動が失敗のかたちで閉幕した直後の大正一〇年三月二六日から三日間、松山市で開催された町村農会長の反省会は運動の成果を次のように総括している。「農家として生産物を高価に売らんとする行動は、結果のいかんにかかわらず必要なる行動であって、たとえ無効に終ることあるも中止すべき事ではない」(県農会報二二〇号)、県農会幹事の岡田温も運動を次のように考察している。
 「米の投売防止運動の可否については、農業問題としても社会問題としても反覆考察せねばならぬ重大問題である。十年、二十年前の思想で判断すれば猶予なく一言にして不可と断ずるであろう。即ち多数の消費者を脅かすような生産者の同盟的運動は社会道徳より視て悪い事である。しかし政体の変化や社会組織、経済組織の欠陥や、産業政策の不徹底の結果、古来の道徳標準で築いた人道をぼんやり歩行していたのでは、何時も他の犠牲となり文明の恩典に浴すことの出来ない破目に陥るおそれのある現代においては、単純に不都合な行動と論断することは出来ない。商工業者其他の方面にて、同業者の協力団結を以て巧妙なる自衛策を取りつゝあるを見て、従来自分の生産物の販売にも需要品の購入にも、共に商人の言うがままに服従していた農家も、漸次、目を覚まして場合により世間並の行動を取るに至ったのは当然の事である。」(岡田温:「米の投売防止運動に就て」県農会報二二〇号)