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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

八 小田林業

 新興の林業地

 小田町は上浮穴郡内では久万町と並ぶ林業の盛んな町村である。その素材生産量は昭和五六年現在久万町が五・三万立法メートルであるのに対して、小田町は五万立法メートルであり、ほぼ肩を並べる。小田町の林野は町の南東部を占める仁淀川流域の小田深山と、町の中・北部を占める小田川流域沿いからなる。前者が国有林であるのに対して、後者は民有林であり、町内の林野所有形態ははっきりと地域的に二分される。小田町の林産資源の豊庫は、このうち小田深山の国有林であった。面積四五〇〇町歩に及ぶ小田深山は、かえで・かつら・ぶななどの広葉樹やもみ・つがなどの針葉樹がうっそうと繁っていた。この林産資源は藩政時代以降明治時代に至るまで、くらがり峠を越えて、小田川沿いの蔵谷の土場に馬や牛車で搬出され、そこから小田川の流送によって、大洲・長浜方面に移出されていた。小田深山の木材は明治四一年(一九〇八)久万町の落出から大野ヶ原への砲車道の開通にともなって一時久万方面に盛んに搬出された時代もあったが、それはわずか数年であった。小田深山の木材が盛んに小田川沿いに搬出されるようになったのは、大正一二年(一九二三)獅子越峠経由に新たに森林鉄道宮原線が開通して以降である。
 小田町の林業は、この小田深山の林産資源の開発がその先駆をなすものであった。小田川沿いの民有林地帯は大正年間まで雑木山が多く、そこにヒラキと呼ばれる焼畑が造成され、とうもろこし・そばなどの自給作物が栽培されるとともに、商品作物としてはぜの栽培が盛んに行なわれた。また雑木山は製炭原木としても利用され、くぬぎ炭や雑炭の生産が行なわれ、これまた内子・大洲方面に搬出された。
 小田町の民有林地帯で人工造林が盛んに行なわれるようになったのは、第二次世界大戦後の昭和二五年ころからである。昭和三五年の素材生産量は三万六六七三立法メートルであり、同年の久万町の六万五四〇二立法メートルと比べると、まだかなりの格差があった。小田町の林業が飛躍的に発展するようになったのは、昭和四七年第二次林業構造改善事業の指定を受けたころからであり、上浮穴郡の中では、久万町と比べて新興の林業地帯といえる。

 森林組合中心に発展

 小田町の素材は昭和五七年現在一般材において八〇%程度が森林組合によって集荷販売され、銘木はすべて森林組合の生産・販売である。同年の久万町の一般材の集荷割合が五〇%であり、銘木の出荷割合が四〇%程度であるのと比べると、小田町の森林組合の活動がきわめて活発であるのがわかる。久万町の林業が篤林家を中心にして推進されてきたのに対して、後発の小田町は森林組合の組織力を中心にして林業を伸ばしてきたといえる。
 小田町森林組合は、昭和三五年旧村単位に組織されていた三組合が合併して誕生した。昭和三八年一月西日本は未曽有の豪雪をうけ、小田深山国有林にも莫大な雪害木が生じた。この雪害木の残材が森林組合に払下げられたのが、森林組合に伐出の労務班が結成された契機である。以後国有林の間伐材が組合に払下げられたことが、森林組合の活動を継続させる。
 森林組合の活動が特に活発化したのは、昭和四八年上野三四郎組合長が就任して以降である。彼は「山づくりは人づくりから」の信念のもとに、森林組合の職員を林業の先進地である京都府の北山と奈良県の吉野に派遣し、磨丸太の技術導入をはかる。以後小田林業は組合自営の磨丸太の生産を一つの軸にして発展していくのである。
 森林組合の基盤強化には、三回にわたる林業構造改善事業も重要な役割を果たした。第一次林業構造改善事業は昭和三九年指定、昭和四〇~四二年の三か年間で五七一二万円の事業費でもって、生産基盤の整備や資本装備の高度化を目的に事業が行なわれた。生産基盤の整備の主眼は林道の開設であり、四線三九四五mが開通した。資本装備の高度化では、素材生産用に集材機二台、ウインチ二台、索道二台、トラックター一台、トラック一台、チェーンソー一〇台などが導入されたが、これらの機械は森林組合に導入されたものであり、これらの機械を用いて受託林産事業が盛んに行なわれるようになった。かくして、第一次林業構造改善事業は森林組合の機械装備を強化することによって、その活動基盤を強化した。
 第二次林業構造改善事業は、昭和四七年指定、四八年から五一年の四年間にわたって、二億五〇〇〇万円の事業費でもって実施された。主な事業内容は林道開設三四〇〇m、素材生産施設として林内作業車一台、トラック一台、集材機四台、フォークリフト四台、チェーンソー八台などが導入されたが、この事業で導入された画期的なものとしては、山元貯木場の建設と磨丸太生産施設の設置である(写真7-9)。山元貯木場と磨丸太の生産施設は国道三八〇号線に沿う町の中心地に建設されたが、貯木場は昭和四九年五月より市売を開始し、磨丸太の加工場でも、同年より生産を開始する。この両施設の開設は森林組合の事業を飛躍的に増大させた。第二次林業構造改善事業は森林組合の発展に花を咲かせたものといわれている。
 昭和五五年に指定された新林業構造改善事業は、林道や作業道の開設、貯木場の拡張、ケタ丸太を加工する作業用建物、製品の保管庫の改造などが計画されており、森林組合活動に実を結ぶものとして期待されている。新興の林業地である小田林業は、林業構造改善事業などによる外部資金の積極的な導入をはかることによって、林業の振興と近代化を推進しているのである。
         
