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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

一 一般国道三三号の改修と三坂峠


 沿革

 藩政時代、松山城下の札の辻より土佐国境までの街道は土佐街道と称されていたが、大正九年(一九二〇)告示により県道松山―高知線となった。その後、指定変更により昭和四〇年三月二九日一般国道三三号となり現在にいたっている。同国道の改築工事は昭和三四年美川村の河口橋を単独橋梁として着工したのに始まり、続いて道路幅が狭く、交通のネックになっていた柳谷村落出地区の改良工事が、三五年より建設省松山工事事務所直轄で施工された(写真7-18)。その後は全区間の改築に着手してゆき、地すべり地帯や峠等の難工事を順調に処理し、四三年県境付近の工事を最後にすべての一次改築を終えた。
 二次改築は四一年度より始まり、松山南道路・砥部道路の建設に着手し、それぞれ順次完成させている。現在同国道は全区間が直轄管理区間に指定されており、松山第一国道維持出張所の管理下におかれている(表7-34)。


 三坂峠

 松山市と上浮穴郡久万町との境界にある標高七二〇mの峠である。急坂を伴う三坂峠があるため、古来「久万山」は隔絶された山里生活を余儀なくされてきた。明治二七年(一八九四)に三坂新道(旧国道にあたるもの)が、土佐街道の西に建設されたが、それまでは松山市荏原から久谷を経て三坂峠にいたる道が、土佐街道として往来する人々でにぎわった。しかし、この道は峠にいたるまでの最後の部落である桜(標高三〇〇m)から峠まで急峻な坂道が二㎞も続き、土佐街道最大の難所となっていた。この道は四国八八か所四五番札所岩屋寺から、四六番札所浄瑠璃寺を経て松山平野に入る遍路道でもあり、また、城下町と久万地域を結ぶ重要なルートでもあったため荷駄の往来も多く、馬子達は「えらいものぞな明神馬子は 三坂夜出て夜もどる 三坂通いすりゃ雪が降りかかる もどりゃ妻子が泣きかかる」と歌いつつこの難所に挑んだのである。
 砥部から峠にいたるかつての県道(三坂新道)の建設は、当時の上浮穴郡長桧垣伸の尽力による所が多大であった。県道の完成で、麓から峠にいたる道は土佐街道の急坂から約一〇㎞の緩やかな登り坂に変わり、明治・大正時代は主として馬車道として利用された。しかし、近道である旧道の利用は続き、明治末には松山―桜休場間及び三坂峠―久万間に客馬車の便も出来ていた。
 三坂峠を一変させたものは四二年に完成した一般国道三三号の改築(三坂峠及び砥部坂工事)であった。久万と松山を結ぶ交通の便は一挙に改善され、現在では久万から松山まで通勤・通学する者も多くなっている(写真7-19)。

表7-34 一般国道33号関係年表

表7-34 一般国道33号関係年表