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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

四 忽那諸島の集落

 浦々に開けた一七の集落

 明治二二年(一八八九)忽那諸島に東中島村(大浦、小浜、長師、宮野、神浦)西中島村(粟井、畑里、饒、吉木、熊田、宇和間)睦野村(野忽那、睦月)神和村(上怒和、元怒和、津和地、二神)の四か村が成立するまでは、一七村がそれぞれ浦集落を形成して生活していた。小島の浦地形は、後背には砂浜や小平地を持っているが、隣の浦とは急崖や山地で境され、陸上交通をそ害されている場合が多い。例えば粟井―大浦、畑里―饒間の交通が海を介した方が便利であるというような例は多くあり、それが七島に分散されているとなると、それぞれの集落の孤立性は相当強かったということができる。次に行政の面からみると関ヶ原戦後、藤堂家・加藤家が伊予を二分したが、忽那諸島も「二分割」がきびしく行なわれ、それが領主の交替と共にそのまま引き継がれ、藤堂領は大洲藩領、加藤領は松山藩領として明治に至るわけだが、このことも「分割」性を強めることになった。また明治二二年(一八八九)に成立した忽那本島の東・西中島村も歴史的背景は勿論だが、地形的にそう分けられた面も強かったので、より分割性が強くなり、後に西中島村が中島町へ合併したのは、同じ本島にありながら他の島部よりおくれて、昭和三八年に最後に行なわれたいきさつがある。そして一体感ができたのは、東西を結ぶ辻堂トンネルの貫通や島内一周バス道路の完成という、基本的条件の整備に負うところが大であった。安永九年(一七八〇)には大洲藩領であった大浦の半分が小浜、粟井と共に天領になったとき、その対立を防ぐため「もとは一村だったのだからこれまでどおり心を通じむつまじくしよう」という誓約文書をとりかわしたりしている。これらの地形的、政策的原因でもたらされた分割性は、新中島町成立(昭和三八年)以後「統合」にかかわる諸施策が実って一体感を強めているが、町会議員選挙区などはまだ旧四か村単位で分割定員制がとられている。六島一町の特異な統合体なのだから、常に統一性や一体感をふまえた施策や住民感情の育成が必要なのである。
          

 大浦・小浜の集落

 大浦湾湾頭を占める中島町最大の集落であり、昭和五八年で大浦は町人口の約二〇%、(約一八〇〇人)小浜は約一一%(約一一〇〇人)を占める。大浦・小浜は一村であったが、天正年間(一五七三~一五九一)に分離したと伊予国風早郡地誌(明治一一年)にある。大浦は『忽那島開発記』に、応徳三年(一〇八六)六浦の名を定めて開拓をしたとある大浦、長師、神浦、熊田、吉木、粟井のうちの一つである。平安末期には庄園「武藤庄」の一つであった。開祖藤原親賢が創建したという長隆寺は大浦湾を見下ろす山腹にあり、その麓の集落である「山狩」部落が最も古い集落であると伝えられる。それと大浦湾頭の北づめにある「浜小路」部落は、舟溜りに便利な小湾入があり、舟運の基地としての古い集落であったと言われる。
 明治以前より居住した家屋は西部の山腹、山麓、及び北の海岸部に多く、山狩川や中村川の小河川が形成した東部の州に向かって少なくなっていることからも集落発展の方向が理解される(図6―11)。現在の海岸に並行した市街部分や官公庁域は昭和になってから形成されたものである。小浜は一〇八四年創建と伝えられる忽那諸島総鎮守の八幡神社に向って、海岸部より通ずる参詣道を境として大浦と分村されたもので、忽那一族の本山城や小浜港もあって大浦村と競合することが多く、東中島村成立後も、明治二七年(一八九四)から昭和五〇年までは村役場が所在した。八幡宮社地境界をめぐる大浦との争いで、小浜の住民が長師部落まで逃散した事件は有名であるが、もともと分村の無理を象徴したできごとである。現在は両集落とも第二次・第三次産業人口が約五〇%を占める中島町最大の都市機能地区として、街村形態で連結しその役割を果たしている(図6―12)。


