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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

三 久万高原の野菜

 野菜栽培の特色

 久万町を中心とした標高四〇〇~七〇〇mの高原状の平坦地は、冷涼な気候と不便な交通条件からして、野菜栽培には不利な地域であった。しかしながら、近年はその冷涼な気候特性を生かして、野菜栽培が急速に伸びており、新興の野菜産地として注目されてきた。
 久万高原の野菜が商品作物として栽培されだしたのは昭和三年ころからである。当時川瀬村の畑野川地区(現久万町)で絹さやえんどう・きゅうり・トマト・みの早生大根等が松山市場に出荷されたといわれているが、その量は微々たるものであった。高原野菜としての本格的な栽培は第二次世界大戦後にはじまる。まず登場したのは大根である。大根は冬季の漬物用として、従来各農家で栽培されていたが、それは初冬に収穫する秋大根であり、冷涼な気候を利用した夏大根の栽培は、昭和ニ二年ころから畑野川地区で始まる。数年おくれて、昭和二六年からは、畑野川・直瀬などの旧川瀬村で、冷涼な気候を利用した夏期のキャベツ栽培が開始された。昭和五三年国の指定産地となった夏秋トマトは、昭和四六年に米の転換作物として導入されたものであるが、これまた冷涼な気候を利用した野菜で、その出荷時期は夏季から秋季にかけてである。ほうれんそうは最も新しく導入された野菜である。その栽培が本格化したのは昭和五三年からであり、これまた米の転換作物として導入された。やはり冷涼な夏の気候を利用して栽培するものである(表7―10)。
 このように久万高原で各種の野菜栽培が盛んになった背景には、昭和三五年ころより、我が国の経済の高度成長を反映して、各地で商業的農業が展開されるようになったことにもよるが、一方では、交通が整備されて、市場への野菜出荷が容易になったことにもよる。また近年の野菜栽培の伸長は、トマトにしてもほうれんそうにしても、稲作転換と関連して推進されている点に特色をもっている。
 久万高原の野菜は松山市場や高知市場、あるいはトマトのように大阪市場に出荷される。松山市場・高知市場が比較的近いとはいえ、松山市場へは時間距離にして一時間半、高知市場へは二時間半を有する。大阪市場にトマトを出荷すれば一二~一三時間は要する。松山市場に野菜を出荷する松前町や重信町のように個人出荷は困難であり、いきおい共同出荷が発達した。その共同出荷の担い手は久万農協であり、農協の共販体制のもとに、野菜栽培が伸長しているといえる。


