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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

四 伊予絣

 伊予絣の起源
       
 伊予絣の創始者が垣生村今出の鍵谷カナであることに異論はない。墓は長楽寺にあり過去帳は松前町の善正寺にある。胸像が松山城の長者平にあったが五八年絣会館に移す。今出の三島神社境内と、すぐ南の長楽寺と、道後公園内に伊予絣の記念碑が建てられている(写真2-9)。ところで伊予絣は、創始した時代と、独創か、久留米絣の模倣かについて問題がある。
 まず時代は鍵谷カナが天明二年(一七八二)に生まれ、元治元年(一八六四)五月二八日、八三歳で没している。カナが金比羅参詣の船中で、飛白を着た人を見て、帰郷後考案したのを、三島神社の碑文は享和中としている。当時の招魂祭の祝詞には享和二年(一八〇二)とある。
 ところが久留米絣技術保存会編(昭和四四年発行)の久留米絣の年表には、伊予絣を鍵谷カナが発明したのは文化年間(一八〇四~一八一七)とあり、江馬務の『絣の沿革』には文化五年(一八二二)とある。これらの誤であることは、すでに川崎三郎が指摘している。
 今出の三島神社境内の「飛白織工労姫命」の記念碑(明治二〇年建立)と、道後公園内の「伊予絣創始頌功碑」(大正六年)の碑文は、金比羅参詣の船の中で、カナが久留米絣を着た人をみて、ヒントを得た説である。『愛媛県誌稿』(大正六年)も、『伊予史精義』(大正一三年)もこの模倣説である。
 しかるに昭和四年今出の長楽寺(天王社跡)の記念堂に、伊予絣同業組合が建てた記念碑には、独創説すなわち藁屋根を押さえた竹が焼けて、縞模様になっているのにヒントを得た押竹説を刻んでいる。それはこの年、高松市の織物研究家田中清範が来松し、従来の金比羅参詣途上の久留米絣模倣説は誤伝とし、次の諸点をあげている。
 ①伊予絣の創始者鍵谷カナは、久留米の創始者井上伝より六歳年長であること。享和二年はカナの長男が生まれた年で、夫婦で金比羅参詣は無理であること。②享和二年には井上伝はまだ一四歳で、いくら天才といっても不自然なこと。③当時今出あたりの人の金比羅参りは、近所の知人が、船を借り切って行くのが普通で、九州の人と同船するのは、おかしいこと。④久留米絣は有名だが絣の発祥地ではなく、享和二年(一八〇二)より早く、越後の小千谷では享保年間(一七一六~一七三五)に絣縮が織られており、関西でも薩摩絣や琉球絣が天文年間(一七三六~一七四〇)に、大和絣は宝暦年間(一七五一~一七六三)に一般に普及していたのである。なお地元の伊予では絣の前は道後縞が広く織られていた。


 伊予絣の盛衰

 伊予絣の創始後七五年を経た明治一〇年(一八七七)には年産八〇万反に躍進した。西南事変当時、需要があったので粗製濫造して、人気を失い、明治二〇年(一八八七)には四一万反である。その後復活して、二九年から一〇〇万反を越えた。日露戦争の好況で三八年から三年間は二〇〇万反台になった。その後は一〇〇万反台で、大正八年(一九一九)から昭和四年までは二〇〇万台で、日本一である。同一〇年(一九二一)には全国の絣の伊予が五三%を占め、久留米が二七%、備後が一〇%、所沢が一〇%であった。


 戦時中の伊予絣

 昭和八年ころから、伊予絣の大柄は動力織機で織れるようになった。一五年には機業家一四七軒のうち、動力工場が二四軒で、平均台数三〇台であった。支那事変に突入し、綿花の輸入制限が行なわれ、一五年には公定価格が決められ、配給となった。一八年の企業整備により、残存者は久枝の白方大三郎と、三津浜の浜田ハル子および和気の須賀薫一の三軒となった。織機は戦力増強、鉄資源確保のため政府が買い上げ鉄屑となった。三軒の絣工場も戦災を蒙った。


