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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

九 日振島の漁村


 浦の農業と漁業

 日振島は宇和島市の西方約二二㎞にある宇和海中最大の島で、豊後水道にもっとも近く位置している。日振島の名は藤原純友との関係を記した『日本記略』に初見するが、その文中「屯聚伊予国日振島、設千余艘」とあるのに対し、『宇和旧記』は「宇和郡内の浦々に満ちたるべし。純友日振島に居住するゆえ、只一浦ばかりのように聞えたるよしいえり」と解説している。そのように伊達秀宗が藤堂高虎のあとを受けて元和元年(一六一五)宇和島藩主として来地したとき藩内には五十四浦があった。
 浦とはリアス海岸の湾入部で、船だまりによく、後背の陸地部には狭いながらも宅地や、水田・畑があって、水陸の生産活動ができる一つの生活ブロックを形成している。水田面積が少なく、水利の悪い宇和島藩では(一九八三年宇和島市の耕地の水田率は約一二%)畑地の開拓と漁業生産に活路を求めたことは必然的なことであり、浦方百姓も半農半漁の生産形態をとった。
 その仕組についてみると親浦が人口過剰になると新浦の開拓が始まるが、新しい開拓であるから段畑の割合はより高くなる。そして開拓後数年して、いわし網漁業が許可される。甘藷・麦などの畑作生産も一応定着し、いわしの漁獲が始まると、住民の生活も確保されるので、田畑年貢と漁業年貢(地網銭や帆別銭など、後に五分一銀運上に統一される)を納めさせようというのであり、同じようにして新浦から枝浦が生まれていく。このようにして慶長一九年(一六一四)から正保四年(一六四七)の三四年間に宇和島藩の畑地面積は約二・五倍に増加すると共に、いわし網も元和元年(一六一五)以前の本網数、九七帖が貞享元年(一六八四)には結手網として七二帖の増加となっている。
 ただこれらの増加の過程で多くの網方掟が定められいわし網の保護と制限を取り決めているのをみれば、主食確保を基本にしながら漁業生産を振興することに主体があったことがわかる。「新規大網は一浦もしくは一部落にして其戸数二〇にみたざればこれを許可せず」と旧藩資料にあるのはこのことを証するものである。
 この半農半漁の実態を島しょ部の日振浦と陸地部の西三浦で比較すると、日振浦は戸数六六戸、人口四三二人、石高九六石余のうち田一一石余、いわし網四帖に対し西三浦は戸数六九戸、人口三四三人、石高三〇六石のうち田二三三石余、いわし網三帖(石高は慶安元年(一六四八)の伊予国知行高郷村数帳、他は宝永三年(一七〇六)の大成郡録による)となっている。これをみると半農の実態には随分地域較差があるのであるが、この生産構造は藩政時代を通じて発展的に推進され、戦前まで温存された。(日振島では天正二八年(一五八八)田八反一畝、畑八町二反であったものが明治四三年(一九一〇)田八反六畝、畑一〇五町七反となっている。)現在日振島では農業就業人口は皆無であり、生産性の低い日振島の段畑農業は完全に切り捨てられたのであるが、これは宇和海漁業資源の減少と重なって現在きびしい過疎現象(昭和二五年人口の約七〇%減)を示すことになっている。なお半農半漁の内容は異なるけれども、農業を温存する離島の人口減率と比較するため、参考として、山口県萩市見島と、越智郡関前村の実態を例示した(図5―46)。
 次に日振島では漁業活動における支配関係に特色が見出される。天正四年(一五七六)の清家文書によると島庄屋の清家氏は法華津氏と関係が深く、その一族が来島したと考えられるが、領主の戸田・藤堂氏の保護を受け、なかんずく藤堂氏からは二〇〇石を得て、藤堂家紋をかかげて、豊後水道海域の警備にあたっており、地の利を活用して経済力を蓄え、伊達氏になって元和五年(一六一九)銀五九七匁を納めて「請浦」とし島を支配するようになった。寛永一四年(一六三七)島原の乱で藩兵を運んだ功のあった前後から宇和海の多くの網代特権を得、又宇和島藩が置いた船番所(他の一つは佐田浦)が能登にあって、廻船は必ず立寄ったことからの諸特権も加わり、後には新田開拓、海運業・酒造業も加える地方大企業家となっていった。寛文一三年(一六七三)には藩内二九庄屋中の代表的分限者となり「島大名」と称され、家来と呼ばれる家が四〇戸ほどあったと記されている(『日振島に於ける旧漁業聞書』)。この封建的支配関係は明治二〇年ころまで続いたが、その利点としては、平均所有耕地が畑のみ二反六畝という宇和島藩浦方本百姓中最少の土地所有ながら、日振島浦方百姓たちがこの庄屋特権を背景に漁業活動の便宜や収益を得て生活を保持していったことがあげられる。     
 例えば「請浦」なので藩の水主役がなかったことや、前述の廻船寄港の便などを利用して、「問屋」や「生魚主」を介して自家産の海産物の利益があげられたこと。大資本を必要とするいわし大網(労力五〇~六〇人)に網子として参加できたことなどである。欠点としては部落共有の網が庄屋の独占になっていったことで、貞享元年(一六八四)の六帖のいわし網中、三帖は三つの部落の村君の所有であった(部落共有的)のに、安政三年(一八五六)には一一網中九網が庄屋の独占、他の一帖は明海部落と庄屋の共有となっているように庄屋への隷属性が万事に強かったことなどがあげられる。
 日振島の漁業活動についてみると、宝永四年(一七〇七)の諸魚御定値段を嘉永五年(一八五二)に改訂したとある資料の魚種名をみると五〇種以上におよび、豊富な漁場として盛んな漁業活動が行なわれたことがわかる。宇和島藩の大財源であり、宇和海の漁獲の本命はいわしであり、そのいわし大網漁が漁業の中心であった。いわし大網は九十九里浜のいわし地引網と対比されるもので船上で引く網である。本網と結出網(いわし大網)は在来の特権網で元和元年(一六一五)以前のもの九七帖、以後貞享元年(一六八四)ころまでのもの七二帖、それ以後の新網が一六〇帖前後あった。これが明治二〇年ころから巻刺網、大正に入って巻網(きん着網)となり、日振島では昭和四年から二隻巻網(両手きん着網)となり、昭和二〇年代は七船を数えたが、現在は、いわし漁不振を反映して片手きん着網二船で操業している(表5―56)。
 漁獲高は明治四四年(一九一一)の一万六四五〇円中いわし網七六%、釣魚九・六%、繰網七・七%が主たるものであった。昭和五八年度漁協販売扱では、約一〇億七五〇〇万円中、はまち鮮魚類約七七%、真珠母貝類約六・七%で養殖業中心へと変化していることがわかる。

