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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

第一節 中予の区域


 大洲市・喜多郡は南予へ

 愛媛県史の地誌Ⅱは、地誌Ⅰ(総論)のあとをうけて、愛媛県を東予・中予・南予の三地域に大別し、それぞれの地域の生活・文化の特色を明らかにしようとしたものである。
 中予の地域は行政単位の郡市でいうと、松山市・伊予市・北条市の三市と、温泉郡・伊予郡・上浮穴郡の三郡の区域である。だが、この区域のとり方は固定したものではなく、昭和の初めころまでは、松山市と温泉郡・伊予郡・上浮穴郡・喜多郡の四郡を中予地域にすることもあった。当時は、東・中・南予いずれも一市四郡で(市制施行は松山明治二二、今治大正九、宇和島大正一〇)、郡・市の数では均衡がとれていた。そのころ、大洲市域を含む喜多郡を中予地域に入れながら、今回は中予から除いて南予地域に入れたのは、国会議員の選挙区や行政管轄区域の改正などを反映させた結果によるものである。
 もともと大洲市と喜多郡は、中予と南予の漸移地帯的性格をもつ地域である。都市圏からみると松山都市圏に属しながら、農業地域のうえからは南予地域である。これを衆議院議員の選挙区からみると、この地域は一区の中予に入れられたり三区の南予に編入されたりしている。昭和三年二月二日から同一七年四月三〇日までの選挙では一区の中予に属していた。それが同二二年四月二五日の選挙からは三区の南予に編入されることになる。ちなみに、昭和五八年六月の選挙人名簿の登録者数を見ると、一区の中予が四二万三七二九人、二区の東予が四〇万二七九四人であるのに対して、三区の南予は大洲市と喜多郡を入れても二七万五七二六人で、東・中予とは大きな格差をみせている。
 さらにまた大洲市を含む喜多郡は、昭和三五年四月一日から同四八年三月三一日までは松山県事務所管内であったが、同四八年四月一日からは八幡浜県事務所(今は八幡浜地方局)の管轄に変更されているのである。


 中予は松山生活経済圏

 愛媛県は「地方の時代」における地域主義を貫徹するため、広域開発計画すなわち地方生活経済圏計画を発足させ、六つの圏域を設けている。①宇摩 ②新居浜・西条 ③今治 ④松山 ⑤八幡浜・大洲 ⑥宇和島の六圏域である。これらのうち中予地域は、松山生活経済圏として、松山・伊予・北条の三市と、温泉・伊予・上浮穴の三郡が指定されているのである(図1-1)。
 なお、県史の地誌Ⅱ四巻は各論であって、中予・南予・東予(一)・東予(二)にとして、それぞれに一巻を当てているが、南予は八幡浜・大洲生活経済圏と宇和島生活経済圏、東予(一)は今治生活経済圏、東予(二)は宇摩圏と新居浜・西条生活経済圏の圏域に相当する。東予(一)の今治圏は、東予(二)の伊予三島・川之江両市を核とした宇摩圏と、新居浜・西条圏に比し圏域としては小さいが、域内の市町村数も多く、島嶼部は変化にも富んでいるので一巻を当てることにした。東予(一)の今治圏は県都松山の北方に位置するので、北予地方と仮称する。


 中予における大洲・新谷藩領

 中予地方の大部分は松山藩領であったが、中予の南西部と忽那諸島に次のように、大洲・新谷藩領が分布していた(元禄一三年〔一七〇〇〕当時)。
 温泉郡のうち、今の中島町の大浦・小浜・睦月・怒和・粟井・宇和間の旧村が大洲領であった。
 上浮穴郡のうち、久万町の父川・二名・露峰・下野尻と小田町の臼杵と上田渡・中田渡・下田渡(吉野川)・本川・中川・南山・大平・日野々川・寺村の旧村が大洲領であった。そして小田町のうち上川と町村と立石の旧村が新谷領であった。
 伊予市のうち、米湊・吾川・尾崎・本郷・中村・森・三秋・大平の一部・下唐川・上唐川・両沢・鵜崎・八倉・南神崎・上三谷・下三谷の旧村が大洲領であった。そして伊予市のうち稲荷・市場・大平の一部が新谷領であった。
 伊予郡のうち、今の松前町の南黒田と釣吉の一部が大洲領であった。今の砥部町のうち北川毛・五本松・外山・万年・川登・千足・宮内・川井・七折・大角蔵・麻生の一部が大洲領であり、砥部町のうちでも大南・大平・岩谷口・麻生の一部が新谷領であった。広田村では總津・中野川・多居谷・猿谷・玉谷・満穂は大洲領であったが、広田村のうちでも高市は新谷領であった。今の中山町の栗田・出渕・佐礼谷・中山の旧村はすべて大洲領であった。今の双海町の旧村の上灘・高野川・高岸・大久保・串の何れも大洲領であった。
 新谷領は元和九年(一六二三)大洲藩主加藤泰興が、父貞泰の遺領を相続し、弟直泰に領内一万石の分知を許可され、寛永二〇年(一六四三)に直泰は新谷へ移った。新谷領は砥部町でも広田村でも地理的条件の良い所をもらっている。


図1-1 中予の地域区分と市町村名

図1-1 中予の地域区分と市町村名