 森林組合の活動
         
 小田町の森林組合は一般材の受託販売・受託林産・林産事業・椎茸販売・銘木加工販売・購買・養苗などを行なっている(表7-27)。受託販売は森林所有者が道路ぞいまで搬出している木材を森林組合が貯木場まで取って帰り、そこで販売する形態である。昭和五六年には一般材販売量の四九%に当たる一万一七五八立法メートルが販売されている。受託林産は森林所有者の立木を森林所有者にかわって伐採・造材し、それを市場で販売するが、木材販売後その売上金額に応じて立木代金を森林所有者に支払う形態である。林産事業は森林所有者の木材を立木のまま買い取る形態であるが、その取扱量は極めて少ない。木材は小田町森林組合の山元貯木場で一ヶ月に一回市売りする。木材の販売先は、松山市と大洲市・八幡浜市・宇和島市などの南予方面であり、特に南予の八幡浜市には六mの通し柱が多数販売されている。
 現在小田町の素材生産と育林作業には主として森林組合の労務班員が従事している。森林組合の伐出班は、昭和五六年現在九班で四〇名より構成されている。作業員の年齢層はほとんどが四〇~六〇才である。伐出班は昭和三八年小田深山の雪害の残材整理に際して結成され、以後その成員を増加させていったが、森林組合の労務班が結成される前には、町内の製材業者や素材業者が伐出作業員をかかえ、素材生産をしていたのである。森林組合の育林作業班は昭和五六年現在七班三五名より構成されている。育林班は昭和四八年の結成で、伐出班と比べてその結成が新しい。育林作業は従来、山林所有者が自ら実施したり、大山林所有者が縁故で雇用したりしていたが、今日では、森林組合の労務班がそれにとってかわった。年齢構成はやはり四〇~六〇才のものが多い。
 小田町の森林組合の活動を支える一つの基盤は、各集落ごとに結成されている林研グループである。林研グループは昭和三七年平野で結成されたのを手はじめに、以後昭和五五年まで各集落で順次結成されてきた。昭和五七年現在その数は一二グループ一八四名に達する。林研グループの主な機能は、林業技術の向上をはかるため、各地区で技術の研修をはかることである。各地区内には林研グループの管理する展示林があり、この展示林を舞台に、育苗・林地肥培・下刈り・間伐・枝打ち等の技術研修をはかる。林研グループのメンバーの多くは森林組合の育林班にも属しているので、ここで培われた技術は小田町全体の育林技術の向上をうながしている。林研グループは、このように林業技術の向上・普及をはかるが、一方では、森林組合の幹部と一般組合員との意志疎通をはかるパイプにもなっている。