 粟井・畑里の集落

 本島の北東部の集落で粟井坂をはさんで対する。この峠付近からは縄文早期の押型文土器や両頭石斧が発見され、古い先住地帯であったことが知られる。両村とも松吉荘に属し、後に桑名村となり、次いで粟井村と称し、永享六年(一四三四)に分村した。北部の歌崎山は牛の牧地、牧草地として好適な入会場であり、両村の入会地争いがしばしば行なわれた。粟井は江戸・明治年間をかけて廻船業でにぎわい、粟井海運業、廻船成金として雄名をはせた。明治二二年(一八八九)には五四隻、三〇年には五二隻の廻船を持っていた。これは隣接する大泊港が地形的に冬の北西風を防ぎ、湾入や水深も十分で船舶のけい留に好条件であった為である。粟井にある桑名神社は馬頭観音を祭り、多くの和船絵馬が奉納されているのは、粟井集落の機能を象徴したものである。廻船成金で豪壮な家屋が今も残り、大浦の土地所有も粟井出身者が多かったと伝えられる。大泊は天然の良港であるが、現在の県道からでも五〇mの急傾斜を降下せねばならず、陸路での隔絶地で文化一二年(一八一五)の伊能忠敬の地図にも集落は記されていない。定住をしたのは明治七年(一八七四)旧松山藩領であった越智郡岩城島より一二軒の移住に始まり、沼和二五年ころは約六〇戸を数えたが、四〇年に半減し、現在は三六軒ある家屋のうち居住は一一軒でうち七軒が漁業、四軒が柑橘栽培を行なっている。典型的な離村過疎集落であり、交通手段の近代化や、いわし漁の不振によって生活の基盤を失ったものである。


 神浦・宮野・長師の集落

 旧東中島村の南部を形成し、この三集落全体が大きな湾入に面している。この三村は陸上交通も比較的容易で、長師・宮野は集落も連結している。港湾としては長師・宮野が良港と言い難いのに対し、神浦は忽那諸島中の重要港の一つで特に怒和・津和地・二神各島への連絡が密であり、現在西中島航路の起・終点でもある。南北朝時代は忽那一族の最盛期に忽那義範が神浦館をかまえ、瀬戸内海一円に活躍した拠点であり、延元二年(一三三八)西国南朝統御のため九州下向の懐良親王が来島し、義範庇護のもとに三年を過ごしたのも神浦であった(延元四年の説もある)。藩政時代は瀬戸内海の商業活動の盛大化にともなって、津和地港などと共に中継港、避難港として栄え、港の西端の新地には遊女屋が一〇軒あったと伝えられる。本島では大浦・小浜に次いで戸数も多く、本島南部の拠点である。滝神社は牛頭観音を祭神とし、粟井の桑名神社の馬頭観音と共に古い牧地のあったことを示すもので、明治一一年(一八七八)には牛一二二頭で一七村中四位であった。


 饒・吉木・熊田・宇和間の集落

 中島本島の西部を占める集落で、古くは粟井郷松吉荘に属していた。その中心は吉木で伊予御家人三二人の一人に忽那分家の忽那家平(吉木三郎)の名があり、小早川の攻撃で忽那氏が亡んだ後も命脈を保ち、忽那家文書も吉木に保存されることとなった。各集落とも浦に面するが港としての地形は不十分で、港湾造成には共通して苦労をした。饒・宇和間は、広島方面からの漁業移住者もあって漁港としての整備を迫られたもので、港の背後に街村状の漁業集落が展開している。昭和五八年の漁業就業者は宇和間五三人で、津和地に次いで多く、熊田は一八人である。