 喜路・明海・能登の集落

 北へ傾斜する傾動地塊が三つの湾入を抱き、東から順に喜路・明海・能登の浦集落が形成されている。明海には藤原純友が拠ったといわれる城ヶ森が港の背後にあり、庄屋清家氏の居所でもあり、現在も宇和島市庁支所、日振島漁協、宇和島農協出張所、郵便局、電話交換所、小学校、診療所などがあって昔から公的機能を果たした浦である。広い湾入の中に宮の鼻の岬で限る小湾があり、両翼に喜路と能登を配し、島の中心に位置するのがその立地の条件であろう。藩政時代は庄屋の居所として、いわし網も「明海の大網」といわれこの港に集中していたが、昭和に入って網船も減少し、昭和四〇年代にはそれも姿を消してしまった。現在のいわし巻網でも三〇人前後の労力を必要とするから、巻網の廃止はその青壮年労力の分散を意味し、戸数も、人口も三集落では最も少なくなっている。しかし、南レク公園の日崎海水浴休憩センターも新設され、島の官公庁機能や、レジャー機能に主体を置いた集落活動を指向して活気をとりもどそうとしている。能登は深い湾入の中にあり、出口の前面を沖の島がおさえる良港で、かつては宇和島藩の船番所や遠見番所も置かれた。「能登の釣魚」と言われ、喜路に次いで漁業活動が盛んである。
 喜路は東を横島で防ぎ、良港であると共に、島では最も広い平地を有し、明治以後は、いわし大網の中心となり「水産製造の喜路」といわれた。現在は漁家数も島内の五六%を占め、養殖業体数も最も多い。最近の七~八年間は人口減少率もほとんど変化せず、また最近の若者ユーターン現象もあって、日振島が生命としたいわし大網にかわる養殖業、一本釣漁業、レジャー漁業などに活路を求めるべく、新しい胎動も見られる。










図5-46 日振島・関前村・見島の人口動態と就業構造

図5-46 日振島・関前村・見島の人口動態と就業構造


表5-56 宇和島市日振島の喜路・明海・能登の集落比較

表5-56 宇和島市日振島の喜路・明海・能登の集落比較