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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

一 城下町宇和島の形成と解体


 宇和島市の立地

 宇和島市は昭和五五年の人口七万一五六六人、愛媛県内では松山市・新居浜市・今治市に次いで人口規模が大きく、南予最大の都市である。市街地は宇和海のリアス海岸の湾頭に位置するが、背後には標高一一五一mの鬼ヶ城山がそびえ、三方を山に囲まれた都市である。市街地は鬼ヶ城山塊から流れ下る辰野川と神田川の形成する扇状地上、並びに市街地の北端を流れる須賀川と西端を流れる来村川の形成する三角州上に立地している。
 宇和島市街の起源は近世初頭の城下町の形成にまでさかのぼるが、この地に城下町が造営されたのは、宇和島市の位置的な良さが注目されたからである。宇和島市は南予のほぼ中心地に位置すると共に、周辺部との交通位置にもきわめてすぐれている。リアス海岸の湾頭は水深が大きく、かつ波静かで天然の良港であり、陸上交通の発達しない時代には海か介して他地域と結合する上にきわめてすぐれていたと言える。また内陸部との関係では、鬼北盆地や土佐方面との関係位置にすぐれていた。市街地東方の千羽ヶ峠(一九〇m)を越えると鬼北盆地の穀倉地帯であり、そこを流れる四万十川の支流広見川をさかのぼると日吉村を経由して土佐の須崎に通じ、広見川を下ると土佐の中村に通ずる。いわば宇和島市は南予における水陸交通の要衝に位置していたのであり、その位置的な良さが宇和島市の発展を支えた一つの基盤であったといえる。

 城下町の形成

 宇和島の城下町の形成は文禄四年(一五九五)藤堂高虎が、戦国時代末期までこの地にあった板島丸串城を本城と定め、翌慶長元年(一五九六)から六年間を要して本格的な築城を始めたことによる。城下町の造成は慶長一三年(一六〇八)入部した富田信高にひきつがれ、藤堂・富田両藩主の時代にその原型が完成した。慶長一九年(一六一四)、仙台藩主伊達政宗の長子秀宗が宇和郡一〇万石の領主となり、翌元和元年(一六一五)三月入部し、以後明治維新に至るまで伊達一〇万石の城下町として繁栄した。板島が宇和島と改称されたのは伊達氏入部以降である。
 宇和島城は、要害の地である海に臨んだ標高八〇mの分離丘陵上に位置する。城郭は五角形をなし、二面は海に、三面は海水を導入した城濠でもって城下町と境されていた。現在も宇和島市の街路網が五角形をなし、城郭から放射状に道路が伸びているのは、城下町形成当時の遺構を今日に伝えるものである。
 伊達氏入部当時の城下町は、『北宇和郡誌』に「侍屋敷二五〇軒御城内外に有之、給知侍二百人程、同格扶持切米名侍四百八十余、総足軽七百七十人余、足軽以下都而千二百人程」と誌され、江戸前期の『手控之写(伊達家史料)』には、「御城下町数五百軒程」とあり、ほぼその規模が推察できる。城下町の東の外縁は藤堂氏の治世に付け替えられた辰野川によって画され、南の外縁は神田川によって画されていたが、この両川は宇和島城の外濠の機能を果すものであった。

 元禄年間の城下町

 宇和島の城下町が地図の上でその概要をみせるのは、元禄二八年(一七〇三)の御城下屋敷割図である(図5―26)。この図によると城濠内の丸之内には武家屋敷や御番屋・御備長屋・御材木蔵・馬場などがある。城濠の南は武家屋敷であり、濠に面して鈴木・宍戸・桑折・桜田などの宏荘な家老屋敷が並び、その外側にも順次武家屋敷が並んでいる。武家屋敷には町名は記されてないが、その屋敷割は城から遠ざかるにつれて狭小となり、身分の低い武士が住んでいたことを示す。町の南端には、御持筒町・御持弓町・御長柄町などの足軽集団の住む町があり、また町の東端の辰野川に沿っても御足軽町があった。
 城濠から東部は町人町である。追手門近くには御郡会所がある。町は南北方向に袋町通・本町通・裡町通と三つの通がある。また町の南西端近くには町人町としての佐伯町も見られる。町の東南端には木挽町・大工町などがあり、北端には船大工町の名が見えるが、これらは桶屋や大工などの居住する職人町であった。町の最北端には船入場が見え、それに接しては水主の居住地がある。
 寺院は町の南方と東方の山麓に集められ、ここが宇和島の寺町を形成する。街路は三叉路になったり、カギ型に屈曲した所が多く、外敵の侵入に備えた城下町特有の街路網を見せている。このような街路網は第二次大戦による戦災をまぬがれた市街の南方には、そのままの形で遺構を伝えている。

 文久年間の城下町

 元禄年間から約七〇年時代を下った文久年間(一八六一~六四)の御城下絵図(図5―27)によって、その後の城下町の変容を見ると、以下の諸点が指摘できる。
 まず第一に、須賀川の下流と来村川の下流に広大な干拓地が造成されている。須賀川下流では、延宝三年(一六七五)須賀川下新田、元禄一三年(一七〇〇)樺崎新田が造成され、元文元年(一七三六)にはその沖に富堤新田が造成された。一方、来村川下流では、元禄一四年(一七〇一)に松崎新田、宝暦年間(一七五一~六四)に日振新田、文政一〇年(一八二七)から兼助新田、弘化年間(一八四四~四八)のはじめに岡村新田がそれぞれ造成された。これらの干拓地は水田に利用されたものであり、ただちに市街化されたものではないが、土地の乏しい宇和島では、のち大正・昭和年間になって市街地が拡張される場所として重要な地区となる。
 次いで市街地の部分では、城下町の四周への拡大がみられる。神田川の南、市の東方を流れる辰野川の付近、さらには辰野川の北側に新に鉄砲組がおかれ、足軽集団の居住地が城下町の外縁部に拡充している。町屋では本町と裡町がそれぞれ一~五丁目に区分され、また辰野川の北側に新たに恵美須町が付加されている。このように部分的に市街地の拡張がみられたが、藩政時代を通じて、城下町の領域に大きな変化はみられなかった。