 野忽那・睦月の集落

 忽那諸島の東部にあり、共に一島一集落である。野忽那は風早郡(北条市)から四軒或いは六軒が、睦月は七軒が最初に移住したと言われ「株」と称する同族の本家としての機能を持っていた。良港に面して密集度の高い浦集落が展開している。大正六年(一九一七)の温泉郡誌によると、住宅一戸当たり宅地坪数は温泉郡三〇町村平均九四坪に対し、睦野村は五三坪で最も狭い部類に属している。共に行商活動の盛んな集落で、豪壮な住宅が見られるのは成功者のそれであり、また、行商先の九州を中心に県外に開かれた通婚圏を持っているのも特色である。野忽那は明治一一年(一八七八)の伊予国風早郡地誌によれば漁船所有は一三四隻、漁獲高一五〇〇円で諸島中最大であり、漁業集落としても栄えたことを示している。


 津和地・上怒和・元怒和・二神の集落

 津和地は忽那諸島の西端にあり、島の西岸竹ノ浦に、広島県蒲刈から六人衆が住みついたのが最初と伝えられるが、後に東側の津和地湾に移り、三六人衆に地割りされたと伝える。現在竹ノ浦には集落はなく、中島本島より各島が勧請した八幡神社だけが残っているのも、この集落発生の伝えと符合している。藩政時代は瀬戸内海の主要航路に面していたので、松山藩は接待所であるお茶屋を置いたが、幕府の指定した公式接待所の港市に準ずるにぎわいを見せ、集落の東端の新地には遊女屋が五軒あり、寛永一四年(一六三七)には常燈鼻に常夜灯がともされた。明治一一年(一八七八)の風早郡地誌では、戸数二七〇戸で大浦(二七一戸)と共に諸島内の最も大きな集落を形成していた。集落は弓なりの浦にそってひしめき、もとは海に面した片側町であったが現在は海側にも集落が成立し、浦にそった街村形態の集落を形成している。三六人衆が土地を分割し、それから次第に分家していったものであるが、津和地は男子には原則として宅地・農地を平等分割相続させる風習があり、長方形地割が整然と行なわれている。道路をはさんだ海側の家屋は、山側の母屋の納屋として使用されることが多く、母屋のすぐ前が自家の納屋になることが原則であるが、海側か扇形の短経であることや、母屋数の関係から変化することもある。また、その納屋は分家する際に譲られて、新宅の母屋として使用されることもあり、隠居屋として使用されることもあった。三六人衆といわれる本家は適当に集落の中に分散し、広い宅地や海側の納屋を二~三区画持っている場合もある(図6―13・写真6―10)。明治一一年(一八七八)には漁船一二一隻、漁業戸数七三戸で野忽那と比肩する漁業集落であり、現在も漁業就業者六六人で、最も大きな漁業基地としての役割を果たしている。元怒和・上怒和も広島県の倉橋島から来た二〇人によって島の北側にある宮浦から開発されたが、北西風が強いので今の場所に移り住んだものであり、本島以外では珍しく一島二村の島である。上怒和の溝田家文書には、慶長年間(一五九六)以後島尻村(元怒和)、桑名村(上怒和)とあり、前者は一三戸、後者は七戸から始まり、同時分村移住の集落であった。ところが事実上分村していたのに公文書扱いは、怒和一村であったので年貢のふりわけ(元怒和六、上怒和四)や、一村であった時の八幡神社負担、祭礼などでしばしば争いがあった。元怒和は初めは下怒和と言ったが「上」に対する「下」を意識して元怒和と改称している。通婚はするが公的、経済的な問題で対立すると村どうしの争いは深刻で、かつての大浦と小浜、粟井と畑里の争いもそれであり、閉じられた小生活圏間の特色といえる。集落としての元怒和は津和地と対する港町で、小島に珍しく奥ゆきのある平地があって塊村状に密集し、役場支所・郵便局等もあり、また、第三次産業人口が二五%で、旧神和村の中心としての機能を果たしている(写真6―11)。明治一一年には元怒和一七六戸、上怒和一〇五戸であり、昭和五八年は二〇二戸に対し一一一戸である。二神島は忽那諸島の南端にあって伊予灘に面し、その属島に由利島がある。二神島の開拓時期は他の忽那諸島と変わらないが、後に二神氏が室町時代初期に広島から来島して勢力を張ったところである。集落の西の本浦が、最初に開けたところで六軒の旧家があり六株と称し、大庄屋二神家は中央に位置しており、社寺もそこにあった。後に次第に深い湾入のある向井地区に移り、現在は浦にそった街村型の集落を形成している。明治一一年の一二九戸が昭和五八年一五二戸となっており、漁業就業者は四三人で、さし網漁の基地でもある。
