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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

七 高縄山地の過疎集落と廃村


過疎集落と廃村の分布

 高縄山は松山市街の北東一五㎞にそびえる標高九八六mの山である。山頂には中世の古城高縄城もあったと伝えられ、中世河野氏の戦勝祈願所であったという古刹高縄寺が今にたたずむ。山頂付近はぶなの自然林でおおわれ、山頂からの瀬戸内海の眺望にもすぐれている。古い歴史と自然景観に恵まれた高縄山は、松山市街に近く、週末にはその行楽地としてにぎわっている。
その高縄山の山ふところには、戸数二〇戸程度の小集落が多数点在していたが、これらの集落のなかには、明治以降の相次ぐ挙家離村によって、戸数が著しく減少した過疎集落や、無人の集落となった廃村が多数見られる(図3-42)。これら山間部の集落の成立については、中世河野氏の砦と関連してその麓に形成された豪族屋敷村的な集落に起源するとか、河野家滅亡に際してその残党が落ちのびてひらいた隠田百姓村的な集落に起源するとか言われているものもあるが、その起源を詳らかにできるものは無い。
 山間部の集落の藩政時代の生業は、谷底に開けた狭小な水田の耕作、山腹斜面や尾根ぞいの緩斜面に展開する畑作、さらには薪や木炭、用材や竹材などの林産物の生産などが主なものであった。谷底の水田は日照に恵まれず、かつ灌漑水が低温であり、その土地生産性は低かった。住民の生業として重要なものは、薪・木炭・用材・竹材などの林産物の生産であった。これらの林産物の市場は、松山の城下町や北条・柳原(現北条市)などの在町であり、これらの市街地に近接していたことが、交通の発達していない時代には、林産物の生産を極めて有利にしたといえる。
 このような生活は、明治以降も継承されたが、明治末年から大正年間、さらには昭和にはいるにつれて、林産物の生産は次第に不振となっていく。それは、交通の発達につれて、より遠隔の地から松山市などに林産物が運ばれてくるようになったことによる。松山や北条などの市街地に近接して、その薪材や竹材などの移出を独占していたこれら山間集落の地位は大きくゆらいでいくのである。
 一般に山間地域からの人口流出が激しくなり、いわゆる過疎集落が世上をにぎわしだしたのは、昭和三五年以降の高度経済成長期以降である。しかしながら、高縄山地の山間部の人口流出と戸数の減少が始まったのは、それよりはるかに早い。すでに明治年間から戸数と人口が減少しており(表3-59)、第二次大戦前に廃村となった集落もある。このように早い時期に戸数と人口が減少しだしたのは、林産物の生産の停滞と関連するところが大きいといえる。


 上総の変貌

 上総は松山市五明地区に属する集落である。石手川ダムのダムサイトから北東三㎞、石手川の支流上総川流域の狭小な谷底平野に立地する。明治初年の戸数は一五戸、人口は七五人であったが、大正三年には一一戸、七六人となり、この間に戸数が四戸減少している。戸数の減少は以後も続き、大正一三年には七戸、昭和一〇年には六戸となった。昭和二四年には七戸を数えたが、以後また減少し、昭和四〇年には三戸一一人の集落となり、昭和五五年までそのままの状態が継続している。
 明治初年の『風早郡地誌』によると、耕地面積は田一町三反八畝、畑二町一反五畝、物産は薪一ヶ年出高金二一円、民業は男竹籠細工を業とするもの一五戸、女紡織を業とするもの四人と記載されている。耕地面積は一戸平均にすると田九畝、畑一反四畝にしかすぎないので、その土地生産性を勘案すれば、食糧の自給にはほど遠かったであろう。住民は薪や竹籠の生産によって糊口をしのいでいたものと思われる。住民の伝承によると、藩政時代には年貢を米の代わりに薪で納め、薪二五〇貫が米一俵分の年貢に相当したという。また、上総で編まれた竹籠は上総籠といわれ、松山の住民に重宝されたという。
 集落は明治二二年(一八八九)の地籍図によると谷底平野に集村状に立地している。大正年間まで全戸萱葺であったので、火災には特に注意をはらったが、大正六年(一九一七)六月に大火が発生し、一一戸のうち七戸が焼失してしまった。火災後数年のうちに四戸が挙家離村したのは、この火災から立ち直れなかったことを物語っている。藩政時代に庄屋を勤め、明治以降も部落総代(区長)を勤めている田之内家には、その時の火災見舞人名簿が保存されているが、これによると、五明と湯山地区の各集落から見舞金や見舞の品が届けられ、また手伝に延べ五二二人もの援助が得られており、石手川の奥地の集落が、災害時における一つの相互扶助の単位であったことがわかり興味深い(表3-60・61)。
 上総の戸数と人口が明治・大正年間に減少したのは、このような火災などにもよったが、その主因は薪材や竹籠の生産が次第に停滞したことに求められる。第二次大戦後の挙家離村は、高度経済成長期に日常生活の不便を感じた住民が、松山市に新しい仕事を求めて離村したものであり、明治・大正年間の離村とは、やや性格を異にする。


