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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

五 老農と農事巡回教師


 農村指導と老農

 農会(明治二九年設立)・農事試験場(同三三年創立)・農学校(同三四年開校)の成立で研究・教育・指導の基盤が確立する明治後期までの農村の指導、勧農施策の推進は、老農や農事巡回教師によって行われた。
 日本農業の欧米式大農化を勧農の基本目標とした大久保利通は、その指導者として全国から老農を起用した。農商務省(明治一四年四月七日、内務省の勧農・駅逓・山林・博物の四局と大蔵省の商務局を統合して独立新設)が、明治一五年五月に作成の「府県老農名簿」によると、農事老練者(老農)として本県は次の五七名を推挙している。
 明治初期の通信員、勧業委員にはこの老農から選ばれた者が多く、勧農諸施策の推進や地域における農業の改良発達に大きい役割を果たしたのもこの老農達であった。

 農事巡回教師

 明治一八年に農商務省は農業改良方策の一環として、農事巡回教師設置条項(明治一八年八月六日)を制定し、農事の改良を図る指導者として農事巡回教師を設置した。
 老農は豊富な体験と、衆を動かす人望を兼備していたが、新興の科学的知識に欠けていた。農事巡回教師の設置目的は、老農の経験技術に、泰西の農学、科学的知識を加え、技術の水準と指導力の向上を図ることにあった。巡回教師は、普通農事・養蚕・製糸・製茶・糖業・害虫・牧畜の七部門に、甲・乙の二種が設置された。
 甲部巡回教師は全国を区域とした指導者で、農商務省農務局員をあて、毎年、農商務省が指定した府県のほか、とくに申請のある県に派遣され、乙部巡回教師は毎年、農商務省が定める府県に蚕種・茶業の二部門について設置され、府県内の巡回指導に従事する地方の指導者であった。乙部巡回教師の任務・活動について農商務省は次のように指示している。

     乙部巡廻教師心得(明治一八年八月六日 農商務省布達第三三号)

  第一項 農事巡廻教師は各其職務に就て実業者の知識を開き拙き者を巧にし衰えたるを盛にせんが為専ら誘導の力を尽
       すへきものなれは人に接するに温柔懇切なるへし 決して倨傲の挙動あらさるよう注意すへし
  第二項 巡廻中は其職務に就て見聞する事項に注意し若し有害と認るものあるときは細に其理由を述て説諭をなすへし
  第三項 巡廻中は其地方の勧業主務者即ち勧業課郡役所又は勧業委員と協議し実業者を招き集めて談話し又は実業者の
       質間を受けて答弁をなすへし 但可成人民執業の時間を妨けさるよう注意すへし
  第四項 巡廻先の地に農談会集談会若しくは諮問会等あるときは其席に臨みて談話し又は質問に答弁すへし
  第五項 質問中答弁し難き事あるときは其理由を詳かに記載して農務局に出し説明を乞うへし

 本県は明治二〇年と二一年に、養蚕と茶業の二部門に乙部巡回教師の設置が認められ、養蚕巡回教師には北宇和郡丸穂村(現宇和島市)の蚕業家小笠原長道が雇用された。
 乙部巡廻教師は明治二二年に停止され、農事巡回教師設置条項も明治二六年七月に廃止された。
 なお本県は明治三二年五月に技師及農事水産林業巡回教師処務規程(資料編社会経済上 二二頁)を定め、知事の補佐役として農事・水産・林業の三部門に県独自の巡回教師三名を設置した。三名の巡回教師には、農学士岡村猪之助(普通農事)、林学士勝間田重恭(林業)、技師山本勝治(水産業)が任命された。
 農村の指導者として設置された国策の巡回教師とは異なり、農林水産業の県政に関する知事の頭脳的補佐役として設置された本県独自のこの巡回教師制度に対しては「実に地方殖産界一大生面を形造るべき幸慶快事」として各方面から多大の期待が寄せられたが、岡村猪之助は翌明治三三年四月に創設の愛媛県農事試験場の初代場長に就任し、試験場の整備と共に巡回教師の業務も自動的に農事試験場に移行し、本来的な機能を十分に発揮することなく終わった。
 ちなみに甲部巡回教師は、農商務省の派遣表記録によると明治一八年から同二三年までの六年間に三七県に派遣されているか、本県の名に記載されていない。しかし伝次平日誌によると上洲の船津伝次平(天保三年・一八三二~明治三一年・一八九八明治三大老農、甲部巡回教師)が明治二四年二月に来県し、県内各地を巡回して麦作の指導をしている。この時、船津は中予一帯の麦の栽培方法を日本一と激賞している。




表2-8 伊予国老農(農商務省・府県老農名簿 明治一五年五月 種苗販売者は除く)

表2-8 伊予国老農(農商務省・府県老農名簿 明治一五年五月 種苗販売者は除く)