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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

第一節 概説


 自然環境と歴史的背景

 北条平野は風早平野ともいわれ、県都松山市のある松山平野の北に隣接する・北東の高縄山(九八六・〇m)~東三方ヶ森(一二三二・七m)にわたる山地から西流して斎灘に注ぐ、立岩川・河野川・高山川・粟井川が形成した沖積平野で(写真4―1)、海岸には断続的に砂丘が残っている。河川はいずれも短く、水無川も多い。
 気候は、瀬戸内海沿岸特有の温和少雨の気候で、年降水量は一三〇○~一五〇〇㎜である。この地域の大部分が保水性の乏しい花崗岩地域であり、河川が短小であることとも相まって、古くから溜池への関心は強かった。昭和一三年操業の倉紡北条工場は、立岩川の伏流水に注日し、それを利用している。
 北条地方は古代から風早(風速)地方と呼ばれ、その地名との関連で風が特に強いとの通説もあるが、気象資料により、具体的にその根拠を明らかにすることはできない。当地方の場合、夏季は海陸風がよく発達し、昼間は西よりの風(海風)、夜間は東よりの風(陸風)が吹く。海風と陸風の交替時は凪と称される静穏期が出現する。
 四世紀末には、すでに物部氏を名のる豪族が支配する社会が形成されており、風早郡にあったとされる粟井・河野・高田・難波・邦賀の五郷は、いずれも現在の北条市域内に比定されている。
 律令制下にあっては、平野のほぼ全域にわたって条里制が実施されていたことが宗昌寺文書などで確認されている。北条の名は、条里制に由来するとも、あるいは『予章記』に「風早大領伊予権介其子親孝北条大夫」とあるが、その居館であった北条館に由来するともいわれる。
 中世、河野氏の統治下にあった風早郡は、寛永一二年(一六三五)の替地によって、大洲藩から松山藩に移行され「天保郷帳」によると五九か村が存立している。このうち、北条村本町、辻村辻町、別府村柳原は在町として商業活動が許可され、町場としての発展がみられた。『伊予国風早郡誌』によれば、明治初年の戸数は三二六三戸、人口は一万四四〇三人となっている。その後の、世帯数、人口の推移は表4―1のとうりである。


 現況

 昭和三〇年代後半から産業構造は大きく変化しはじめ、五五年には、第一次産業人口は二四%に低下しているのに対し、第三次産業人口は四四%に達している(表4―2)。
 水田面積の減少に対して樹園地の増加は著しく(表4―3)、「浅海梨」の伝統をもつ浅海地区を中心として、みかん栽培が急増し、水田裏作としての、たまねぎ・キャベツなどの蔬菜栽培も注目されている。従来みるべきものはなかった畜産も、三〇年代後半から肉牛・豚・鶏の多頭羽飼育がみられるようになった。しかし、水産業においては、戦前盛んであったたいの「しぼり網」、いわしの「地びき網」は姿を消し、現在、わずかに「船引網」によるいわし漁が続けられている程度である。
 五四年現在、本市には四六二の商店があるが、浅海・難波・立岩・正岡地区では、農協(Aコープ)の進出で、小売商店は大幅に減少している。また、河野・粟井地区でも同じ傾向であるが、大規模住宅団地の形成に対応する商店も現われているなど、商店の動向は地区により大きく異っている。辻町筋・本町筋・朝日町筋・国鉄駅前通り筋では、商店街としての体裁を整えているが、駐車場の整備など今後の課題は多い。
 工業については、従来、製瓦・伊予絣・醸造などが家内工業的に行なわれてきたにすぎない。このような中で、戦前において倉敷紡績北条工場の誘致に成功したことや、松田博愛堂が製薬業界で名をはせたことは特筆されることであった現在は繊維関連工業が着実に発展しており、その動向も注目されている。
 この地域は最近、松山市のベッドタウンとして光洋台をはじめ、県営中須賀団地に代表される住宅団地の開発がみられる。また四一年には聖カタリナ女子短大が誘致され、北条青少年スポーツセンターとならんで、教育・文化面での躍進も期待されている地域である。

表4-1 世帯数及び人口の推移

表4-1 世帯数及び人口の推移


表4-2 産業別就業人口の推移

表4-2 産業別就業人口の推移


表4-3 経営耕地面積の推移

表4-3 経営耕地面積の推移