 梅木

 梅木は上総の北方三㎞、上総川の源流地帯に位置する。江戸時代から明治二三年(一八九〇)に町村制が実施されるまでは独立した行政村で神社もあり、江戸時代には庄屋もあった。戸数と人口は明治初年には二五戸、一〇七人であったが、大正三年には一六戸、七四人に減少している。明治二二年(一八八九)の戸数は二五戸であったので、明治中期以降に挙家離村が始まったことがわかる。戸数と人口は昭和になっても減少し、昭和四〇年には七戸、三七人の集落に縮小する。昭和四四年一二月から四五年三月の間には四戸の家が集中的に離村し、わずか二戸となる。さらに翌四六年には一戸が減少し、以後ただ一戸の淋しい集落となってしまった。
 明治二二年(一八八九)の地籍図によって集落と耕地を復元してみると、集落は谷川に比較的近い南向きの山腹斜面に五か所に分かれて立地していた(図3-43)。井戸はなく飲料水は谷川の水に依存した。谷川ぞいには三か所の汲み地があり、住民はそこまで飲料水を汲みに行くことを余儀なくされた。汲み地の下手には洗い場があり、その上方では野菜や食器を洗い、下方では衣服などを洗った。おしめなどの汚物を洗う場所は別にあった。簡易水道が二戸の家に引かれたのは、ようやく昭和二八年であった。
 耕地は山腹斜面や尾根ぞいの平坦地に畑が、狭小な谷底平野に水田が点在していた。明治初年の『風早郡地誌』では、水田二町七反二畝、畑三町七反三畝と記載されている。一戸平均にすると、水田一反一畝、畑一反五畝にすぎない。水田では稲が作られ、畑では麦・甘藷などが作られた。畑も水田も土地生産性は低く、昭和四〇年ころでも良田の稲の反当収量は五俵程度であったという。不足する食糧は周囲の山林から薪材を伐採した後、焼畑のように山を焼いて作物を栽培して補った。これを山作というが、その耕作期間は明治年間には三年から四年程度、第二次世界大戦後は一年半程度であった。作物は自給用のそば・とうもろこしを主とした。それでも食糧は三分の一程度しか自給できず、不足する食糧は薪を売って購入したという。
 集落の周辺は広大な山林にとり囲まれている。山林は台帳面積で八六町歩というが、実面積はこの三倍程度に達する。森林は松と雑木の混合林が多く、他に竹林も目立つ。林野の所有は集落の周辺部は私有林で、一番外側が村持山となっていた。村持山は草山が多く、春の彼岸ころに山焼がされた。村持山は明治末年ごろから分割され、私有林の薪炭林に姿を変えていった。
 耕地に乏しい梅木の住民の生業は薪を生産し、城下町の松山に売ることであった。薪の生産は自山を対象とする者が多かったが、山の所有の少ない者は他山の雑木を立木で買って薪の生産をした者もある。薪の生産は正月から二月ころにかけて元倒し(伐採)をし、それを三月に三尺二寸の長さにつめる(玉伐りする)。玉伐りされた木は搬出の便利な地点に集積され、そこで長さ一尺程度に裁断される。裁断された丸太は、四月ころにまさかりにて割木にされ、山元で乾燥させた。
 この割木は夏から年末にかけて松山で販売された。販売は消費者に直接されるものが多かったが、木問屋に卸すものもあった。明治年間から昭和の初期までは、馬と徒荷で搬出された。馬には六〇貫程度の割木を積み、それを追う担夫は一〇~一五貫程度を徒荷にして松山に出た。前述の『風早郡地誌』には馬九頭と記載されているが、これらの馬の飼育目的は薪材の搬出にあった。馬のない者は徒荷のみで松山に薪を出した者もあった。昭和初期までは、石手川ぞいには県道が通じていなかったので、松山へ薪を搬出する通路は神次郎~実川~下伊台~瀬戸風峠を経由する徒歩道であった。梅木から松山間は距離にして一二km程度もあったので、駄馬による搬出でも片道四時間程度を要した。薪以外では、木炭や用材、竹なども松山に搬出された。竹は下壁用などの建築用材としての需要が多かったので、その種類は真竹であった。
 このような梅木の住民の生業は、明治年間以降、昭和三〇年ころまでは、さしたる大きな変化はみられなかった。しかるに明治中期以降挙家離村が続出したのは、交通の発達につれて、松山に他地区の薪や竹材が輸送されてきて、梅木の薪や竹材の販売が次第に思わしくなくなった結果である。昭和四〇年以降の挙家離村の理由は、①昭和三五年からの高度経済成長期に、山村からの挙家離村が全国的ムードとなり、梅木の住民がそのムードに染まったこと。②燃料革命のあおりを受けて、薪材が売れなくなり、加えて建築様式の変化で竹材も売れ行き不振となり、住民の現金収入が急激に減少したこと。③松山市の都市化の進展や奥道後温泉の開発で、松山市での勤め先が増加したこと。④山奥での生活に不便を感じたこと、特に小・中学生の遠距離通学と高校生が松山市街地に下宿ずまいを余儀なくされたことなどである。
 住民の離村先は松山市街の東部地区、すなわち石手・紅葉町・桑原町などに多い。その理由はこれらの地区が、梅木から松山市街に出る通路にあり、地理に明るかったこと、知人が多く、土地の斡旋などを得やすかったことなどによる。離村後の職業は奥道後温泉の清掃夫、製材工場や土木建築業の労務者として働く者が多く、離村当時は不慣れな仕事で苦労した者も多い。
 相次ぐ挙家離村は集落の土地利用を大きく変換させた。耕地の耕作放棄はすでに明治年間より集落の縁辺部で進んでいるが、昭和四五年ころからは離村戸の急増によって、集落の中心部にまで及んできた(図3-44)。耕作放棄された耕地の大部分はすぎ・ひのきが植林されている。現在利用されている耕地は、残存している一戸の耕地と挙家離村した二戸の耕地のみである。その耕地も省力栽培の可能なうめやくり園となったものが多い。山林はすぎ・ひのきの人工林に変わったものもあるが、その大部分は住民を失ったことによって、従来の雑木山のままで放置されているものが多い。集落に通ずる道路は離村者も含めて梅木道路組合をつくり、年間一回は修理をしているが荒廃が著しい。
 かつての梅木は、道路修理・家の普請・屋根葺き、葬式などを共同で行い、村人が助け合って生活してきた。しかし、これら村落共同体的な機能は、住民の離村によってすべて喪失してしまった。集落のすべての役職は残存戸の烏谷家一戸で負担し、集落は形骸をとどめているのみである。