 武家屋敷の解体

 明治四年(一八七一)の廃藩置県によって、城下町宇和島は大きな変革の波を受けた。まずその影響を受けたのは武家屋敷であった。壬申戸籍の検討から廃藩直後の武家屋敷と町人町を比較した樋口節夫の研究によると、武家屋敷には空屋が多いのに対して、町人町にはあまり空屋がみられない。没落した重臣たちの宏荘な屋敷跡には、明治年間順次官公庁が進出し、城濠の南の堀端通から広小路・桜町にかけては、宇和島の官公庁街的な性格を帯びてくる。
 武家屋敷に進出してきた主な官公庁には、明治一〇年(一八七七)家老の桜田屋敷の広小路側に裁判所が、同二九年(一八九六)堀端通の家老塞戸屋敷に税務所が進出してくる。明治二二年(一八八九)の町制の実施と共に役場は広小路におかれ、翌年の郡制発布に伴って郡役所はその下隣に立地する。また明治一七年に警察署が広小路におかれ、同三〇年丸之内には営林署が進出してくる。明治四三年(一九一〇)には町立宇和島病院が旧家老松根邸に設立され、宇和島の医療施設の中心となる。
 武家屋敷には学校も多く立地した。明治二三年(一八九〇)には家老桜田屋敷の広小路側に宇和島尋常小学校が新築、同二九年には丸之内の御作事場跡に愛媛県尋常中学校南予分校が開校、同校は明治三一年(一八九八)丸穂村鶴島に移転し県立宇和島中学となる。翌三二年には桜町に町立高等女学校が開校、翌年県立高等女学校となる。明治三五年には丸之内に県立宇和島商業学校が開校、さらに同四二年には鎌原町に私立喪家女学校が設立された。これらの学校敷地は、官公庁同様いずれも旧武家屋敷の空地が利用された。
 また武家屋敷には、明治中期以降製糸工場や酒・醤油などの醸造工場が進出してくる。その代表的な町は、比較的身分の低い武士の居住地であった市街地南部の富沢町・佐伯町と城濠内の丸之内であった。

 町人町の変質

 町人町の街では、藩政時代の諸種の統制が解除されると共に、次第に商工業が活発になってくる。明治年間の商業の中心地は本町から裡町にかけての地区であるが、この地には酒・醤油の醸造所、日用雑貨品の卸・小売店が並び活況を呈した。商取引の盛んな本町には明治一七年(一八公)宇和島銀行が、同三六年には宇和島貯蓄銀行が創立され、また明治二六年には郵便取扱所が裡町から移転してきて、同三六年からは電報の取扱いも始める。
 宇和島城の城濠は明治三三年(一九〇〇)大手門から内港に至る間が埋め立てられたのを皮切りに、同四二年には大手門から町立病院に至る部分が、さらに大正二年(一九一三)にはその西方の部分が埋め立てられ消滅していく。城濠の埋め立ては、追手門の門前の追手町の繁栄をもたらす。この街は市街地のほぼ中心地にあったこともあり、大正年間から昭和の戦前にかけては、宇和島市随一の商業地区としてにぎわう。街の南端には劇場融通座が大正二年に建築され、また街の一角に内町花街が形成され、都心の歓楽街ともなる。
 陸上交通の未発達な明治年間の宇和島の交通は海上交通にたよる面が大であった。大阪航路はすでに明治一五年(一八八二)に大阪商船によって開設され、のち明治一七年宇和島の実業家によって設立された宇和島運輸の大阪航路と熾烈な競争を展開する。その大阪航路の発着点は市街地北端の樺崎であった。この地は市街地から離れていたので、明治年間には船の待合所と数軒の飲食店が並ぶ程度で市街地としてのにぎわいは見られなかった。
 一方、沿岸航路は明治四三年の宇和島と吉田間をはじめ、戸島・蒋淵・遊子方面への航路が開かれる。この沿岸航路の発着地点は城濠の一部を利用した内港であった。この内港には漁船や貨物船の入港も多かったので、それをとりまく竪新町・横新町には回漕業者や海産物問屋、さらには漁具商・肥料商・米穀商・飲食店などが集中し、活況を呈してくる。内港に面しては宇和島運輸の本社があり、明治二一年(一八八八)には本町から宇和島銀行が移転してきたうえに、川之石に本店のある二九銀行の支店も立地し、金融の町ともなる。袋町も内港に面していたので、鮮魚の水揚地となり、明治年間には魚市場が二つもあり、鮮魚商やかまぼこ製造所の多い町となる。
 宇和島の市街地の外延的な拡大は、明治末年ころまではさしてみられなかったが、市街地の機能は城下町時代のものから次第に変質していく。すなわち、武家屋敷の中心地には官公庁や学校が進出、その周辺には製糸工場や酒・醤油の醸造工場などが進出してくる。また商業地区も、藩政時代以来栄えていた本町・裡町にかわって、追手町・袋町・竪新町など、市街の中心地や海上交通の便利な地点が栄えてくる。明治末年ころには、城下町の名残は都市機能の面からはかなり払拭されていたといえる。












図5-26 元禄年間の宇和島の城下町

図5-26 元禄年間の宇和島の城下町


図5-27 安政・文久ころの宇和島の城下町

図5-27 安政・文久ころの宇和島の城下町