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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

五 中島の畜産


 瀬戸内海の古い牧畜の島

 瀬戸内海の諸島が、陸地部とどのような経済関係を持って生活してきたかは多様であるが、陸地部の人口集中地域を市場として、輸送費の安い船を自在にあやつって換金活動をした点は共通したことである。漁業はもとよりであるが、薪の島、牧畜の島としてその供給の機能を果たした島は数多い。前者は「薪船」「割木船」に象徴されるように島に自生の松などを切りだし、自家用船で運ぶという元手いらずの副業であったが、島の畜産も牛馬を主体とし、逃げだすおそれのない島内で自生の牧草や甘藷、雑穀のくずなどを飼料にし、自家用船「牛船」で出荷するという、これも余り元手のいらぬ副業であった。小豆島では延暦三年(七八四)に官牛が附近の無人島へ移された記録があり、広島藩の牧地としては忽那諸島に連なる情島や柱島があり、今治藩では馬島の地名さえある。九〇一年に完成した『三代実録』の貞観一八年(八七六)の記録には

「伊予国風早郡の忽那島では毎年馬四匹、牛二匹を納めているが、島の馬が三百頭余、牛も同じぐらいの数に増えて島の水や草が乏しくなり、青い苗や麦を食い荒らすので、それを売って税を納めたいという申し出をかなえた」

と書かれている。また、九二七年に完成した『延喜式』には野忽那から馬六頭、牛二頭を毎年納めていたとある。粟井にある桑名神社には馬の守護神である馬頭大明神を、また神浦の滝神社には牛の守護神である牛頭大明神を祭ってあるが、それは一一〇〇年ころから一一八〇年ころにかけて祭神が始まったと『忽那島開発記』にあり、それぞれ古い畜産の島であったことを物語っている。


 和牛の子出しから乳牛の子出しへ

 江戸時代の忽那諸島の畜産は和牛が中心であった。小浜村では文化八年(一八一一)~文政六年(一八二四)の間に約一〇〇頭から一二〇頭の牛が飼われていたとある(『堀内文書』)。また、畑里村では寛政五年(一七九三)の『牛改め帳』に一年間に牛一〇一頭を飼い、うち一五頭を売却したとある。松山藩では牛馬を他地へ売ることを禁じているが、畑里では七匹が広島の忠海や屋代島に売られており、島しょ部としては島外で換金するより外ないことを認めたものであった(『中島町誌』)。明治一四年(一八八一)の小浜の記録では当歳牛が七二頭おり、四一頭を残して三一頭を県外へ売却しており、二歳以上の牛を加えると現存九八頭、売却四七頭であった。また、おす牛の売価は平均三円、めす牛はその四~五倍もしたとある。このように牛の飼育と換金については、子牛のなかでも値だんの高いめすの子牛を売ることを第一とし、繁殖用にもめす牛を残し、農耕もさせるというやりかたであった。さて、農業の項でも述べたように、しょうがが畑作換金作物として忽那諸島で栽培されるようになったのは、文政年間(一八一八~一八二九)ころからであるが、この栽培には多くの厩肥を必要としたので、島の牧牛とうまく結びつくことになった。この和牛牧が、明治二三年(一八九〇)家畜商により京阪神地方から初めて導入された乳牛牧におきかおっていったのは、乳牛の方が利益が高かったからに外ならない。生活の洋式化か進む中で、乳製品の消費が増大したという実態を背景としたものではあるが、中島の乳牛飼育は生乳や乳製品を売る即ち酪農としてではなく、やはり「乳牛の子取り」というやりかたであった。中島で搾乳することは、市場への距離が遠すぎ不可能であったことにもよるが、伝統の和牛の子取りを応用したものであり、早く乳ばなれさせた雌の小牛を売ると共に、乳の出ている母牛も売るので利益が多かったのである。そして先に述べたしょうがと厩肥の関係も維持された。明治~大正期の牧牛数をみると、農業人口が多く、耕地や草地の多い大浦・小浜・神浦地区に多く、逆に土地が狭く、また漁業収益の多い神和地区が少数であるという地域性がでている(表6―15)。


 家畜運搬船「牛船」

 明治四二年(一九〇九)の『温泉郡誌』には東中島村で「牛船といって七、八〇石積みの船で牛を輸送し、県内の長浜や宮崎県あたりの牛を買って、京阪神地方へ向かう牛船は五五隻あった。家畜商人である「馬喰」は村内の出入は言うに及ばず、、瀬戸内海一円から遠く韓国にまで行って商売をした……」とある。広島や尾道へ輸送することも多かったが、二階になった牛船もあり、上下甲板に積んで運んだが、階下の牛は、し尿によごれて扱いにくかったと現存の家畜商は語っている。
 藩政時代には家畜商人を登録し、密売をしたり、不当にもうけることを禁じたりしているが、明治以後は中島産の牛だけでなく、瀬戸内沿岸から遠く韓国にまで手を広げて相場を張ったものである。生産農家の方はこれに対し共販体制をとろうとして、明治三七年(一九〇四)産牛組合を結成し、温泉郡牛馬組合へと発展したが、さして成果はあがらなかった。明治末期には大浦だけでも乳牛五○○といわれたが、大正年間を通じて中島町には乳牛が五〇〇頭前後が飼育され、しょうがの生産もこれと並行して一二万~二〇万貫と高かった(写真6―6)。


 乳製品加工生産とその後の畜産

 子取りの乳牛飼育は大正の中期ころからしょうがの減産傾向と並行して低調となり、酪農式の乳製品加工がはじまった。大正二年(一九一三)「天神ミルク」会社が民間資本で設立され、次いで一一年には、乳牛飼育組合員約四〇〇人で中島牛乳販売購買利用組合が設立され、バター・煉乳の生産を始めたが、採算の問題や大資本との競争もあって失敗した。
 最盛期の牛の頭数は、明治一一年(一八七八)の『風早郡誌』によれば和牛約一一八三頭におよび、大正一〇年の『温泉郡誌』によれば乳牛五九八頭で温泉郡の八三%を占めていた。
 飼育法は各戸に一頭というのが普通で昭和二三年は二九三戸で三一五頭、同三五年は二七〇戸で三〇〇頭であり、完全な副業型畜産で、大浦や小浜の第一の副業と言われていた。だから昭和三〇年代の柑橘の好況期に入ると、各農家は一せいに畜産を放棄してしまった。昭和四八年ころから一戸当たり飼育頭数は六頭平均と多くなるが、経営業体は僅か六体となっており、現在も畜産専業業者が僅か三体で経営しているに過ぎない。養豚・養鶏も小規模副業型で、一戸当たり豚飼育平均頭数一~二頭、鶏一五~二〇羽が、昭和三五年ころまであり、以後は乳牛同様僅か一〇体が専業的経営として残り、他は全面的に飼育を放棄してしまった。中島においては、普通畑作換金作物や畜産が多角的換金農業の一翼をになって長期間行なわれたが、単一果樹換金農業に切り替えるときは、このようなナダレ的放棄現象が見られるのである(図6―9)。

表6-15 中島町の牛頭数の推移

表6-15 中島町の牛頭数の推移


図6-9 中島町家畜頭数の推移

図6-9 中島町家畜頭数の推移