 小屋

 小屋は梅木の西方一・五㎞、山一つ隔てた谷頭の集落である。明治初年の『風早郡地誌』によると、戸数三、人口一六、牛一頭、馬二頭、物産としては薪五円五〇銭と記載されている。耕地面積は水田三反四畝、畑八反八畝であり、一戸平均にすると、水田一反一畝、畑二反九畝にしかすぎない。上総・梅木同様、農業のみでは生活できず、薪材の生産と販売が住民の主な生業であった。戸数わずか三戸でありながら、藩政時代から明治二三年(一八九〇)までは独立した行政村で、庄屋もあり、神社も鎮座していた。明治二三年(一八九〇)市町村制が実施されて後も、三戸で一つの集落を形成していた。
 大正三年(一九一四)には三戸一四人と明治初期と戸数・人口に変化はほとんどみられなかったが、その後二戸の農家が松山市の一万に離村し、大正末年には藩政時代に庄屋を勤めた越智家一戸になる。その越智家も昭和三二年ころ息子夫婦が隣接集落の城山に離村、ついで昭和五一年に老夫婦が息子達の後を追って離村し、ついに廃村となる。耕地は植林されて消滅し、廃屋も荒れるにまかされている。住民を失った集落には、大三島の大山祇神社から勧請されたと伝えられる神社のみが淋しくとり残されている。


大河内

 大河内は北条市の旧河野村に属する山間部の集落であった。中世河野家の本拠であった善応寺を流れる高山川の源流近くの山間に立地する集落で、昭和一九年に廃村になるまでは、藩政時代以来独立した集落であった。
 明治初年の『風早郡地誌』によると、戸数一三戸、人口五一人、牛・馬ともに各四頭で、耕地は田四町三反四畝、畑は一町二反七畝と記載されている。一戸平均にすると、田三反三畝、畑一反であるので、農業のみでは生活の維持は困難であり、薪材の生産が重要な現金収入源となっていた。集落の周辺部の林野は、この地方でにぶ木と呼ばれる雑木山であり、ここで生産した薪は割木の形で馬や「地ごろ」と呼ばれる一輪車で柳原方面に出荷された。昭和六年に谷沿いに車道が完成して以降は、荷車によって割木は出荷された。「地ごろ」や荷車は、帰途には牛に引かせて帰るのが多かった。
 戸数は明治四〇年(一九〇七)ころまでは一三戸で推移したが、明治の末年から挙家離村が始まり、大正一〇年(一九二一)には従来の戸数の約半数の八戸に減少した。さらに昭和五年には六戸に、車道の完成した翌七年には三戸が下山し、わずか三戸となった。最後の離村戸山本家が昭和一九年一二月に離村し廃村となる。離村理由は他の集落と同じく、薪材の販売が次第に思わしくなくなったことによるが、他に住民が生活の不便を感じるようになったことにもよる。昭和五年以降の六戸の挙家離村先をみると、同じ河野村の平地部である柳原へ三戸、別府へ二戸転出し、他の一戸は松山市へ転出している。柳原や別府へ離村したのは、これらの平坦地で当時農地が求めやすかったこと、離村距離が四~五㎞であり、山間部の廃村に残してきた水田への通勤耕作が可能であり、旧来の農業を主とした生業が維持できたことによる。山間部の耕地は昭和三〇年過ぎまでは通勤耕作されていたが、その後耕作放棄され、すぎの植林地となった。


