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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

七 津島町岩松の盛衰


 明治・大正年間の岩松

 岩松川の河口に位置する岩松は、河口の左岸に細長くのびた街村状の市街地である。この町は交通不便な時代には津島郷(現在の津島町の領域)の物資の集散地であり、ここから海路大阪方面に物資の積み出される港町として栄えた。
 岩松の港町は、岩松川の河口を利用したものであり、その河岸が船付場として利用された。藩政時代に笹屋の千石船が離発着したのは、現在の岩松大橋の上手にあたる小西家の前の河岸であり、川ぞいの松並木に船を繋留していたとも伝える。しかしながら河川は土砂の堆積にともなって次第に浅くなり、明治から大正年間の港は、町の最南端の湊町に移行していた。当時の岩松港から移出された物資は山間部で生産された木炭や杭木であり、湊町には炭問屋が軒を並べていた。木炭は大正初期には帆前船で大阪に移出されていたが、この港も土砂の堆積で次第に大型船の停泊が困難となる。明治四五年(一九一二)の岩松村誌には、「昔ハ干瀬七尺満瀬一丈ノ水深ヲ有シ帆船ノ出入自由ナリツモ土砂川底ヲ埋メ……、汽船ノ如キハ約一里ヲ隔ツル北灘村玉ケ月二泊シ岩松へ八通舟ノ便ヲ借ラザル可カラザルノ有様ナリ」と記されており、明治二九年から就航していた南予運輸の汽船「御荘丸」は河港には入港できなかったことがわかる。河港の機能低下はこれに代わる新港の構築を要請する。大正年間に岩松から二㎞を隔てる近家の地に近家港が改修されたのは、岩松港の代替港であった。大正年間から杭木や木材の移出は、この近家港からなされる。
 岩松の都市機能は津島郷全体の物資の集散にあった。貞享元年(一六八四)以降この地にあり、絶大なる勢力をふるった小西家は、その本家・分家で酒・醤油の醸造、製蝋などをしていたが、藩政時代の最も重要な集散物は櫨であった。明治から大正年間にかけては、山間部の御撰・清満・畑地などで生産された木炭・杭木が多く集まった。岩松の町には四~五軒の炭問屋があり、木炭は海路大阪に出荷された。炭問屋は国有林の払下げをうけ、そこに焼子をいれて、盛んに製炭業を営んだ。杭木は北九州の炭田地帯へ移出したものであり、炭田の開発と共に生産が多くなる。津島郷の山間部ではい杭木に利用される松を杭木とよぶほど、その生産が多かった。明治末期から昭和の初期にかけては、北灘・下灘などの宇和海沿岸の段畑地帯で養蚕業が盛んになってくると、そこで生産された繭が多く集まってくる。岩松に製糸工場ができたのは、明治四二年(一九〇九)二五〇人取の工場が創設されたのが最初であり、次いで同四三年と四四年に三〇人取の工場が相次いで開業された。また繭は岩松に集まったものが松尾峠を越えて宇和島の製糸工場に出荷されるものもあった。製糸業がピークに達した昭和の初期には、製糸工場は五つあり、そこで働く女工の数は四〇〇~五〇〇人にも達したという(図5―41)。
 前記の岩松村誌によると、明治四五年(一九一二)現在の岩松の製造業の数は、酒三、醤油七、酢三、製糸三、製蝋六となっている。酒・醤油・酢は地元消費であったが、生糸と生蝋は横浜・神戸に販売すると記されている。一方、商家は二七二戸で、荒物・雑貨・衣服・菓子・薪炭・材木・金物・菜種・肥料・下駄・煙草などの商店が軒を並べていた。商品の仕入地は大阪・八幡浜・宇和島であり、日用雑貨品は津島町各地に売りさばかれ、薪炭・材木は大阪への販売が多いと記されている。明治の末年から昭和の初期にかけては、港町の岩松の繁栄はその頂点に達していた。