 戦後の糸へん景気

 昭和二一年白方大三郎らが、備後・久留米の業界代表者らと連携し、米綿の輸入と絣の生産の再開を政府に陳情したので、復興の途が開けた。白方・浜田・須賀の三業者が、伊予絣の生産復興に努めたので、綿スフ織機の復元が許され、米綿が配給された。工場も三工場が、二四年には四二工場、二六年には一〇三工場、二八年には一二六工場のピークに達した。昭和二五年には設備の制限も解け、翌年綿製品の統制も撤廃された。
 昭和二七年度には生産二〇二万反を産し、いわゆる糸へん景気を呈した。戦前には垣生村の今出に機屋が多く、旧市内の中ノ川筋に絣問屋が分布していた。戦災で今出と旧市内の復興がおくれ、新興機屋は堀江和気方面に立地した。昭和三〇年の伊予絣の生産は一六八万反で、全国シェアは伊予が三三%、備後三二%、久留米二五%、大和四%、越中三%、三河二%、千葉一%である。当時の平均単価は伊予絣五三五円、備後絣五三〇円、久留米絣八六〇円であった。絣織機の動力化率は伊予絣六〇%、備後絣七三%、久留米は高級品のため三六%であった。翌三一年から生産過剰となり、三二年から絣業界は不振に陥った。


 絣業者の分布と経営規模
 
 昭和三二年度の業者一三四軒の分布をみると、今出三四、和気四九、堀江一〇、北部(潮見・久枝・山越)二三、松山七、北条七、その他四である。同年度の問屋八軒のうち、松山七、和気一であった。同年の一三四軒の業者の経営をみると、法人二六、個人一〇八である。織機台数動力二〇三九、足踏六五三八台である(図2-21)。法人二六の内訳は足踏専業六、動力専業四、足踏動力兼業一六である。個人一〇八の内訳は足踏専業五〇、動力専業二三、足踏動力兼業三五である。昭和三二年の七〇企業者の創業年代は河野正信の著書によれば、明治六%、大正二〇%、昭和七四%で、その七四%のうち九〇%が、昭和二五年から同二九年の間の創業である。
 昭和三六年の業者八〇軒の規模をみると、従業員二〇〇人以上が白方織機所の一軒で、一〇〇人以上が一四軒、五〇人以上が一六軒、二一人以上が二六軒、二〇人以下が九軒、一〇人以下が一〇軒、四人以下が四軒であった。


 伊予絣の出し機地域

 出し機とは、織元が織機を所有していて、労働力の安い農漁村に貸して、賃織りをさせる経営形態である。今出の場合は織機を織元が所有している経営が多いのに対して、戦前松山市内では、織機は主に織子が所有していた。出し機は伊予絣に限らず、備後絣にも多い。明治時代には織る技術を習得するため、川上・久米・森松・中山・佐礼谷・中島や周桑方面から婦女子が今出の機屋へ住み込み、家事を手伝いながら三年間修業する形態があった。
 図2-21は足踏織機の分布であるが、大部分が出し機であった。昭和三〇年当時、青島へ出したのは今出の宮田金好であり、高知刑務所へ出した織元は中矢鬼之助であった。周防大島へは今出の中矢隆志と三原達昭が出していた。野忽那へは本宮豊株式会社が出しており、五十崎へは中矢幸子が出していた。
 西宇和郡伊方町湊浦の政木吉春の経営する伊方カスリ工場は、今出の乗松正延の出し機工場を継承したものである。伊方町の町営で未亡人の授産工場で当初は伊予絣を織ったが、現在は京都のウールを月産五〇〇反も生産し、日本でも有力な工場である。
 東宇和郡宇和町卯之町四丁目に、宇和町授産場がある。昭和三一年から一五年間は、今出の中矢多助の伊予絣の出し機であった。昭和四五年から伊予絣が不況になり、伊方の政木吉春の紹介で、京都の黒幸のウールを織った。これも一三年で行き詰まり、同五六年からは福岡県八女郡広川町の坂田織物と絣加工委託契約し、ウールを織っている。


 伊予絣と備後・久留米絣の対比

 この三大絣が昔から全国の九〇%以上のシェアを占めていた。昭和一〇年ころは伊予が四一%、久留米が三三%、備後は発達も遅く二六%であった。同三〇年ころには備後が四六%を占め躍進した。柄と販路を比較すると次のような特色がある。
 伊予絣は柄が全勝で、紺と白地が明瞭で、久留米に比して廉価であった。販路は関東・東北の太平洋側・北海道・九州の宮崎などの農山漁村のモンペが主であった。
 久留米絣は高級で、柄が斬新で、製造工程が丁寧で、大都市向きで高価であった。久留米も九州向きの一部作業衣もつくった。
 備後絣は柄つきを工夫し、ベレンスが強く青味をおび、伊予と同じ廉価である。販路は近畿・北陸・山陰で、一般衣料と作業衣用に供した。 


