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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

五 山間部の茶・たばこ・養蚕


 茶

 上浮穴郡久万町は年平均気温が一二・四度、年降水量一九○七㎜であり、しかも秩父古成層が広く分布しているため、茶は各地に自生しており、古くより茶の芽を摘んでは釜でほうじ、手でもんだり足で踏むなどした後、天口乾燥して仕上げるということが、各農家で行なわれていた。郡内で最も早く本格的に茶の栽培が行なわれたのは美川村で、明治時代にすでに各部落に小規模ながら製茶工場が設けられていた。明治二五年(一八九二)には藤社に二つの製茶工場を建設し、また静岡県より技師を招くなど当時の中津村村長森岡井五郎らによって茶栽培の振興が積極的に図られた。藤社地区で栽培される茶は品質が良いこともあり、「藤社茶」として近年まで愛好者の間で好評を得ていた。しかし四八年の農協合併以後はほとんど「久万茶」として出荷されるようになり、「藤社茶」の名を知る人も少なくなった(写真7―5)
 美川村は栽培面積、生産高とも郡内では最も多いが(表7―15)、一層の定着化を図るため「特産営農団地整備事業」により茶栽培を奨励するとともに、茶業センターの充実も図っている。
 面河村における茶栽培の歴史は古いが、本格的な取り組みは大正時代に入ってからであり、当時の村長重見丈太郎の尽力によるところが大きかった。郡内の先進地であった藤社から堀川伊助を招くなどして焙炉による製茶を始め、昭和初期には輸出も行なっていた。戦時中から戦後の食糧難時代にかけて茶の栽培はほとんど忘れかけられていたが、当時の農協組合長であった重見庄三郎によって再開された。再開当時は在来種が中心であったが三一年より品種もの(ヤブキタ)を導入し生産を拡大していき、四五年以後は毎年二〇トン以上の生産をあげるまでになっている。五二年の各農家の栽培面積は二〇アール未満が八五%を占め全体としては小規模である(表7―16)。
 四五年には面河村・美川村に各々製茶工場が建設され、翌年より操業が開始された。美川村の製茶工場は、四八年の農協合併に伴い五三年より久万農協茶業センターとなり、郡内製茶業の中心的役割を果たしている。同センターの五八年取扱い実績は受入生葉一七万五七〇〇㎏、販売高九〇〇〇万円に達している。


 たばこ

 本郡は気候が涼しいため、たばこ栽培にとって霜害が大きな問題となっていた。このため郡内に葉夕バコ栽培が導入されたのは他地域に比べて遅く、二六年になって初めて小田町の日野寛行・高岡登・西山福義・福岡嘉一の四名により試験導入された。試験栽培の成績が良好であったため、翌年には小田町で五三戸が栽培を行なうようになり、二八年には久万町、二九年には美川村でも栽培が始まった。その後、郡内各町村の栽培農家は増加し、三〇年には五〇〇戸を超え、栽培面積も九〇haに達した。特に小田町は三〇年以後も大幅に増加し、四〇年には二九〇戸、二五万七〇〇〇㎏の実収高をあげた(図7―5)。
 比較的厳しい自然条件の中で、急速に拡大していったのは、ビニールキャップで覆う技術が進展したことをはじめ、農家が安定性のある換金作物としての葉たばこに注目したことがあげられる。また、葉たばこ栽培が農閑期の夏に仕事が多いことも、労働力確保の上で有利であった。小田町では現在一三地区で葉たばこの生産が行なわれているが、この中で最も多いのは尾首であり、次いで中央・野村となっている。上川では気候的な影響もあり栽培は行なわれていない(図7―6)。栽培面積の多い地域はいずれも四二年以後の農業構造改善事業により雑木林を造成するなどして、大規模団地が形成されていった地域であり、庚申松団地(一二ha)などがその代表的なものである(写真7―6)。
 久万町は最盛期には一四〇戸になったが、それ以後小規模栽培農家は中止していった。しかし、第二次構造改善事業により上直瀬地区の西山(七ha)、大ノ地(八・五ha)、サラゲ(五ha)の葉夕バコ栽培団地のように、農事組合法人による大規模な葉たばこ生産者も現われてきた。このため五六年現在生産戸数は四〇年の二分の一に減少しているのに対し、栽培面積・重量とも増加している(表7―17)。美川村では三〇年に一一〇戸の栽培農家がいたが、四〇年にはさらに増加している。とくに栽培面積と重量は大幅に増加し、換金作物栽培に対する農家の積極的な取り組みが現われている。しかし、その後は都市部への人口流出が相つぎ、農業後継者の不足が顕著となるに従い葉タバコ栽培農家は激減した。
 五六年度の葉たばこ生産実績を見ると、内子町一一七八トン、大洲市三六二トン、野村町三三〇トン、中山町ニ八八トン、小田町二〇四トン、久万町一ニ七トン、五十崎町一一九トンとなっている。葉たばこ生産の歴史がきわめて浅い上浮穴郡の二町が、五位・六位であることは注目に値する。上浮穴郡の場合、当初の小規模栽培から少数による大規模栽培へと移行しつつあるが、今後とも安定した現金収入源として、多くの農家で栽培が続けられるものと予想されている。なお、現在では土地の効率的利用を図るために、裏作として大豆の集団育成事業も行なわれている。