 閏谷

 閏谷は大河内から北側に山一つ隔てた河野川の源流近くに立地する山村であった。谷底とはいえ標高は四〇〇mにも達し、大河内から比べると一〇〇mも高い。藩政時代から昭和三〇年ころ廃村に至るまでの間は独立した集落であった。藩政時代には庄屋も存在し、独立した神社もあった。
 明治初年の『風早郡地誌』によると、戸数は一三戸、人口は六七人、牛二頭、馬五頭で、耕地は田一町九反、畑一町七反九畝と記載されている。一戸平均にすると田一反五畝、畑一反四畝にすぎなかったので、薪材の生産が主な生業であった。
 戸数は明治三〇年(一八九七)ころには河辺姓のみで一一戸あったというが、大正三年(一九一四)には五戸、六一人の集落に縮小している。第二次世界大戦中には、上浮穴郡面河村や温泉郡川上村から山畑で雑穀やみつまたを耕作するものも三戸ほど転入し、一時戸数も九戸程度になっていたが、戦後は河辺姓四戸となる。うち三戸は昭和二九年までに、松山市と河野村内の横山・別府に転出した。以後一戸の老人世帯が残存しているが、かつての耕地はすべて林地となり、実質的には昭和二九年以降廃村となっているといえる。


 大本

 大本は閏谷より北一・三㎞、立岩川の支流の谷頭に立地する。すりばち状の窪地に集落と耕地が開けていたが、昭和五一年廃村となった(写真3-30)。この集落は山一つ隔てた猪木の枝村であり、藩政時代以降明治二三年(一八九〇)まで猪木と共に一つの行政村となっていたが、実質的には一つの独立した集落であった。戸数は古老の伝承によると明治年間には一三戸程度あったと伝えるが、大正中期にはすでに七戸に減少していた。昭和の戦前に三戸が離村し、第二次世界大戦後には四戸となる。その四戸も昭和四五年ころから離村し、昭和五一年に最後の一戸が離村し廃村となる。住民の生業は谷底平野の水田で稲作を営む傍ら、周囲の雑木山(にぶ木山)で薪を生産し、これを北条方面に販売することであった。
 昭和になって離村した七戸の転出先は、北条三戸、高田二戸、善応寺一戸、柳原一戸であり、いずれも現在の北条市内である。転出後しばらくは大本の水田を通勤耕作していたが、昭和五五年ころからは、耕地にはすべて杉が植林されており、住民を失った数戸の廃屋が淋しくたたずんでいるのみである。


 久保野

 久保野は高縄山の北斜面の標高七五〇m程度の山腹緩斜面に立地していた集落である。集落の成立は伝承によると藩政時代末期ころであったといわれ、これまで述べた集落のように起源の古いものではない。明治初年には一五戸程度の戸数があったというが、明治四〇年(一九〇七)ころにはすでに六戸に減少していた。これらの家も明治末年から大正年間にかけて離村し、大正一二年(一九二三)最後の住民が離村して廃村となった。住民の生業は、雑穀の栽培の傍ら、炭焼きや山仕事に従事していた。北条からは距離にして一〇kmも離れていたので、薪材の生産は不利であり、薪材よりも木炭の生産の方が盛んであった。明治末年に在住していた六戸の離村先は、中村・米野々・猿川湯裾・中西内(二戸)・越智郡の小西脇などであるが、住民の離村理由の最大のものは、子弟の通学に不便をかこったことによるといわれている。

図3-42 高縄山地の過疎集落と廃村の分布

図3-42 高縄山地の過疎集落と廃村の分布


表3-59 高縄山地周辺の集落の戸数・人口の変化

表3-59 高縄山地周辺の集落の戸数・人口の変化


表3-60 上総の火災見舞品の一覧

表3-60 上総の火災見舞品の一覧


表3-61 上総の火災手伝人数の一覧

表3-61 上総の火災手伝人数の一覧


図3-43 明治22年の梅木の集落と土地利用

図3-43 明治22年の梅木の集落と土地利用


図3-44 昭和57年現在の梅木の集落と土地利用

図3-44 昭和57年現在の梅木の集落と土地利用