 銘木生産

 小田町の木材生産の特色は磨丸太・ケタ丸太などの銘木生産にある。磨丸太の生産は昭和四九年から始まり、翌年から販売も開始された。磨丸太の生産を推進したのは、昭和四八年に小田町森林組合長に就任した上野三四郎である。彼は四八年小田町の林業診断に訪れた京都大学の林業教室の教授に随行してきた北山の林業家河合三智に磨丸太の技術を伝授してくれるように依頼する。河合の承諾によって、翌四九年から小田町の森林組合の職員が、京都府北山の河合林業に、磨丸太技術の修得のために派遣されるようになった。以後研修期間一ヶ年の長期にわたる研修生が、毎年二~三名ずつ派遣されている。この派遣生が北山から小田町に磨丸太の技術を導入したのである。
 また、磨丸太の技術は奈良県の吉野からも導入された。吉野との関係は、小田町出身の山本武志が吉野のかねじゅう銘木店から帰郷したことに起源する。山本は昭和三二年から一七年間、かねじゅう銘木店で人工紋り丸太の生産に従事していたが、昭和四八年に小田町に帰郷し、森林組合の職員となり、銘木生産に従事するようになった。山本の縁故で森林組合の職員が毎年一名かねじゅう銘木店へも技術研修のために派遣されている。小田町の磨丸太の生産は、磨丸太生産の先進地である北山と吉野から技術を導入してなされたのである。
 人工紋り丸太は生産から販売まで組合の直営事業によって行なわれるが、その生産工程は、①選木、②巻付、③伐採、④皮はぎ、⑤背割、⑥クサビ入れ、⑦屋外乾燥、⑧磨作業である。選木は一般の山林所有者の山から人工紋りをほどこすのに適当な立木を選択することである。選択基準は、枝打ちしてから七年以上をへた二〇~二五年生のすぎの立木で、三mの長さを通じて通直で完満な木、三mの末口が一一~一二㎝のものである。一般のすぎの立木が一〇〇〇円であるのに対して、選択された立木はA級が六〇〇〇円、B級が四〇〇〇円で組合に買取られる。この立木は、人工紋りの技術を持つ組合の職員と労務班員によって巻付作業が施される。巻付は、表面の荒皮はぎをしてのち、当木を直接幹に当て、これを針金で幹に巻きつける。巻付作業は夏の成長期を除いて年間行なわれるが、作業員一人が一日に巻付ける本数は六~七本が限度であるといわれている。当木には、古くはつつじの枝が使われていたが、現在はプラスチックと竹が使われている。巻付けている期間は本によって異なるが、一年間ないし三年間である。かくして人工的に凹凸のできた立木は、伐採をされるが、その時期は九月末~一〇月中ごろの樹液が止まる前が適期である。この時期に伐採された木は、幹の表面が硬い冬目になっているので、磨きあげると美しい光沢を発する。
 一か月程度山中で乾燥された木は、組合の加工場で加工作業に入る。加工作業はまず皮はぎから始まる。幹に傷をつけないように竹ベラで慎重に皮をはぐので、一日の作業本数は五~七本である。皮はぎ後、ヒ割防止のため背割を入れ、そこにクサビを打ち込み、一週間から一〇日間くらい屋外乾燥する。最後の工程は磨作業である。当初は砂で磨いていたが労力がかかるので、現在はタワシで磨く。一人一日の作業本数は五~六本である。並紋り丸太に対して、変形紋り丸太は現在も砂で磨いている。磨きあがった人工紋り丸太は、適度の湿度のある所で二~三か月保管されてからのち出荷される。
 現在人工紋り丸太は、個人の山の中から、それに適する木を抜切りして生産しているが、将来は人工紋り丸太専用の山が造成される予定である。人工紋り丸太に適するすぎ苗は昭和四九年に北山より挿木として導入されたが、以後林研グループ内の苗畑、森林組合の苗畑などで、人工紋り丸太に適する苗が育成され、それが各自の山に配布されている。昭和五五年現在では、約二〇〇の林家が多い者で五〇〇本、少ないもので数一〇本程度の人工紋り丸太用の木を育成しているという。苗は北山からしばはら、吉野から千束しばはらなどが導入されている。
 ケタ丸太の生産は昭和五二年から開始された。技術は吉野から導入された。ケタ丸太も生産から販売まで組合の直営事業で行なわれている。ケタ丸太の対象となる木は四〇~八〇年生の末口が一八~三〇㎝程度のすぎである。注文によって長さは異なるが、六~一二mの長さに達するので、その対象となる木は林道ぞいで伐採の容易なところの立木に限られる。人工紋り丸太の生産が一〇~三月の冬季半年間に生産されるのに対して、ケタ丸太は年中生産される。それはケタ丸太の材積が大きく、保管が困難であるので、注文に応じて随時に生産することによる。人工紋り丸太同様、九月下旬から一〇月中旬に伐採されたものは、磨作業をすると色つやのよい冬目が光沢を発するが、夏季に伐採されたものは表面の荒皮ははげやすいが、軟かい夏目を削り取ってしまわなければならないので、磨作業に多くの労力を要する(写真7-10)。ケタ丸太は、立木で四万円程度のものが、加工されると八万円程度に販売され、付加価値が高い。
 小田町の銘木生産で最も苦労した点は、その製品の販路を開拓することであった。販路開拓のためには、県内の国道ぞいの各地に立看板を出したり、テレビ・ラジオなどのマスコミを通じての宣伝にも力を入れた。銘木の販売は春秋二回の市売りと、電話注文に応じて行なわれる。また、松山市等の建材店が不定期的に買出しに来る場合もある。さらに、毎年「銘木まつり」を開催し、全国各地から業者を招待し即売する。「銘木まつり」には、ミス銘木を選定し、まつりに花を添えている。銘木の主な販売先は、県内では宇和島市・八幡浜市・松山市・今治市など、県外では高知県と広島県に多い(表7-28)。

表7-27 小田町森林組合事業実績

表7-27 小田町森林組合事業実績


表7-28 小田町森林組合の木材の出荷先(昭和56年)

表7-28 小田町森林組合の木材の出荷先(昭和56年)