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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

二 北条(風早)平野の果樹栽培


 浅海梨と浅海の果樹栽培

 北条市の果樹栽培は浅海におけるなしの栽培に始まるとされる。なし栽培の先覚者は尾上又次郎であるが、彼は明治二八年(一八九五)に園芸技師千石與太郎の農業講習会に参加して以来、果樹の有望なことを知り「番所が平」を開墾し、引き続いて明治三七年まで毎年開墾を続けた。同三九年には八・五haにりんご七、みかん一、なし二の割合で植付けを行なった。しかし、りんごの栽培は害虫被害が多く四一年には中止せざるを得なくなった(表4―8)。
 これにひきかえ、なしは土質が適していたこともあり良質のものが生産され、主として広島・呉方面に出荷された。大正七年(一九一八)には原に日之出組合が設立され、同一〇年(一九二一)には本谷に朝日組合が設立され組合による出荷が始まるようになった(写真4―5)。当時、関西地方ではなしは黒梨(静岡県が主産地)か青梨(鳥取県が主産地)に限られており、浅海のなしの入る余地は少なかったが、外観の美しさと味の良さが知られるに伴い「浅海の赤梨」として高価な価格で取り引きされるようになった。栽培面積も広がり、隣接の難波村その他にも波及していった。そして最盛期には市内全域で約三〇〇haにも達した(図4―1)。このようにして昭和四年までなし栽培は盛んとなり、なしブームにわいたのであった。しかし五年以後、なしの価格は下落し村の経済は困窮著しい状態となった。このため九年に「浅海村経済更生計画」をたて、多額の借入金によって経済の建て直しを図っていった。一三年以後ぱなしの価格も良くなり、これとともに借入金の払い戻しも順調に行なわれ、比較的短期間で返済を完了することができた。
 戦後もしばらくの間は高価に取り引きされ、浅海梨は全国的にも有名であった(写真4―6)。大正初期より盛大に発展して来たなしの栽培も、食糧事情が良くなるにつれ、高級品(長十郎系統より二〇世紀系統へ)に嗜好が向けられるようになり、浅海梨の価格は下落し始めた。また病虫害の被害が激甚であったため、採算が取れなくなり、農家の多くは成木を伐採してみかんへの植え替えを盛んに行なうようになった。三五年までにほぼ植え替えが完了しており、四〇年のなし栽培面積はわずか三haと皆無に近い状態にまで衰退している。なし栽培に決定的な打撃を与えた病虫害は赤星病と言われるもので、中間宿主は恵良山に多く自生しているビャクシンに寄生すると言われるが、その防除対策は困難であった(表4―9)。
 以上のような状況の中で、なしに代わってみかんが浅海地区の代表的果樹となっていった。もともと同地区におけるみかんの本格的栽培は、なしより約一〇年遅れて明治三八年(一九〇五)尾上又次郎・原田佐吉・忽那小太郎の諸氏が日露戦争直後に始めたものであった。昭和二年には貨車による東京市場への出荷も始まったが、この取引き価格が高かったこともあり、四年には共選場を建設して選果及び荷造りを共同で行なうようになった。なしの衰退とは反対に生産量は増加し続け、三二
年には一〇〇万㎏を超え、三九年には三〇〇万㎏に達し、各戸は競ってみかんに切り替えるという時代であった。四七年には一〇〇〇万㎏を記録したが、これはわずか一年で前年より倍増するという著しい伸び方をしたのである。このような傾向は全国的、全県的に見られたため、急速に生産過剰へと陥っていく結果となった。四七年をピークに生産量は減少傾向にあり、五四年には六六五万㎏程度にまでなっている(表4―10)。現在、国鉄浅海駅の近くに浅海果樹の創始者尾上又次郎翁及び果樹振興に生涯をかけた忽那小太郎翁の頌徳碑が建立されている。


