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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

四 高山の石灰業


 高山の石灰業のあゆみ

 高山は東宇和郡の西端の海岸村で、上部古生層の俵津層中にある石灰岩脈を嘉永二年(一八四九)以来採掘している。なお、これより先、文政一一年(一八二八)に岩井屋源右衛門が岩井三島様上で小型窯により白壁・しっくい用に石灰焼を行なったと伝えられている。その後、嘉永三年(一八五〇)に宇都宮長三郎家の祖先である長右衛門角治が土佐より石灰焼の技術を導入して小僧津(こそうづ)に窯を築いて石灰製造を始め、産業的な基礎をきずいた。当時の燃料は雑木・木炭で生産量も限られ、建築用に自給できる程度であった。宇都宮に次いで、文久二年(一八六二)に二宮家(喜十郎・後の忠兵衛)が、慶応二年(一八六六)に鹿村家が、明治元年(一八六八)に藤堂家・一宮家が、同二年に山本家が相次いで創業している。
 明治五年には石炭を筑前若松港より購入して石灰焼の燃料とした。四国では初めての事で、これにより収益が大いにあがったという。また、明治八年には二宮忠兵衛によって採石に火薬の導入もはかられ、隆盛への基礎固めがなされた。明治二〇年代には石灰需要の増加や立地条件の良さから創業が相次ぎ、同二九年には高山石灰史上最高の八三戸にも達した。同三五年には朝鮮貿易の許可もおり、その頃の発送先をみると、朝鮮・北海道・能登・越中・越後・因幡・大阪・播磨・周防・豊前・豊後・日向・薩摩・土佐・阿波・讃岐のほか県内各地におよび、全国に高山石灰の販路を広めていた。同四〇年一月には高山港千石積北前船二七隻、近海帆船四五隻入港の記録も残っている。
 大正中期には第一次世界大戦後の不況に加えて過燐酸石灰・硫安などの化学肥料が普及しはじめ、肥料用石灰は一時不況になった。そのため販路を朝鮮半島や中国に拡大して不況に対処した。しかし、工場数は年々減少し、大正一五年には二二、昭和三年一六、同六年一三となった。それでも昭和初期は高山石灰の最盛期といわれ、販路は遠くジャワ・北支・台湾・朝鮮にまで拡大された。また、津田商会はじめ、昭和産業などが採石に進出してきた。その後は第二次世界大戦に突入し、燃料の石炭不足で石灰工場は休業状態となった。さらに、敗戦直後の二〇年九月には台風により南向き湾頭の石灰工場はほとんど破壊され、物資不足で復興に手間取った。しかし、二宮小僧津工場を皮切りに、宇都宮工場などが再開され、二一年一月には関西石灰㏍も採石を開始した。戦時中、瀬戸内海の島に貯えられていた石炭の払い下げで燃料確保がなされ活気づいた。翌二二年には石炭の統制も解除され、自由販売となり、復興への条件が整った。なお、この年の業者数は一五で、都屋・井村・藤井藤之丞・長谷川・藤井繁一・二宮・一宮・高崎屋・松本・関西・山本・藤堂・清家・佐々木・公受であった。二三年には関西石灰工場が創業された。この頃には各工場とも風化機・篩機などを取り入れた機械化を促進した。二九年には関西唯一のプラスタードロマイト工場(エヒメドロマイト)が設立され、三〇年には個人経営一一、有限会社二、株式会社一、計一四戸、一五工場で三七窯が二・四万トンの生産をあげた。製袋工場も六か所で操業し、機帆船も二四隻あり、盛況であった。

 昭和三〇年以後の衰退

 三〇年代前半は神武景気・岩戸景気といわれながら石灰業界は不況であった。三四年にはさく岩機の導入がなされ、これまでの六尺の大のみに比べて、著しく効率を高めた。三六年には鈴木商会高山鉱山がグロリ法による採掘を開始し、月産二万トンを採掘した。四〇年には一一業者、二八窯で三万トンの生産をあげた(表4―23)。この年には石灰業の他、鉱業に従事する者が九三人いた。四〇年代にはいると近代化の遅れた高山地区の石灰工場は相次いで閉鎖され、四二年には七、四四年四、四七年三、五二年二となった。消石灰の生産量も四五年一万トン、四八年八五〇〇トン、五〇年八〇〇〇トンと減り、石灰原石の採掘が中心となる(図4―14・表4―24)。石灰原石は四五年六八万トン、四八年八六・七万トン、五〇年七四・六万トンであった。五一年にはこれまで一五年間に八〇〇万トン以上の採掘をした鈴木産業ぼ高山鉱山が閉山された。これは翌五二年に高山鉱山㏍として再開され、二年間操業されたが五四年七月閉山した。
 高山石灰業の立地条件と衰退要因とを考えてみよう。昭和三五年ころまでは、九州や瀬戸内海一帯を主な販路として、海岸沿いの搬出の便のよい原料石灰石の採掘がなされ、索道あるいは転下方法で運び焼成がなされるという小規模経営にとっては恵まれた立地条件下にあった。また、高山地区は交通の便が悪く、農・漁業以外にはこれといった産業がなかったため、安くて豊富な労働力や技術・資本の残存が続いたことも石灰業を支えた要因といえよう。しかし、昭和二〇年代の粗製乱造による高山石灰の名声をけがしたことや、建築用材の変化などから販路は伸びなやんだ。加えて、三〇年代以後の大量生産・大量消費の時代では、消費地に遠いことや大型船時代に見合うだけの生産規模のなさ、良質の原料石灰石の減少と採掘条件の低下、規模拡大を行なうことができない用地の狭さなどのため大分県や高知県のような近代的な石灰工場に比べて設備の近代化の遅れが目立ちはじめた。また、四二年ころ、重油焼成の導入が通産省から呼びかけられたが、相変わらずの古式の徳利窯での石灰混焼であったため、石灰の品質も向上できず衰退の一途をたどり、現在は宇都宮・一宮の二工場のみとなった。なお、この二工場はいずれも高山石灰草創期以来の古い工場である(表4―25)。
 なお、野村町大字野村には宇和ドロマイト鉱山が稼業しており、宇和鉱業(株)として製鋼用ドロマイト・苦土肥料・道路舗装用タンカル・排煙脱硫用タンカル・道路用各種砕石・生コン用砕石などの製造を行なっている。






表4-23 高山石灰史年表(№1)

表4-23 高山石灰史年表(№1)


表4-23 高山石灰史年表(№2)

表4-23 高山石灰史年表(№2)


表4-24 昭和40年5月の明浜町石灰業者

表4-24 昭和40年5月の明浜町石灰業者


表4-25 明浜町の石灰岩鉱山

表4-25 明浜町の石灰岩鉱山