データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

第一節 概説


 自然環境と歴史的背景

 この地域は、石鎚山地南部の山間地に位置し、土佐湾に注ぐ仁淀川の上流面河川の本支流流域と、伊予灘に注ぐ肱川の支流小田川上流域を占める山岳地帯である。領域を占める町村は、久万町・面河村・美川村・柳谷村・小田町の上浮穴郡全域および、伊予郡の広田村と中山町である。
 上浮穴郡内には、上黒岩遺跡をはじめ縄文遺跡はかなり多いが、弥生遺跡は少なく、『和名抄』にみえる古代浮穴郡内の四郷は、いずれも旧下浮穴郡内の地に比定されていて、上浮穴郡内に該当するものはない。
 この地域の中心である久万町をはじめ、久万盆地、久万高原、久万山などの「久万」の地名は「熊」とも書き(『大洲旧記』)、その地名由来は、弘法大師の請うままに織りかけの布を捧げたという老婆「おくま」の名によると伝える。さらにまた「くま」という地名用語は「奥まったところ」(『岩波古語事典』)の意味が考えられる。この地域に縄文遺跡は多いが、弥生遺跡になると少なく、さらに「郷」が置かれるほどの発達をみなかったことは、縄文時代から弥生時代へと、文化の発達に伴う生活の変化によって、この地が生活適地としての資格を失った。歴史時代とともに、この地域が、山間の奥まった僻地として取り残されることになっていったことを推測させる。
 古代において重要なものとしては大宝寺(久万町)、岩屋寺(美川村)、産物としては、平安貴族の邸宅で珍重された「いよすだれ」(久万町露峰)がよく知られる。
 中世は、河野氏配下の大野氏に支配されたことは、大野ヶ原の地名にもそのかかわりが推測される。藩政時代には面河川の流域は松山藩に所属し「久万山」と称され、小田川流域はおもに、大洲藩とその支藩新谷藩に属し、山間部の物資の供給地として重要な地位を占めていた。
 この山岳地帯の北縁には中央構造線の大断層崖がそびえ、その北側の松山平野とは峠道で隔てられている。地形は全般的に壮年期の急峻な山地からなり、久万町や小田町などに一部狭小な谷底平野が発達する以外は平野に乏しく、集落と耕地は山腹の緩斜面に立地しているものが多い。気候は山岳地特有の冷涼多雨を特色とする。松山市と久万町の平均気温を比較すると、八月の平均気温では、松山市が二六・四度Cであるのに対して、久万町は二四・四度C、一月の平均気温が松山市四・八度Cに対して久万町一・六度Cとなっており、久万町は最暖月で二度C、最寒月で三・二度C低くなっている。年降水量は松山市が一三五五㎜に対して、久万町は一九〇七㎜となっており、五五二㎜も多くなっている。積雪期間は久万町では一一月下旬から三月半ばに及び、冬季の寒冷な気候は農業をはじめ人間生活に大きな制約条件となっている。
 周囲を険しい山地に囲まれたこの地域は、古来交通の不便な土地であった。大宝寺や岩屋寺などの古刹があり、大洲方面から松山方面に通じるへんろ道や、松山と高知を結ぶ土佐街道が通じていたが、これらは人馬の通行のみの可能な険しい坂道であった。周囲から隔絶されたこの地で自給自足の生活を強いられた住民は、その食糧の多くを山腹斜面の焼畑耕作に求めざるを得なかった。その主作物はひえ・とうもろこし・そばなどであったので、昭和三〇年過ぎまでは、住民の主食はとうきびめしやひえめしであった。
 焼畑の商品作物としてまず導入されたものは、楮と茶であった。楮の栽培がいつころから盛んになったかは判然としないが、茶は寛永一二年(一六三五)藩主松平定行が宇治から導入したことに起源するという。楮を原料とする紙の生産と茶の生産は藩の保護奨励のもとに発展するが、一方それに対する苛酷な年貢の取りたては、寛保元年(一七四一)の久万山騒動や寛延三年(一七五〇)の内ノ子騒動など農民の激しい抵抗を生んだ。三椏が商品作物として導入されたのは明治一七年(一八八四)ころであり、以後焼畑の重要な商品作物としてその生産を急激に伸ばす。
 今日この地方の主産業は林業である。上浮穴郡一帯の林業はひろく「久万林業」と称されているが、その起源は明治初年、大宝寺住職として久万に来住した井部栄範の努力に負う点が大きい。人工造林は久万町を中心に周辺の村々にと波及していき、篤林家を中心に育林が推進されていく。しかしながら、明治・大正年間の林野利用は依然として焼畑と入会採草地であり、人工造林がこの地域全域にくまなく普及していったのは昭和二五年以降である。現在上浮穴郡の人工林率は七八%に達し、全国屈指の造林地域となっている。
 この地域の住民生活か大きく変貌を遂げたのは、昭和三五年からの経済の高度成長期以降である。昭和三五年の上浮穴郡の人口は四万三四三三人であったが、二〇年後の昭和五五年にはその半分の二万一六六四人にと激減した。特に人口流出の激しかったのは、面河村・美川村・柳谷村などであるが、これらの村の僻遠の集落には、無人の集落廃村となったものも数多くある。また人口流出は若年層を中心になされたので、人口の老齢化が著しく、将来のこの地域の発展に暗い影を投げかけている。
 今日この地域の産業は、農業・林業・観光など山岳地帯の特性を活かしたものに、その活路を見いだそうとしている。久万林業における銘木の生産、久万盆地の高冷な気候を利用したトマトの栽培、四国カルストや大川嶺の国営草地開発事業、石鎚山・面河渓を中心とした観光開発などに、その姿を認めることができる。これらの産業の発展を軸に、若年層の定着をうながし、将来の地域社会の発展をはかろうとしているのが、今日のこの地域の姿であるといえる。