 温州みかん

 みかんが初めて栽培されたのは明治二八年(一八九五)のことであり、浅海の尾上又次郎が試験的に導入したものである。本格的な栽培は明治三八年(一九〇五)からで、当初はなし栽培が主流を占めていたためあまり知られてはいなかった。大正初期には市内全域でもわずかに三ha余で、なしの栽培面積に比べるときわめて少なく二〇分の一にも満たなかった。しかし、昭和以後なしの不振等もあり積極的に傾斜地の開墾が進められ、栽培面積は急速に増加していった。特に戦後は、構造改善事業や開拓パイロット事業等が機械力を導入して進められ、大規模な樹園地が造成されたため、四五年には九〇〇haに達したが、このころより断続的に価格の暴落がおこるようになっていた。この結果温州みかんの栽培面積は四七年以後減少しており、五六年には最盛時の三分の一以下になっている。地区別には浅海が最も多くなっており、北条市における果樹栽培の中心地としての地位を依然として保っている(表4―11)。
 浅海におけるみかんの生産量は、昭和三年にはわずか一六万㎏でなしの一〇分の一であった。しかし二九年には八四万㎏となりなしの生産量を上回った。みかん栽培の急成長に対して、なしの衰退は止めようがなかった。浅海地区でみかんの生産量が最も多かったのは四七年で一〇〇〇万㎏を記録した(表4―10)。
 三〇年代から四〇年代前半にかけて順調な伸びを示してきたみかん栽培も、四〇年代後半から生産過剰に陥り、加えて農産物の自由化、あるいは石油価格の高騰や国内経済の沈滞などにより、大きな転換期を迎えている。従来、みかん生産量の九〇%以上を温州みかんで占めて来たが、四八年以後は需要や価格の面で有利ないよかんへの転換が行なわれてきた。四〇年にはわずか四%程度であったいよかんの生産量は、五四年には三〇%以上にもなっている。これに対し、温州みかんの栽培面積は五六年にはわずか三〇七haとなり最も多かった四七年の三二%に減少している。


 いよかん及びその他のみかん類

 いよかんが北条市で栽培され始めたいきさつについての詳細は知られていない。いよかんが脚光を浴び始めたのは、温州みかんが増産推進により、不適地でさえ栽培を行なうようになり、このため品質が低下していき出荷量自体も伸び悩んだことや、四〇年代後半に九州の諸県が温州みかんを増産し始めたことなどにより生産過剰に陥り、品種の更新がさし迫った課題となっていたことなどによるものである。当時すでにいよかんの突然変異種である「宮内いよかん」が松山内平田で発見されていた。宮内いよかんは早生の優秀な品種であったため、温州みかんの不振とは対照的に高価に取り引きされていた。このようなことから、みかん栽培農家は競って「高接ぎ」や「改植」を行ない、いよかん栽培面積は大幅に増加していった。四六年ころまでは四〇ha前後で推移していたが、五一年以後は毎年約一〇〇haずつ増加しており、五六年には六二六haとなり温州みかんの二倍以上になっている(表4―12)。
 甘夏かんやネーブル類も次第に増産の傾向にある。現時点では当地方の傾斜地利用の方法としてみかん栽培より有利な方法が見当たらないため、集団化・合理化などにより低コストで生産を伸ばすことが今後の課題となっている。

表4-8 浅海果樹の沿革

表4-8 浅海果樹の沿革


図4-1 浅海地区における梨分布図(高橋達夫原図)

図4-1 浅海地区における梨分布図(高橋達夫原図)


表4-9 梨栽培面積の推移

表4-9 梨栽培面積の推移


表4-10 浅海におけるなし・みかんの年度別生産量及び金額 

表4-10 浅海におけるなし・みかんの年度別生産量及び金額 


表4-11 北条市の地区別温州みかん栽培面積

表4-11 北条市の地区別温州みかん栽培面積


表4-12 北条市のみかん栽培の状況

表4-12 北条市のみかん栽培の状況


図4-2 北条市における蔬菜栽培地域、家畜飼養事業所の分布及び果樹栽培適地ライン

図4-2 北条市における蔬菜栽培地域、家畜飼養事業所の分布及び果樹栽培適地ライン