 戦後に備後絣が躍進した要因

 ①戦時中伊予絣は三軒に企業整備され、戦災を受けた。備後は戦災も受けず軍服の縫製をしたので、戦後モンペを縫って販売して有利であった。②戦後伊予絣の経営者は老人で、柄も単調で経営も消極的で、タオルに転換したものが多かった。これに対し、備後の経営者は若く、センスが新しく、出張販売して販路を開拓し、絣一筋に生きた。③昭和五七年の調査では、久留米三八万反、伊予三万反に比し、備後は六〇万反であった。その内訳はウール四五万反、綿一四万反、絹一万反であった。


 久留米絣の今も盛んな要因

 久留米絣の三八万反の内訳は綿が三〇万反、ウールが三万反、絹が五万反である。①久留米絣が比較的残っているのは品質がよく、おしゃれ着として生きている。②現在久留米市長が久留米絣技術保存会の会長を務めるほど、市をあげて熱心である。製造家が農村部に約一〇〇軒もあり、問屋が市内に三三軒もある。③組合員の分布をみると八女郡広川町が三九、筑後市が三六、三瀦郡大木町が一二、久留米市は三である。出し機方式で、農家の余剰労力を活用し、農繁期には織らない。④先代の森山富吉夫妻、当主の森山虎雄の一家は人間国宝で、これに準ずる人も多い。伝統ある高級の久留米絣をつくり着物用である。町工場の動力織の絣は大半が民芸加工品用である。⑤久留米絣の販売系統は整っている。岡本商店などはデザインに注意し、反物・上はき・道ゆき・インテリア・アパレル製品が多く、ファッション的で、綿入半纒など二〇〇万も売れた。既成品の販路は東京・名古屋が五〇%を占め、久留米絣が道後温泉にも進出し、活気を呈している。


 伊予絣の最近衰えた要因

  ①需要の減少である。伊予絣の用途は昔はフトン地や着物で、戦前からは東日本のモンペであった。今は農家も減り、ズボンをはいてモンペを着用しなくなったのが大きい要因である。おしゃれ着と民謡の踊り用に東北から注文があるが、今は民芸品用が主である。②伊予絣の有力な経営者がタオルに転換し、伊予絣に力を入れなくなった。③松山市は観光地であり商工業が盛んなので、婦女子の働き場所が多く、近郊農村の労働力が、伊予絣よりはるかに有利な方面に就職できる。備後・久留米に比して松山の労働賃金は最も高い。


 伊予絣の現況

 伊予絣は現在、松山市内では四軒が年産二万反ほど織っているにすぎない。それも白方興業の経営する伊予かすり会館で、最盛期の一〇分の一の二〇台の動力織機を残して、観光用に生産しているのが大部分である。城北方面に一時は三〇軒もあったが、今は和気の宮内房吉(大正三年-)一軒である。主人が染色し、織子は夫人と近くの家持ちの老女二人と計三人である。登録八台のうち動力織機六台が動いており、デザインは備後もので、日産一〇反程度である。
 えひめ伝統工芸士第一号の松山市築山町の越智信子(明治四二年生―)の伊予絣工場も、昭和五五年には足踏織機二二台が登録されているが、同五八年三月には四台が動いており、それもウールを織っていた。築山町の本宮絣工場には足踏織機が一〇台残っており、六人の老女が綿絣を織っていた。伊予絣の生産は衰えたが、白方興業の観光用の伊予かすり会館が採算がとれているので、消滅することはない。製品は着尺のほか、伊予絣のネクタイ・ハンドバッグ・エプロンなど、会館や此花町の問屋の豊田織物(伊予絣とタオル)の店頭に見るような民芸品が売れている(写真2-10)。
 松山の伊予絣の生産はタオルに転換し減ったが、道後温泉は日本の絣の集散地で、久留米絣の販路でもある。伊予絣を売っている店は、ホテルの売店を入れると一〇〇軒以上あり、伊予絣の生産加工販売に従事している人は三〇〇名を下らない。

図2-21 伊予絣足踏織機の分布(昭和32年度)

図2-21 伊予絣足踏織機の分布(昭和32年度)