 大根

 大根は、久万高原の冷冷な気候を利用して栽培する高原野菜の第一号である。その栽培が本格化したのは、昭和二二年ころからで、夏大根の「みのわせ大根」として、久万町畑野川地区で栽培が開始された。当初は生大根として松山市場に出荷されたが、交通条件が悪かったので、その生産は伸び悩んでいた。その栽培が急速に伸びてきたのは、昭和二四年畑野川農協で漬物加工場を作って以降である。漬物の市場は松山市のみならず、下関市・大阪市等へと拡大されていく。昭和三三年から三七年までが栽培の一つのピークであったが、以後その栽培は衰退し、農協の加工事業も中止される。生大根としての生産が再開されたのは、昭和四三年ころからである。国道三三号が改良舗装され、松山市・高知市に大根の出荷が容易になったことが、その生産を活発化させたといえる。
 久万高原における夏大根である「みのわせ大根」の産地は、その発祥地である久万町畑野川地区と、美川村の大谷地区である。昭和五五年現在、前者が約五〇haの栽培面積、後者が約一三haの栽培面積を誇る。大根は排水良好な傾斜地で、砂礫を含まない土壌を栽培適地とする。畑野川の栽培の中心地は、標高六〇〇~七〇〇mの千本高原(写真7―4)、大谷も集落周辺の七〇〇~八〇〇mの山腹斜面であるが、いずれも「音地」といわれる火山灰土の堆積地である。
 大根の播種は四月末から九月半ばにかけて行なわれる。播種後二~三回間引きを行なってのち、五〇日程度で収穫期を迎える。大根の種類は四月早生、みの早生大根、青首大根などであるが、まず四月末から五月半ばにかけては四月早生が、次いで五月下旬から八月半ばにかけてみの早生大根が、さらに八月半ばから九月半ばにかけては青首大根が播種される。一枚の畑には年間大根が二作されるのが普通の利用形態である。
 出荷は六月下旬より一一月末まで連続して行なわれるが、七月から一〇月にかけては、ほぼ同程度の出荷量である。昭和五六年の久万農協の出荷単価をみると、一束(一〇本)あたりの単価は、六月四四九円、七月七四四円、八月七七三円、九月八一八円、一〇月六七七円、一一月四九六円であり、七~九月の夏季に高値で販売されていることがわかる。農協の出荷量は、昭和五六年現在三万九一八六束、二七九六万円であるが、うち今治市に四九%、新居浜市に二五%、高知市に一五%、須崎市に九%、松山市に三%の割合で出荷されている。この出荷量は久万町・美川村・面河村・柳谷村を含む久万農協管内の生産量の三〇%程度の割合であり、他の七〇%程度は個人出荷である。農協が共同出荷を始めたのは昭和五六年からであり、他の野菜と比較して共販体制は遅れている。
 大根が個人出荷を主とする理由は、大根の栽培が早くより始まったことにもよるが、その最大の理由は、大根は畑ごとに品質が異なり、個人間に品質の差異が大きく、共同選別が困難であったことによる。現在は個人又は数人のグループで個人選別してトラックにて、松山市と高知市に出荷する。松山・高知両市場の夏大根の八五%程度は久万町と美川村の大根で占有されているという。高知市に出荷する場合であれば、午前中収穫、午後選別、夜の七時ころにトラック使にて高知市に向かい、午前一時ころに帰宅することになる。個人出荷の場合は随分農家の過重労働を生んでいるといえる。
 大根は連作障害が大きいので、美川村の大谷では順次新しい畑を開いて大根の栽培を続けている。畑野川の場合も他作物との輪作が望ましいが、千本高原などでは、数年間の連作が続いており、有機質の投入や土壌消毒によって、連作障害の克服に努めている。


