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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

一 宇和島城と天赦園


 宇和島城

 伊達一〇万石の城下町として栄えた宇和島市には、史跡・文化財・名勝などの文化的観光資源が豊富に存在する。国指定のものには、重要文化財として宇和島城天守・豊臣秀吉像があり、史跡として宇和島城跡、名勝として天赦園がある。県や市指定の文化財・史跡・名勝は枚挙にいとまがないほどである。これらの文化財のなかで一般客に解放され、観光客が多く訪れるものは、宇和島城跡と天赦園である。
 宇和島市街の中心地にある宇和島城は平山城の様式に属し、標高八〇mの分離丘陵上に立地する。戦国時代板島丸串城と呼ばれていたこの城を、本格的に築城したのは文禄四年(一五九五)宇和郡七万石の領主に封ぜられた藤堂局虎である。築城工事は慶長元年(一五九六)に始まり、同六年に完成した。城郭は、山頂に天守閣を有する本丸、その下に二の丸・藤兵衛丸などの曲輪があり、山下には城主の居館の三の丸があった。
 山上の天守閣は国指定の重要文化財で、現存のものは伊達家二代藩主宗利が城を大改修した寛文年間(一六六一~七二)の建築物である。独立式天守で三重三層、白壁の総塗り込め造りである。天守閣へは北側の登山口と南側の搦手門からの登山口から登ることができる。北登山口にある長屋門は家老桑折家のものが昭和二七年に移築されたもので、江戸中期の建物と推定されている。搦手門からの登山口にある上り立ち門は天守閣と同じ寛文年間の建物と推定されている。
 城山の樹林はかし・しいなどを主体とした照葉樹林の天然林でおおわれ、昼なお暗い。樹齢三〇〇~五〇〇年と推定されている樹木の下には、のしらんなどの大群落も見られる。藩政時代以来人手のはいっていない城山の樹林は、この地方の自然植生をよく保存しており、植物学上貴重である。
 史跡に富み、自然景観にもすぐれている宇和島城は、市民の憩いの場所であると共に、入込観光客数も多い。昭和五七年現在の観光客数は四万八〇〇〇人と推定され、多賀神社・天赦園と並ぶ入込観光客の多い観光地である(表5―57)。

 天赦園

 宇和島市街の南西部にある天赦園は、江戸末期における大名庭池水回遊式庭園として国の名勝に指定されている。藩政時代初期に宇和島藩の二代藩主伊達宗利が海を埋め立てて造成した浜御殿の一部で、七代藩主宗紀がその南隅に文久二年(一八六二)潜淵館・記念館などを造り隠居所とした。文久二年に着工した庭園が三年の歳月をへて慶長二年(一八六六)に完成した。天赦園の名は、宗藩の仙台伊達政宗の作詩「馬上少年過 世平白髪多 残躯天所赦 不楽是如何」よりとった。
 庭園全体は鬼ヶ城山系を借景とし、中心にある池は、岬・入江・曲浦など屈曲に富む汀線で囲まれ、要所に海石を配する。池の水源は、この地が扇状地の扇端であるところから、かつてはその湧水に依存していた。庭内には、くろまつ・くす・うばめがしなど常緑樹が多いが、竹と藤も多い。それは伊達家の家紋が「竹に雀」であること、伊達氏の祖先が藤原氏であることによるものである。
 天赦園への入園数は昭和五七年四万六〇〇〇人、宇和島市民の散策もあるが、県外客の入込も多い。特に花菖蒲と藤の咲きにおう五月を中心とした春季に入込客のピークを迎える。

 伊達博物館

 天赦園に隣接する伊達博物館は、藩主伊達家にまつわる文化遺産を展示している。この博物館は昭和四六年宇和島市が市制発足五〇周年を記念して伊達家の遺品を保存し、一般市民に公開する目的で建設を企画、同四八年四月起工、同年一二月に竣工、翌年六月から開館されたものである。博物館は旧御殿の一角皆楽園の地にある。
 主な展示品には、国指定の重要文化財である豊臣秀吉像、七代藩主宗紀所用の春日野鎧、九代藩主宗徳の正室が秋田佐竹家から輿入れの時使用した駕寵、狩野派の描いた金碧障屏画はじめ、鎧・具足・屏風などが枚挙にいとまがないほどである。また維新の四賢公の一人といわれた八代宗城にまつわる書簡・日記類などは当時の歴史の動向を解明する貴重な資料である。





表5-57 宇和島市の観光入込客の動向(推定)

表5-57 宇和島市の観光入込客の動向(推定)