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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

第五節 稲作の耕種概要②


 調整作業については拠るべき資料がないが、近世初期まで籾摺作業は木臼(摺臼-図1-7)を用いていた。『百姓伝記』(延宝八年・一六八〇―天和二年・一六八二)によると、寛永元年(一六二四)ころに、中国から土臼(図1-9)を作る職人が長崎に来て製法を日本人に伝え、現在は木の臼はすたれて土臼となり、摺臼では一日一石の工程であったのが、土臼になって三石の調整が可能になったとある。『親民鑑月集』の成立を寛永六年~承応三年(一六二九~一六五四)とすると、土臼が使用されていたことも考えられるが、在来の木臼調整であったとすれば、反当たり収量を一石三斗とすると籾摺の所要労力は反当たり二・六人(一台の摺臼操作には二人を要す)約三人役となる。
 土臼が普及していたとしても、一台の土臼には五、六人の作業人員が必要なため、反当たり所要労力は木臼とあまり変わらないことになる。
 以上の田植一人、脱穀九人、調整三人の合計一三人役を前記の三三人に加算すると四六人となるが、製俵と年貢納入の労力六人を控除すると、実際の稲作労力は反当たり四〇人となる。『親民鑑月集』はこの見積について「此夫積半分、三ヶ二を以て形斗には調ゆへし 夫は専一のとるべき実少にして……」と付記しているので、右の数字は理想を述べたもので、稲作の実態はこれほど多くはなかったものと考えられる。
 近世末期の安政年代(一八五四~一八五九)の宇和島藩記録『不鳴條』によると、二毛作田の稲作反当所要労力は次のようになっている。安政期は近世の稲作体系がほぼ整った時代であるが、この近世末(『不鳴條』)と中世末―近世初期(『親民鑑月集』)の稲作を所要労力で比較すると、反当労力はともに約四〇人でほとんど変わりがなく、本田の耕起、整地労力にも大差はないが、両者間に見られる顕著な相違は、除草と脱穀調整の労力である。『不鳴條』は『親民鑑月集』に比較して除草労力は倍増し、反対に脱穀調整労力は半減している。この除草労力の増加は、除草回数の増加(推定五、六回)で作業の集約化が進み、脱穀調整労力の減少は、脱穀用具が扱箸から高能率(扱箸の四~一〇倍)の千歯に代わった結果と見ることができる。




図1-5 扱箸

図1-5 扱箸


図1-6 扱箸による脱穀

図1-6 扱箸による脱穀


表1-4 田一反作人夫積(『不鳴條』義巻四四)

表1-4 田一反作人夫積(『不鳴條』義巻四四)


図1-7 木臼

図1-7 木臼


図1-8 木臼による籾摺

図1-8 木臼による籾摺


図1-9 土臼

図1-9 土臼


図1-10 土臼による籾摺

図1-10 土臼による籾摺