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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

四 海外移住・行商


 アメリカ移住

 南予の農漁民は、明治の新政府出現によって海外渡航が自由になると、新天地に生きがいを求め、必死の意気込みで海外へ乗り出すようになった。特に八幡浜地方は、耕地が狭く農業の発展への期待が薄かったことと、従来からの漁業の関係から、海をおそれぬ進取の気性が旺盛であったことなどで海外へ渡ろうとした人びとが多かった。
 愛媛県人としての移民渡航は明治二年(一八六九)に始まっているが、八幡浜地区からの移民は明治一二年(一八七九)冬の西井久八以後である。旧矢野崎村勘定に生まれ、渡航後シアトルで成功した彼を頼って、あるいは彼の呼び寄せによって渡航する者が多く、明治二三年(一八九〇)までに渡航した愛媛県人は二八人であった。明治二〇年ころからアメリカ西部の開発が急速に進み、労働者が不足したので、正式の移民条約が結ばれると容易に移住できるようになり、八幡浜地方においても農漁家の次男以下は続々と北米西岸特にシアトル、タコマ方面に移住した。その後、これらの都市から周辺の農業地帯へ広がっていったものも少なくなかった。
 大正元年(一九一二)におけるシアトルの日系人は八八〇〇人であり、その中一五〇〇人が愛媛県人であって、男一〇八〇人、女一六〇人、子供二六〇人であった。このことは、単身で渡航、いわゆる出稼ぎ者が多かったことを示すものであるが、職業別には農業従事者一〇三人、商業従事者八三人、学生一二人、医者六人、その他二人、農商は殆んど傭われていたもので自営者は少なかった。これら愛媛県人のうちの三分の一は八幡浜地区出身者と推定される。
 やがて、明治三五年(一九〇二)ころより排日運動が高まる州があらわれ、縁故者の呼び寄せ移民しか入国できない状況となった。大正に入ってからは排日気運はますます高まり、遂に大正一三年(一九二四)七月に合衆国移民法が施行され、全国的に日本移民の渡航が禁止された。
 八幡浜地区出身者で、アメリカ合衆国とかかわりをもった者(故人・帰国者を含む)あるいは今日アメリカ合衆国で活躍中の一世、二世の方々の数はおよそ三七四名があげられる(表3―37)。

 合田の行商

 八幡浜市の西南部で、豊後水道に面した海沿いの急斜面に小集落がある。かつて、伊予の合田商人として全国各地に行商し、大正末期には当時の戸数一八〇戸の集落で、行商専業七〇人、半農半行商九〇人を数え、八割強の世帯が行商で家計を立てていたと想像される(表3―38)。
 合田の行商は、徳川時代末期に、海産物煮干鰮(イリコ)を喜多郡の大洲、東宇和郡の卯之町方面へ売り歩いたのに端を発しているが、やがて、農家の副業として次第に生産を増していた木綿縞(現在の五反田縞)の取り扱いを始めて急速に活動範囲を広げ、大分・宮崎などの九州東海岸諸地方に得意先を開拓した。また、大阪仕入れの呉服類も取り扱うようになった。さらに、昭和初期には、中国地方から、近畿・中部・関東・東北・北海道へと急速に販路を拡大した。
 行商活動は、初期には、合田海岸に倉庫を持ち、輸送船を持った卸問屋によって行なわれた。舷にしぶきを防ぐための土を塗った板を立てた百石船に三人から四人が乗り組み、綿、和紙、畳表、すぼし・いりこ、酒・醤油など多品種を積み込み、阪神地方から岡山・土佐方面にまで往き来した。やがて、明治一二年(一八七九)ころには汽船の航行が始まったので、輸送は船会社に奪われ、卸問屋は次第に交通不便な地域への行商人となった。
 販路が拡大するに従って販売の方法も自然変化して大規模となる。資金の豊富な者は、地元産の木綿類や大阪の問屋で呉服類を仕入れ、行商予定地の定宿宛に荷を送っておき、宿所に集まった仲間に分譲し、大風呂敷に包んだ商品を背中に背負い、その地方の農家を歴訪して売り歩いた。中には祭礼、縁日などを当て込んで露店を出して売った者もいたという。
 経済界の好況不況による多少の増減はあったが、昭和一四年統制経済が始まる迄大した変化もなく続いた。戦後の一時期、若干の者が大分県の由布院・湯の平方面へ進出し、登録地域内を行商する風景がみられたが、現在では行商に従事する者はなく、かつての行商人のほとんどが農・漁業関係に転業したものとみられる。





表3-37 八幡浜地区における海外渡航者数

表3-37 八幡浜地区における海外渡航者数


表3-38 大正15年(1926)の行商売り上げ高

表3-38 大正15年(1926)の行商売り上げ高