 小西家の盛衰

 第二次大戦前の岩松に君臨し、その繁栄をほしいままにしたのは、小西家であった。小西家は貞享元年(一六八四)宇和島から岩松に移住してきた酒造商であり、三代目の当主は藩主村候より苗字帯刀を許され、以後小西と名乗るようになった。寛政一〇年(一七九八)御荘村に新田開発をしたのを契機に、以後幕末に至るまで僧都川の河口と岩松川の河口に長崎新田や胼ノ江新田を相次いで開いた。また幕末には近家塩田を経営し、蝋座頭取役にも任ぜられ、宇和島藩では最も家格の高い庄屋であった。
 小西家には本家小西家と、その分家の東小西家があり、岩松の町の中心部に居宅を構えていた。本家小西家は大地主であると共に酒造と製蝋を経営していた。酒造は明治中期に、製蝋も同年代ころには廃止する。昭和初期の小作料は約六〇〇〇俵であったので、その所有地は水田二四〇町歩程度であったと推定されている。水田は津島町内のみならず、遠く南宇和郡の御荘・城辺町にも及んだ。水田以外に畑、山林、借家も多く所有し、山林は約二〇〇町歩、借家は町内に約一二〇軒所有していたという。
 東小西家も大地主であると共に、明治末年まで醤油・生蝋の生産を営んでいた。明治二八年の所有地は水田四三町歩、畑五町歩、借家は三三軒、小作料は四〇〇石であった。また金融業も営み、明治以降その所有地を拡大する。昭和初期の小作料は四〇〇〇~五〇〇〇俵程度であったので、その所有地は水田一六〇~二〇〇町歩程度であったと推定される。山林は三〇〇~三五〇町歩程度、借家は一三〇軒程度所有していたという。
 本家小西家と東小西家は第二次大戦後急速に没落する。その契機になったのは農地改革による小作地の解放であったが、それ以前に山林を売却したこと、東小西家では昭和二〇年、本家小西家では同二三年相次いで当主が死亡し、その相続税や財産税が多く賦課されたことも、両家の没落を早めた。本家小西家と東小西家は町の中心部に、河岸から旧国道までの間に、共に一五〇〇坪の宅地を持っていた。国道ぞいに本宅があり、その裏に米倉や宝物倉があり、岩松川にのぞんで離れ座敷が配置されている構造は両家に共通していた。現在は共に数一〇軒の家に分割所有されているが、両小西家の本宅の大屋根、離れ座敷、東小西家の本座敷や宝物倉、醤油倉や庭園などは今日に残り、往時の繁栄の跡をしのぼせてくれる。また町内には棟割長屋式の家屋が多数残存しているが、これらはいずれも両小西家の借家の名残をとどめるものである。

 岩松の衰退

 岩松が津島郷の物資の集散地として栄えたのは、明治・大正年間の交通不便な時代であった。明治末年以降道路網が整備されるにつれて、岩松の町は次第に衰退していく。
 津島郷は宇和島市とは松尾峠の険わしい峠道によって隔てられ、一つの独立した経済圏であった。この松尾峠に馬車道が開通したのは明治四三年(一九一〇)であり、さらに津島郷と南宇和郡の間に大正八年鳥越トンネルが開通すると、岩松の陸上交通は飛躍的に便利になる。そしてこの道路に宇和島と御荘間を結ぶバス路線が大正八年(一九一九)開設される。大正末年から昭和の初期にかけて自動車交通が発達するにつれて、津島郷の農林産物は次第に宇和島市に集散されるものが多くなり、岩松の物資集散の機能は次第に宇和島市に奪われていくのである。また昭和五年以降製糸工業が衰退していったことも岩松の衰退に拍車をかけた。

 岩松の現況

 衰退の一途をたどっていた岩松の町が、多少なりとも活況をとりもどしだしたのは、昭和三〇年津島郷内の六か町村が合併し、その役場が岩松の町におかれて以降である。しかし岩松川左岸の旧市街地は山と川にはさまれ、その間に市街地が密集しており、市街地発展の余地はまったくなかった。昭和三〇年以降の岩松の市街地は岩松川右岸の水田地帯を埋めたてて拡張されていく。
 岩松川右岸の地が都市化されるに際して、大きな契機になったのは、昭和三八年津島大橋が架設され、国道五六号バイパスが岩松川右岸に通じるようにたったことである。この地には、昭和三二年津島中央病院が先行的に進出していたが、主な公共施設が国道ぞいに進出してきたのは、国道バイパスの開設後である。その主なものをあげれば、津島町役場(昭和三七年)、津島町農協(同四八年)、津島町郵便局(同四三年)津島町警察官派出所 (同四一年)、統合された津島中学校(同四五年)、津島町中央公民館(同五一年)などである。また公共施設と共に交通運輸業者や商店・町工場なども国道ぞいに進出が著しい。これらの中には岩松市街地にあったものが、交通の便利と広い用地を求めて進出してきたものと、津島町の各地から町の中心地であるという地の利を求めて進出してきたものの両形態がある。
 一方、旧岩松市街地は岩松川右岸の新興市街地が発展していくにつれて衰退を余儀なくされている。昭和五八年現在一〇〇戸の商家があるが、これは明治末年の約三分の一にすぎない。市街地の中には一般住宅が多く、商店密度もあまり高くない。商店の種類は最寄り品を扱う日用雑貨品店が大部分を占め、装身具・洋品・衣服などの買回り品を扱う商店はあまり多くない。商店街のなかを走る道路も、幅四m程度にすぎず、自動車の離合も困難である。また駐車場の少ないことも買物客に不便を与えている(図5―42)。
 現在の岩松商店街の機能は津島町の住民に日用雑貨品を供給することである。しかし昭和五二年に新しい松尾トンネルが完成し、岩松と宇和島市の時間距離が約二〇分程度に短縮されたことは、買回り品のみでなく、最寄品においても、次第にその顧客を宇和島市に吸引されている。旧市街地の再開発によって、いかに魅力のある商店街を形成するかが、今日の岩松商店街の最大の課題となっている。











図5-41 昭和初期の岩松の町並

図5-41 昭和初期の岩松の町並


図5-42 津島町中心商店街の形態と業種構成

図5-42 津島町中心商店街の形態と業種構成