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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

四 卸売市場


 低い松山への集中度

 松山市の卸売業の特色は表21-31のごとく、県都松山への集中度が他県に比べて著しく低い。また、(1)大阪・高松・東京・広島などへの依存度が高い。(2)県の中心的役割が乏しく、歴史的に今治・新居浜・宇和島など県内の拠点都市への卸売機能の分散傾向が強い。これは主として松山市の卸売機能の弱さに起因するが、最近では松山市の経済発展を背景に卸売業の集中度は上昇している。松山市卸売業の概要は表2-32の通りである。これによれば、機械器具のウェイトがきわめて高く、次いで食料、飲料、建築材料、鉱物、金属材料、医薬品、化粧品、農畜産物、水産物などが主なものになっている。これによって、農業機械や弱電などの機械工業、スーパーなどの食品部門との結びつきが強いことがわかる。建築材料も松山市の都市化と関連している。
 次に松山市の卸売業の規模は、昭和五一年度で商店数約一二○○店、従業者約一万四〇〇〇人、年間販売額四七〇〇億円となって、四七年度比で販売額は三倍に急増し、その充実ぶりがうかがえる。これは昭和四七年の松山卸商センターの営業開始、五〇年一月の松山中央卸売市場の開設が卸売業の地位向上の大きな原因になっている。


 松山卸商センター

 松山卸商センターは総合卸売団地として、全国に一三〇か所立地するものの一つで、県内唯一、四国最大の規模を誇る。松山市北部の問屋町(昭和四九年に現町名に統一)に立地し、北部環状線と中央通り、国道一九六号線に接続するなど交通至便の地である(図2-27)。現在組合員数五六社による協同組合形式をとり、参加企業は非卸売業(印刷、金融等)も含むが、食品、繊維を中心に電機その他の機械や建材も多い。従業員約一五〇〇名、年間約一五〇〇億円(五七年度)に成長してきた。
卸団地設立のねらいである交通事情の緩和、協同事業による経営効率の向上、集団化による規模のメリットの追求等は開設後十年を経過した現在、初期目的はかなり達成された。しかし、現在用地の拡張が行われており、今後も情報化時代に応じた県内流通機構の拠点の一つとして、機能拡大強化の課題は多い。


 松山中央卸売市場

 県内の卸売市場を全国的に比較してみると、中央卸売市場一、地方卸売市場三九、その他の卸売市場四四で、数の上では全国同様、地方卸売市場、その他の卸売市場が相半ばして圧倒的に多い。その内、唯一の中央卸売市場が松山市に開設されている松山市中央卸売市場で、県内卸売市場の中核的存在になっている。当卸売市場は、松山市の「中央卸売市場整備計画」に基づき松山市久万ノ台に開設され、昭和五〇年一月に営業を開始した。
 本市の卸売市場は明治三九年(一九〇六)、青果問屋七軒を廃止し、三津浜町長、逸見義一が発起人となって三津果物市場㈱を設立、興居島のびわの委託を中心に、紀州みかんの買付けを行った。太平洋戦争時は卸売業者が県青果荷受組合連合会を結成し、三津果物は三津浜配給統制会社に、また市内の市場並びに問屋は松山青果物配給統制会社に統合され、さらに松山青果に統合され終戦を迎えた。戦後は松山青果土橋市場、同三津市場、マル八青果市場、平尾青果市場、伊賀上青果市場に分離営業を始めた。昭和二四年には新立青果市場、温泉青果農協中央市場、同三津市場、二六年には伊予青果海産協同組合市場、二七年には石丸青果市場、三五年には古町青果市場、三八年には温泉青果農協土橋市場が発足し、九業者、十二市場となった。これが今日の中央卸売市場の中心となった。
 取扱品目は青果で、その供給圏は松山市や重信町をはじめ三市一三町村の広域にわたっており、供給対象人口も野菜五五万人、果実六一万人に及んでいる。この卸売市場と地方卸売市場との関係は、中央卸売市場が全国規模で集荷していることから、品揃えの面からは県下の卸売市場で優位にある。地方卸売市場は中央卸売市場経由で集貨することが多く、中央卸売市場の存在が大きなメリットになっている。その反面、当地域の地方卸売市場に出荷されるべき産物が、道路整備の進行により、規模の大きい中央卸売市場に出荷されるケースも生じ、地方卸売市場の取扱高が減少するというデメリットもある。
 昭和五六年度における松山中央卸売市場の取扱高は、二〇二億七九〇〇万円(野菜五四・一%、果実四四・六%、青果物加工品等一・三%)である。図2-28は取扱高ウェイトの高い所を地域別にみたものであるが、野菜、果実とも県内出荷が約半分で、残りが全国の主産地や四国近県から入荷しており、外国産もかなり多い。この点、大半を地元及び周辺地域からの出荷に依存する地方卸売市場と異なる。


 水産市場

 松山市における魚市場の歴史は古く、諸説がある。応仁元年(一四六七)に河野通春が港山城主(現在の魚市場の北東約三〇〇m)となり、毎朝城兵の米穀魚菜を近郷の民より買い上げ、ここに多数集まり市場が形成され、それが朝市の発祥となったという(「松山城」編集書より)。また、元和二年(一六一六)松山藩主加藤嘉明当時、下松屋善衛門が魚を売買したのが最初とも言われる。その後、寛文三年(一六六三)に藩主松平定行が家老である三津の天野作左衛門他二名に対し魚問屋を申し付け、魚問屋一七名とこれに出入する魚夫を定め、また五里以内には魚市場を開かせないようにした(松山市社会科研究委員会編「松山市のすがた」)。
 明治五年(一八七二)、魚問屋一六名が共同して魚市場を設立した。明治に入り新しい資本主義の発展に影響され、同一三年(一八八〇)には別の魚問屋一五名で会社を設し魚商人一〇八名と特約して取引が行われる企業活動が始まった。明治二一年(一八八八)直径一八間(約三六m)の円形市場を建設し、先の両市場が合併した。昭和二年には三津浜町が買収して町営市場となり、同一五年の松山市との合併により市営魚市場となった。昭和五四・五五年の二年継続で新市場が三津ふ頭の埋立地に建設され、五六年九月卸売業者二社(株式会社松魚・株式会社マツスイ)、仲卸業者一七社、売買参加者二八五名、買出人一八九名、関連事業者一一店、金融機関二行で業務を開始した。現在の取扱高は図2-29の通りで、本県の水揚物を中心に輸入冷凍品も含めて順調な伸びを示している(写真2-15・2-16)。

表2-31 松山市および近隣主要都市の卸売業の各県にしめるシェア(51年)

表2-31 松山市および近隣主要都市の卸売業の各県にしめるシェア(51年)


表2-32 松山市における卸売業の商店数、常時従業者数、年間商品販売額

表2-32 松山市における卸売業の商店数、常時従業者数、年間商品販売額


図2-27 松山卸売センターの立地

図2-27 松山卸売センターの立地


図2-28 青果産地別取扱高比率(昭和56年)

図2-28 青果産地別取扱高比率(昭和56年)


図2-29 水産物産地別取扱高比率(昭和56年度)

図2-29 水産物産地別取扱高比率(昭和56年度)


表2-33 松山市における交通・商業の推移(戦後)

表2-33 松山市における交通・商業の推移(戦後)