 由利島は三津浜の西一五㎞、二神島より南一〇㎞の伊予灘に浮かぶ周囲八㎞の小島で、大由利、小由利とそれをつなぐ砂州よりなっている。現在無住の島であるが、或る時期に大挙して住民が島をあとに移住したらしいこと、季節的漁業出稼集落のあったこと、「困窮島」と称し(二神の困窮者が入島し質素な生活をすると共に農漁業を行なって負債を返却した)、常住集落があって資産を回復すると次の困窮者が交代したことなど、集落について特異な現象がみられる。「由利千軒ゆり込んだ」とは古くから由利島の集落伝説を伝える言葉であり、かつて大きな集落があったが地震・津波などの天災で、大挙して島外へ移住したことを想像させるものである。両島をつなぐ砂州の南側の入江から弥生中期の壷や高坏が、また、大由利からは平安・鎌倉期の遺物が出土するが、それぞれの時期に漁業を生業とした先住者がいたのであろう。松山市古三津の『儀光寺縁起書』には、弘安年間(一二七八~一二八七)たびたびの海嘯(つなみ)にあい、家も流失したりしたので寺や本尊と共に松山に移り、刈屋(住吉町一丁目あたり)、新刈屋(高浜付近)に住みついたとあり、儀光寺の付近には壇家はなく、刈屋一〇〇戸、新刈屋二〇〇戸が壇家のほとんどであることを見ても、また、後に由利島漁業権をめぐって二神漁民と新刈屋漁民が争ったことを見ても「移住」があったことは事実なのであろう。常住の記録は明治一一年に二戸、同三七年(一九〇四)に五戸、昭和一六年に一六戸、戦後は大由利の砂州近くの明神に一〇戸、大由利南東部の納屋場に一〇戸が常住したが、そのうち一八戸は二神にも住居を持っていた。昭和四年からいわし網漁が二神漁協で行なわれ始めると、一〇〇人~二〇〇人の男子漁民が由利に漁業出稼にゆき、女子労力もこれに加わるので一〇月ころまでは島の小屋生活もにぎわった。明神にはいわしを煮た釜跡が出稼小屋と共に今も残っており、このいわし出稼は昭和三七年ころまで続いた。昭和四七年ころからは常住者はなく、二神からの柑橘の通勤耕作が五~六軒の農家で行なわれているにすぎない。


 戸数の増加率が高い大浦・小浜・長師

 明治一一年(一八七八)と昭和五八年の戸数の増減をみると、増加の多い方では大浦八五%。小浜四七%、長師九三%の増率となっている。大浦・小浜は第二次生活圏(中島町全体)の中心で、卸小売業も全体の三七%を占めており、また、耕地・宅地も広いので分家を志す者も多く、また、他地区から流人する者もいくらかあっての結果である。長師は勤務者が多く、また、夏期の海水浴客相手の収入もあって、これも分家が容易だからである。畑里のように、長子相続の傾向が強い地区では約一割の減率を示し、神浦のように陸上交通の未整備の時代に、独立した生活圏を営んでいたものが、交通の便利化と共に大浦・小浜商圏の中に入り、商店等の戸数を減じた例もある(表6―18)。

図6-12 中島町集落分布と産業別就業者比率(昭和58年)

図6-12 中島町集落分布と産業別就業者比率(昭和58年)


図6-13 中島町津和地の宅地分割例

図6-13 中島町津和地の宅地分割例


表6-18 中島町の集落別戸数の増減並に産業別就業者比率(昭和58年と比較)

表6-18 中島町の集落別戸数の増減並に産業別就業者比率(昭和58年と比較)