 トマト

 上浮穴郡のトマトの栽培面積は、県の野菜生産販売統計によると、昭和五五年現在県の一三%にあたる二五haを数える。うち久万町のみで二〇haの栽培を誇り、久万町は県内一のトマト産地となっている。久万農協管内のトマト栽培は米の転換作物として昭和四六年に導入された。同年一九八戸の農家で一〇・三haの栽培面積であったものが、五六年には一〇九戸の農家で一八・一haの栽培面積となった(表7―11)。昭和五六年の販売量は一四五七トンで、販売高は三・三億円にも達し、米に次ぐ重要な作物となっている。地区別の栽培面積は、久万町の明神地区に六・八ha、直瀬地区に四・六ha、父二峰地区に二・五ha、畑野川地区に二・一ha、久万地区に一・七haとなっており、明神地区と畑野川地区の水田地帯がトマトの二大栽培地となっている。
 久万町のトマトは四月初旬に共同育苗ハウスで播種、四月下旬に鉢上げして接木し、のち個人のビニールハウスで六月上旬まで育苗し、それを本圃に定植する。収穫は七月中旬に始まり、一一月中旬にまで及ぶ。収穫の最盛期は七月下旬から一〇月中旬までであり、低地のトマトが八月に収穫が終わっても、冷涼な気候を利用して晩夏から晩秋にかけて長期に収穫ができるところに最大の特色をもっている。
 久万町は松山市と比べると盛夏の気温が二度C程度低く、トマトの抑制栽培には好適であるが、八月の降水量が松山の九九㎜に対して二一三㎜もあり、雨に弱いトマト栽培を制約した。昭和五五年より本格的に導入された雨除ハウスは、その雨にともなう病害や生産障害を克服するために導入された施設である。雨除ハウスは一〇アール当たりの建設費が一三〇万円程度はするが、この導入によって、雨天時でも芽かぎ、誘引(トマトの幹をひもでくくり誘導すること)、摘果が可能となり、作業能率が高まった。さらに防除回数が三分の一程度に減少したこと、収穫の終期が一〇月末から一一月中旬にまで延長されたことなどは、いずれも雨除ハウスの恩恵であるといえる。昭和五七年現在の雨除ハウスの普及率は面積で八五%程度に達している。
 収穫したトマトは従来は農家で庭先選別し、四㎏のケースに入れて農協に出荷した。昼間に収穫したトマトを夜間に選別するのは、大変な重労働であり、これが若い農業後継者にトマト栽培を敬遠させた理由である。昭和五○年ころに比べて、昭和五六年の栽培農家が半分以下に減少したのは、このような重労働かその一因である。昭和五六年に農協が大型の選果機を導入し、共同選果に踏み切ったのは、農家を選果作業から解放し、トマト専作農家の経営規模の拡大をうながそうとしたものである。
 農協の集荷・選別したトマトは、トラック便にて主として京阪神市場に出荷される(表7―12)。昭和五六年の出荷量三六万ケースのうち、八五%は大阪・神戸市場に出荷され、地元の松山市には六%、高知市には四%出荷されるにすぎない。生産者が午後三時から六時にかけて収穫したトマトは、翌日の午前中に農協の共同選果場で選果され、午後のトラック便で阪神市場に向かう。三日目の早朝の市場のセリで仲買商や小売商に買取られ、その日の午後には小売店で販売される。収穫してまる二日後には消費者のロに入るわけであり、久万町の夏秋トマトは阪神市場では(久)高原トマトの銘柄で最高級品として取引されている。出荷価格は、平坦地のトマトが品薄となる八月下旬から一〇月中旬にかけて高く、この時期に出荷できるのが、久万町のトマトの強味である(図7―1)。
 久万町にトマトが導入されるに当たり、その主導的立場にあったのは久万農協である。高冷地を利用した抑制トマトの産地としては、長野県の伊那市、岡山県の湯原町などがあったが、それらの地域に農協の職員がトマト部会の有志をつれて技術修得にたびたび出向いて行った。また雨除ハウスの技術は岐阜県の美濃北部の加子母村から導入したが、これまたかの地に農協職員が農家の有志をともなって技術修得に出向いている。
 市場から離れた久万町でトマトを栽培するにあたっては、その販路をいかに確保するかが大きな問題であった。久万町からの出荷範囲は、運賃や鮮度の点から阪神市場までが限度であると考え、阪神市場を知人を頼りに開拓したのも農協の職員であった。久万町のトマトが昭和四六年の当初より一〇haの栽培規模でスタートしたのは、阪神市場に八~一〇トン車で一日一台出荷することをめざしたためである。
 久万町のトマト栽培の中心地である明神地区・直瀬地区は、いずれも圃場整備をおえた水田地帯である。トマト栽培農家は、トマトが米の転換作物として導入された関係もあり、稲作との複合経営が多い。また冬季には林業労務に出たり、松山市方面に土木建築業の労務者として通勤兼業する者も多い。
 「夏秋トマトの産地は一〇年で移動する」といわれてきた。それはトマトは連作障害が大きく、その産地を長期にわたって維持することが困難なことを示す言葉である。久万町においてもトマトの導入からすでに一二年が経過し、今後は連作障害をいかに克服するかが大きな課題となっている。露地栽培におけるトマトは、トマト→稲→稲→トマトと、三年に一回稲との輪作で栽培するものが多かったが、一〇アール当たり一二〇万円から一四〇万円もする雨除ハウスを設置してからは、圃場の移動は短期間にはできず、いきおい連作を強いられることになった。被害株や収穫後の残渣を焼却したり、冬季に湛水することによって土壌消毒を行ない、連作障害の克服に努力しているが、その将来は決して楽観はできない。
 もう一つの悩みは後継者の確保である。一〇アール当たりの粗収入は一五〇万円から二〇〇万円にも達し、収入は多いが、一〇アール当たり一五〇人役も労力を投下しなければならず、その農作業は機械化の進んだ稲作と比べると大変な重労働である。若い後継者が育ちにくい原因はこのような点にもある。


