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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

第一節 概説


 この地域は、肱川の本・支流が山間盆地をつらねて流れる源流地帯にあたる。領域内の町村には、西から宇和町・野村町・城川町があり、東宇和郡のうち臨海部にある明浜町を除いた地域である。
 この地域の山地は東部の高知県境では一〇〇〇mをこえるが、西に下るにつれて高度を減じ、全体的には五〇〇~六〇〇m程度の中山性の山地が卓越する。地質は秩父古生層地帯に属し、その風化土は地味良好である。住民の多くが山腹斜面に居をかまえるのは、緩斜面の発達が良好なことと、沃土に恵まれていることに関係する。
 山間地をぬって流れる肱川の本支流ぞいには、多数の山間盆地が開けている。宇和盆地・野村盆地・城川町の諸盆地などがそれである。この盆地内には、卯之町・野村・土居などの藩政時代から栄えた在町起源の商業集落があり、山間地域の中心地として栄えてきた。このなかでも宇和盆地の一角に位置する卯之町は、戦国時代に南予の領袖(りょうしゅ)であった西園寺氏の本拠地であり、近世の初頭に宇和島に城下町が形成されるまでは、南予最大の集落として栄えた。現在の卯之町は市街地の人口が七一八七にしかすぎず、広域的な地域の結節点としての機能は持ち合わせていない。この地域は南予の二大都市、宇和島市と八幡浜市の中間に位置し、その二大都市の勢力の及ぶ漸移地帯になっている。
 市制をしく都市が一つもなく、工業の発達もはかばかしくないこの地域では、産業の中心は農林業である。昭和五五年の宇和町・野村町・城川町を併せた産業別就業人口の構成をみると、第一次産業三八・八%、第二次産業二五・三%、第三次産業三五・九%である。同年の愛媛県の構成が、第一次産業一八・四%、第二次産業三〇・六%、第三次産業五〇・九%であるのと比較すると、第一次産業の構成比率が極めて高いことがわかる。
 都市化・工業化の著しくないこの地域では、住民の農林業へのとり組み方は、極めて積極的であったといえる。明治末年から大正年間にかけて、宇和盆地が県下の耕地整理事業の先進地であったこと、昭和三六年以降に始まる農業構造改善事業において、宇和町・野村町・城川町で相次いで農業構造改善事業が実施されたのは、その証左であるといえる。
 この地域の農林業で特筆されるのは、宇和盆地の稲作、野村町の養蚕と酪農、野村町・城川町の肉牛飼育と養豚業、野村・城川町のしいたけ栽培などである。宇和盆地は南予最大の稲作地域であり、現在、米の単位面積当たり収量も松山平野に次いで高い。耕地整理や戦後の圃場整備事業で基盤整備された水田では、トラクター・コンバインなどを駆使した機械化農業が、県下で最も進展している地区の一つとなっている。昭和五〇年に始まる農用地増進事業の活用が盛んなのもこの地区で、専業農家が第二種兼業農家の水田を借りて、経営規模の拡大に意欲をもやしている地区でもある。
 野村町で養蚕業と酪農業が盛んなのは、水田に開きにくい河岸段丘の地形が多いこととも関連する。養蚕業の発展上重要な役割を果たしたのは、大正一〇年(一九二一)設立された東宇和蚕糸農業協同組合である。同組合は昭和九年から製糸業を営み、この地域の養蚕業を発展させる上で中心的機能を果たした。酪農業が養蚕業の不振の中から、それに変わる産業として導入されたのは昭和一九年であった。市場に遠いこの地域では、製品加工の工場を設立することが重要であった。昭和二五年明治乳業の野村工場が設立されたのは、地元酪農組合の熱心な誘致の結果であった。現在、野村町の養蚕業と酪農業は県下随一の地位にあるが、その発展を支えたのは地元農民の熱意の賜であったといえる。
 昭和四〇年代の後半からは、肉牛飼育や養豚業も盛んになってきた。この地域にこれらの畜産業が盛んになってきたのは、地元の農協の畜産業振興への努力が大きかったといえる。仔牛や繁殖素豚の導入、飼料の購入、肉牛や豚の出荷などは、いずれも農協が主体となって行なっている。
 広大な平地に乏しい野村町や城川町では、川ぞいの谷底平野や河岸段丘、その背後にひろがる山腹斜面などが主要な生活舞台となっている。この地域で生業を営む農民は、これらの平地や山地を巧みに利用した複合的な農林業経営を営む者が多い。農家の多くは米作に畜産業、栗やしいたけの栽培などを加味した農林業経営を営む。また、酪農家や養豚農家の糞尿が養蚕農家や米作農家の肥料として供給され、反対に米作農家の稲わらが酪農家の飼料として供給されているごとく、地域内での農家間の相互依存関係の著しいのも、この地域の農業の特色といえる。