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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

一 睦月・野忽那の行商


 行商活動の展開

 限られた耕地と狭い漁場では安定した生活は期待できず、数人の地主のほかは島の外に目を向けざるを得なかった。幕末から睦月は反物行商で、野忽那は左官・大工・細工物師として出稼ぎに行き、後になって漁場を外海に求めて九州の五島列島方面にも出漁した歴史をもつ。そうした風土のもとに行商活動は全国各地に展開し、戦後の果樹栽培の普及期、あるいは高度経済成長期を通じての物資の増大、モータリゼーションの進展期までの間、島の経済活動の中で大きな役割を果たしてきた。
 行商のきっかけは、幕末から明治初期の沖売りに求められる。潮待ちする沖の船に睦月島の野菜や薪炭を供給し、島で織る反物を売ったのが初めである。やがて、小型の和船で近くの沿岸の村々に出かけるようになり、島内産の反物(主に伊予絣)では足らないので三津浜・今出・松山で、さらに明治中期には尾道・福山の備後絣をも仕入れるようになり、仕入先・販路共に拡大していった。それとともに、親方が仕入れて、それを数名の売り子に委託して売らせる方式がとられるようになり、明治二〇年(一八八七)には一五人の親方と六〇人の売り子が数えられた。
 日露戦争から大正時代にかけては、伝馬船から帆船に、木綿から絹に変わり、販路は広島を中心に遠くは紀州・伊勢方面、西は門司・小倉方面に及ぶようになった。織物生産機業の発達につれ、広島市の卸問屋の立石商店を仕入先として、各種の反物を仕入れて、行商が本格的に盛んになった時期である。明治三九年(一九〇六)の役場の台帳によると、商業鑑札を持っている人が一二四人あり、売り子をいれると三〇〇人以上の者が行商に従事していたと推定される。
 大正時代から昭和初期には、両島で五トンから六トンの帆船が約五〇隻あったが、後から発達した野忽那の方が、遠方にかつ長期間行くので船も大きかった。
 昭和一〇年ころから動力船になって、内海各地はもちろん外海にまで発展し、その後の約五年間が最盛期で、山陰地方から朝鮮半島、南は種子島から沖縄方面にまで出かけた。親方が約三〇人で、一隻に平均して一五人から一六人が乗って行ったので、このころの行商人は約五〇〇人と推定される(なお、ほかに陸上から行く者も三〇人ほどいた)。商品もこのころにはセル・人絹・銘仙・カタツキに変わり、仕入先も広島にとどまらず岡山の日下商店とも取引が行なわれた。
 戦争を境に睦野の行商は一変する。戦中・戦後の衣料統制を経て、昭和二四年末に衣料品が自由販売となると行商が復活したが、船は戦争中に徴発されたり売却したりしたので、野忽那に三隻残っていたにすぎない(これも後に物資が出回るようになると共に船を捨て、売り子もつれず、家族で定住して月賦販売、あるいは転々として現金販売をするようになる)。行商人達は、陸路目的地へ向かい、しばらくの間、物資不足に乗じて利益を得た。販路は、九州のほか北海道・東北地方に拡大し、商品も京都仕入れの銘仙、御召の春物、名古屋・一宮仕入れの夏冬の服地、大阪のギャラコ・ポプリン、そのほか人絹・本絹などに変わった(表6―16)。
 高度経済成長期を通じて睦野の反物行商は急減し、老齢化した。ただ野忽那の場合は睦月ほどは減少せず、昭和三九年の従事者は約一〇〇で睦月とほぼ同数となっている。


 行商の形態

 親方と売り子の関係には二つの型があった。親方が旅費・宿賃・食費を負担して歩合制の形で売り子に売らす型と、仕入れた品を親方が口銭をとって売り子に渡し、売り子がいくらで売ろうと任意という型である。船による行商の場合は、親方の持ち船に売り子が乗り組み、目的地では船を宿にして行商する。戦後陸路を利用するものが増え、活動範囲も広がったが、借家あるいは宿住まいをして得意先回りをする者、春秋の季節により行き先をかえる者、臨機応変に金回りのよい製紙地・養蚕地・果樹地帯の村などへ回る者などがあった。行商期間は、盆と正月にそれぞれ前後一か月ほど帰郷し、その間の五か月間出かけて行くが、春の節句や秋の祭りに四日ないし五日間程帰ってくる者もあった。
 高級品にはかなりの利潤をかける場合もあるが、ウールの女物や化繊の衣類はよく売れるので薄利多売のケースが多かった。安定した行商をやっておった者には、得意先を持ち、信用があり、月賦販売で集金するなど、体を動かし、市内よりも安く、マージンを少なくし、婦人会や友の会の作業服まで世話をしていた者が多い。
 戦後の仕入先は名古屋・一宮・京都が中心となったが、元の借りのある人は代金引き換えのものもあるが、大部分の者は、盆と正月の新仕入れに自分で問屋へ出かけて支払い、あとの者は郵便で送金し、背広や服地を注文している。しかし、練達の士は月に一、ニ回仕入先に自ら出かけ柄をみて現金で安く仕入れる。


 現況

 終戦直後には若い層の行商への進出もかなりみられた。その後の果樹栽培の普及とみかん景気により行商を離れた者、戦後の高度経済成長下の雇用増大の中で、職を求めて大阪を初めとする都市へ挙家離村して行った者、現地に定住しあるいは店舗をかまえた者など、行商に従事する者は漸減、老齢化の道をたどった(表6―17)。睦月ではすでに若干名を残すのみとなっているが、野忽那の場合にはそれでも四六名の従事者がみとめられ、船回りも一件残っているほか、親の得意先を受け継いだ若い年齢層の者も若干みとめられる。老夫婦で遠隔地で商いを続けている者と、自家用車を利用する者の割合が高くなってきた。地域的には従来から関わりのあるところで、北海道は岩内・江差、宮城県では女川、長崎県の壱岐・対馬、鹿児島県は志布志が多いが、他に種子島・奄美諸島と全国各地にちらばっている。

表6-16 中島町睦野の行商者の行先地の推移

表6-16 中島町睦野の行商者の行先地の推移


表6-17 中島町の野忽那における行商の現況(昭和57年末現在)

表6-17 中島町の野忽那における行商の現況(昭和57年末現在)