 ほうれんそう

 ほうれんそうは昭和五三年水田利用再編対策の作物として新たに導入された作物である。昭和五六年の愛媛県内のほうれんそうの栽培面積をみると、東予の西条市七〇ha、伊予三島市二六ha、中予の松山市三四ha、南予の野村町二〇haなどがあり、これに次ぐのが久万町の一六haである。久万町を除く県内のほうれんそうの主産地が秋まきほうれんそうであるのに対して、久万町は準高冷地としての気候特性を生かして春まき・夏まきほうれんそうの産地としての特色をもつ。
 ほうれんそうは同一耕地で一年に三回栽培される。まず一作目は五月上旬から六月下旬にかけて順次播種され、播種後四〇日程度で収穫される。二作目は七月上旬から八月中旬にかけて順次播種され、三作目は八月下旬から九月中旬にかけて同じく順次播種されていく。冷涼な気候は、低地では困難な春まき・夏まきのほうれんそう栽培を可能にするが、夏季の多雨と海抜高度が低いことに由来する立枯れ病の発生が悩みの種である。夏まきほうれんそうにとっては、四国では七〇〇m以上の海抜高度が立枯れ病が少なく栽培適地であるという。昭和五五年から普及した雨除ハウスと、同じく同年に導入され、翌年から急速に普及したソイルブロック栽培は、これら不利な条件に対する対応策である。
 久万高原は夏の夕立ちが多いが、露地栽培のほうれんそうは夕立ちにたたかれ、その直後の強い日射に照らされると、品質の低下をきたし、かつ大幅な収量減となる。昭和五五年には、雨除ハウスによる栽培が七〇%、露地栽培が三〇%程度であったが、同年は夏季の多雨のために、露地栽培は全滅に近かった。翌年には雨除ハウスの普及率が九〇%になったのは、この被害の影響である。ソイルブロック栽培は奈良県の笠置山中の榛原で開発された方法であり、奈良県や大阪府で普及していた方法である。この栽培法は農協の職員や久万農業普及事務所の技師によって久万町に導入された。この方法はおがくずと牛糞を混合したソイルブロックにほうれんそうを播種し、育苗ハウス内で約一四日間本葉二枚になるまで育苗し、それをブロックのまま雨除ハウス内の本圃に定植する。本圃に移してからは二五日で収穫できるので、本圃の回転率は露地栽培の二倍にもなる。ソイルブロック栽培のもう一つの利点は、ブロックから下の根が横に張り、直播きのように垂直に根が張らないので、立枯れ病が少ないことである。
 久万町内のほうれんそうは、直瀬・明神・畑野川・父二峰地区の水田地帯に多く、トマトの栽培地区とほぼ一致する。水田にほうれんそうが多く栽培されるのは、ほうれんそうが水田利用再編対策の作物であることにもよるが、今一つの理由は、圃場整備を行なった水田が雨除ハウスの設置に容易であり、またハウス内の灌水が容易であることにもよる。ほうれんそう栽培は、トマト農家が複合経営の一環として栽培しているものもあるが、稲との複合経営が最も多い。トマトに比べると重労働の度合が低いので、婦人や老人が栽培の担い手となっている者も多い。
 収穫したほうれんそうは農家で庭先選別され、それが久万農協の集荷場で秀・優に区別され共同出荷される。昭和五六年には一万七八一〇ケース(一ケースは四㎏)、二八五九万円の販売額があるが、その出荷先はほとんど松山市である。出荷量の九五%を占める雨除ハウスのほうれんそうの旬別出荷量を見ると、七月から八月の盛夏が出荷のピークであり、またこの時期に単価が高いことがわかる(表7―13)。久万高原のほうれんそうは、平坦地のほうれんそうが高温のため栽培困難な時期に高価に出荷できる点に最大の利点を有する。

表7-10 上浮穴郡の主な野菜の栽培面積の推移

表7-10 上浮穴郡の主な野菜の栽培面積の推移


表7-11 久万農協トマト部会のトマト栽培の推移

表7-11 久万農協トマト部会のトマト栽培の推移


表7-12 久万農協のトマト出荷先(昭和56年)

表7-12 久万農協のトマト出荷先(昭和56年)


図7-1 久万トマトの旬別平均単価の変化

図7-1 久万トマトの旬別平均単価の変化


表7-13 久万農協の雨除けハウスのほうれんそうの旬別出荷量・販売金額

表7-13 久万農協の雨除けハウスのほうれんそうの旬別出荷量・販売金額