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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

第一節 概説


 自然環境と歴史的背景

 風早郡の地方は北条市域であるのに対して、島方は忽那(風早)諸島と称し、安居島のほかは温泉郡中島町に統合されている。島方の「忽那七島」とは中島町の、中島(忽那島)・睦月島・野忽那島・怒和島・津和地島・二神島の六島に、松山市興居島を加えた七島をさすのが普通で、中世には山口県の柱島が興居島の代わりに入っていた。これら有人島のほかに二〇の無人島がある(図6―1)。
 地質的には広島・松山花崗岩帯に属し、火山活動で安山岩の岩頸がこれを貫入しており、ドーム状の山体や岩峰が特異な地形景観をみせている。山地は一〇〇m・二〇〇m・三〇Om級と三段階に分かれるが、柑橘園は二〇〇mを超えているところもある。上壌は花崗岩を母岩とする真砂土が多く、腐植は少ないが果樹栽培には適している。変成岩層帯は植生がよく、薪炭用材も成長が早かったといわれる(図6―2・3)。海岸は、風化花崗岩による狭い砂質低地が各地に発達し、特に浦状の湾入地には一七の集落が形成されている(写真6―1)。
 気温は松山と比べると、冬季は一~二度C温暖で、夏季は〇・五度Cぐらい低い。それで柑橘冷害予防線も、中島本島の二〇〇m以上の山地に、いよ柑・ネーブル対策として引かれているだけである。降水量は年平均一四〇〇㎜弱で、夏季には上空に下降気流があって夕立現象が少なく、干ばつ時にはその度を強めることがあり、灌漑施設が必要である。
 忽那島は奈良期から見える地名である。天平一九年(七四七)に録された法隆寺領荘園の中に「骨奈島」とあるのが初見で、古代には「コツナ」と呼んだかも知れない。平安期当島には令制の牧が設置され、牛馬が飼育、貢上されており、開発の古さを推測させるが、本格的開発は、開発の祖とされる藤原親賢が配流されて、この島に来た応徳元年(一〇八四)以降である。
 その子孫とされる忽那一族が豪族化していく過程は『忽那島開発記』や『忽那氏系図』にくわしいが、忽那諸島の豪族忽那氏が、瀬戸内海上勢力の雄として世に知られるようになるのは、南北朝の一三三〇年代からのことである。南朝に組した忽那義範は、山口県柱島の地頭も兼ねていたので、この島を含めて忽那七島を呼称したのであった。さらにまた、義範は度々の海上での戦功で、広島県の安田郷や灰田郷の地頭にも任ぜられたので、芸子・防予諸島海域に一大勢力を振るうことになった。そして、これら水軍の活動は近世の帆船商運に受けつがれ、「牛船」・「割木船」から粟井の廻船業に発展し、また、津和地をはじめとする諸港のにぎわいや睦月・野忽那の行商活動を促すことになった。
 寛永一二年(一六三五)の替地による領域の変更は、領民の生活に大きな影響を与えた。睦月島・怒和島と、中島のうち大浦・小浜・粟井・宇和間の六か村は大洲領として残した。松山領になったのは、野忽那村・ニ神村・津和地村と、中島のうち長師・宮野・神浦・畑里・饒・吉木・熊田の一〇か村である。大洲領と松山領では年貢の取り立てが違っていたので、それが土地利用や集落の位置にも影響している。例えば大洲藩であった宇和間は、年貢は大豆でもよかったので、便利な海岸に集落が立地し、漁業にも従事した。それに対し隣接する熊田は松山藩であって、米作を重視し、集落は山麓に立地し、水田地域が広い。
 中島の田地面積の拡大は明治末期に限界を示し、畑面積は増加の一途をたどった。農業生産向上の活路を畑作に求めた中島の換金農業は、牛の飼育、しょうが・たまねぎ・除虫菊・柑橘の栽培へと多角的に展開された。しかし昭和三〇年代から柑橘単一栽培形態に転換し、全耕地の九四%が柑橘園となった。この単一栽培形態は現在の市況の低迷や、外国産品との競合に直面すると不安定さを表面化させる。その克服は農業自体の問題であると共に他産業との連携においても考えられるべき問題である。西瀬戸経済圏を言われる現今、その東縁にあって昔ながら流通基地の性格を持つ忽那諸島に、中小造船所のにぎわいや船舶解体業の立地、プロパンガス基地の構想等があるのは一つの方向を示唆するものである。

図6-1 忽那諸島の地域

図6-1 忽那諸島の地域


図6-2 中島本島の地形分類図

図6-2 中島本島の地形分類図


図6-3 中島本島の表層地質図

図6-3 中島本島の表層地質図