 養蚕

 美川村二〇年誌に「かつては養蚕王国を誇った当地方も、昭和一五年仕出の西岡初太郎を最後に、全くその影をひそめて食糧生産に没頭した。……」とあるように、戦後の郡内における養蚕は三五年ころまではわずかに小田町において続けられているのみで、他の町村ではほとんど忘れかけられようとしていた。久万町においても、戦時中は二名の中村平三郎と直瀬の高岡大造によって細々と続けられていたにすぎない。
 戦後は、小田町での養蚕が停滞しているのに対し、久万町や美川村では養蚕農家は急増した。四五年には久万町では二二五戸、美川村では二〇六戸に達し小田町の九三戸をうわまわるまでになった(表7―18)。美川村における戦後の先駆者は中村の佐々木育太郎であり、県蚕糸課佐々木幸夫の勧めによって始めたものであった。その後、仕七川地区に養蚕の気運が高まり、三五年には小規模ながら稚蚕共同飼育所を建設するまでになった。このような養蚕農家の増加に伴い、県でも二二年に蚕業試験場の分場を明神に設置し、技術指導を行なうようになった。なお同分場は三五年に廃止となり、その後は養蚕指導員が各地区の指導を行なっている。
 稚蚕飼育は労働力の面からも、養蚕農家の重荷となっていたが、近年は人工飼料育による稚蚕飼育が普及して来ている。本郡においても久万・小田・中山・三内・広田の各農協共同出資による人工飼料育所を久万町下野尻に建設し、稚蚕の共同飼育・共同出荷を行なうようになってきた。また、久万町のサラゲ養蚕団地のように、近代的な方式による大規模経営を行なう事業所も現われてきており、従来の養蚕からの移行が急テンポで進行している(写真7―7)。
 養蚕業の歴史は繭価変動の歴史であるとも言われるように、価格変動は激しく農家は常に価格変動の不安を抱かざるを得ない状態である。桑園面積三〇a未満の農家が全体の三五%、四〇a未満では六〇%も占めるように小規模経営が続いているが、一戸当たり収繭量は四〇年一三〇㎏、四五年二二〇㎏、五五年三〇〇㎏に増加しており、葉タバコ栽培などと同様、少数による専業的経営に移行しつつある状況である(表7―19)。

表7-15 上浮穴郡の茶栽培面積及び茶の生産高の推移

表7-15 上浮穴郡の茶栽培面積及び茶の生産高の推移


表7-16 面河村茶栽培農家の栽培規模別戸数(昭和52年現在)

表7-16 面河村茶栽培農家の栽培規模別戸数(昭和52年現在)


図7-5 小田町の葉たばこ生産の推移

図7-5 小田町の葉たばこ生産の推移


図7-6 小田町における地区別葉たばこ栽培面積(昭和57年現在)

図7-6 小田町における地区別葉たばこ栽培面積(昭和57年現在)


表7-17 上浮穴郡の葉たばこ耕作実績表

表7-17 上浮穴郡の葉たばこ耕作実績表


表7-18 上浮穴郡の養殖蚕農家数・掃立卵量・収繭量の推移

表7-18 上浮穴郡の養殖蚕農家数・掃立卵量・収繭量の推移


表7-19 上浮穴郡の桑園面積別養蚕農家数(昭和56年現在)

表7-19 上浮穴郡の桑園面積別養蚕農家数(昭和56年現在)