データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

四 三崎牛


 和牛「三崎牛」の沿革

 かつて佐田岬半島には「三崎牛」と呼ばれる役肉牛の子牛生産が盛んであった。佐田岬半島における牧畜の起源は、宇和島藩主として伊達秀宗が入部して以後のこととされている。同藩主は佐田岬半島の一帯に繁茂しているチガヤが馬の飼料に適していることに着目し、名馬の産地として知られる名取郷(現在の宮城県名取市)から馬飼人を呼びよせ佐田岬半島での牛馬飼育を奨励した。佐田岬半島に残る地名には名取、馬越、馬渡など馬に関するものが多いことからも、牛よりはむしろ馬の飼育が盛んであったことがうかがえる。
 江戸時代末期のものとされる三机浦庄屋の記録によれば、同浦では牛が三二五頭、馬が四四六頭飼育されていたことが記されている。また、『四ッ浜村郷土誌』(明治四五年)には、牛・馬飼育の事情を次のように述べている。

牛ハ其価格廉ニシテ利益少ナク、田畑耕作用ノ為稀二飼育シウルモノアルニ過ギザルモ、馬ハ価格不廉ニシテ利益多ク……農民中馬ヲ飼育セザルモノ甚稀ナリ……。

 これにより「三崎馬」の飼育が盛んであったことがわかる。このため、江戸時代には塩成をはじめ四か所に馬市場が設けられていた。
 牛の飼育が盛んになってきた時期は、明治に入ってからであるとされている。明治後期より後は馬はほとんど姿を消し、これに代わって牛が本格的に飼育されるようになった。明治一〇年(一八七七)ころの牛の売買価格は、成牛一頭が八〇銭~一円二〇銭、子牛一頭が一三銭程度であった。同二〇年(一八八七)ころから牛の飼育頭数は急増し、四〇年(一九〇七)には郡内の飼育頭数は六〇〇〇頭を超えるまでになった。
 江戸時代の三崎牛は地牛と豊後牛との雑種であった。明治二〇年ころ大阪との交易を行なっていた伊井鹿吉がデボン種系の牛を持ち帰り希望者に配布した。これが三崎牛改良のはじまりであるとされている。明治四四年(一九一一)に西宇和郡畜産組合が結成され、和牛の改良と普及が進展した。このころ、島根県より優秀な種牛を導入し、佐田岬半島と三瓶町へ配布した。これにより在来種は大きく改良された。さらに昭和一四年には但馬牛を導入し、さらに改良を加え、系統牛としての三崎牛が出現した。「三崎牛」と呼ばれるのは生後一〇か月~一年の子牛の間だけであり、牛市で喜多郡・東宇和郡・北宇和郡などの家蓄商に買われ、そこで肥育される。三崎牛は肉質が良いことと早肥性が高いこともあり、高価に取り引きされた。成牛は阪神市場で「伊予牛」として取り引きされていた。
 昭和四〇年代以後、柑橘栽培の増加、他産業への労働力流出、農薬使用による飼料不足などが重なり、三崎牛飼育の中心地であった瀬戸町でも飼育頭数は減少し、大久や川之浜の海岸部で見られた放牧風景も現在ではまったく見られなくなった。

 三崎牛の分布と飼育形態

 牛の飼育は佐田岬半島の三町に分布していたが、昭和時代に人るまで瀬戸町内での飼育頭数は、三崎町や伊方町よりも少なかった。昭和二五年~三五年の推移を見ると、瀬戸町ではほとんど変化がないのに対し、三崎町や伊方町ではほぼ半減している。三五年ころの三崎牛の分布(図3―9)を見ると、一〇〇頭以上飼育している地区は大久(瀬戸町)のみであり、五〇頭~一〇〇頭飼育しているのは神崎・田部・川之浜(以上瀬戸町)・河内(伊方町)である。牛市の開かれる大久をはじめ旧四ッ浜村で多く飼育されていたことがわかる。瀬戸町での三崎牛飼育頭数を見ると、三〇年代後半から四〇年代前半にかけては、総頭数は約五〇〇頭で推移している。地区別に見ると大江地区での減少と高茂地区での急増が注目される(表3―12)。しかし、四〇年代後半から飼育頭数及び戸数はともに急激に減少し、五〇年には肉用牛飼育頭数(「三崎牛」以外も含む)は二〇〇頭となり、飼育戸数もわずか三〇戸になった。減少の原因は柑橘栽培の普及に伴い採草地が減少したことや、人口流出により労働力不足に陥ったことなどがあげられる。
 牛の多くは農家の母屋や納屋に設けられている「駄屋」で飼育されていた。このような舎飼いの場合、肢蹄が悪くなりやすい。このため、屋外を連れ歩いたり、庭につないだりしてその弊害を防ぐよう努めていた。夏の夕方には運動と舎内の暑さを避けることをかねて、海岸の砂浜に連れ出すのが日課ともなっていた。大久海岸や川之浜海岸には、夕暮れに一〇〇頭近い牛が群がっていたが、これは全国的にも珍しい牧畜景観として知られていた。
 一戸当たりの飼育頭数は、元牛(親牛)は一戸当たり一頭がほとんどであった。飼育の目的は自給肥料の確保や使役もあったが、子牛を生産し、それを現金に換えることが主目的であった。四二年の子牛売買頭数は三三三頭(雄牛一四〇頭、雌牛一九三頭)で、平均売買価格は雄牛が一二万八〇〇〇円、雌牛が一二万三〇〇〇円であった。飼料は、夏は採草地の野草や段畑の垣に生える「きしぐさ」が主なものであり、冬は干し草と干しかんしょ蔓に麦やその他の農業副産物を利用していた。もともと半島部に牛馬の飼育がおこったのはチガヤなどの野草の繁茂する原野があったことによるが、戦後においても早朝に刈り取った野草が最も重要な飼料源となっていた。

 現況

 昭和五八年現在、佐田岬半島で肉用牛を飼育しているのは瀬戸町のみであり、同町でも飼育戸数はわずか九戸に減少している。このうち四戸は高茂地区であり、他の五戸は各地区に散在している。高茂地区は二二年に五〇戸が入植した戦後の開拓地である。二三年に策定された同地区の開拓計画によると、計画面積一二一・七ヘクタール(農用地五六・三ヘクタール、附帯地五七・二ヘクタール、その他八・二ヘクタール)であった。台風により壊滅的な被害をこうむったこともあり、大部分の農家は開拓地を離れ、五八年現在わずかに九戸となっている。同地区では四二年以後牧畜振興に力を注いできた。構造改善事業による草地造成が進むに伴い、大規模な肉牛(和牛)放牧地としての基盤を築いてきた。現在は四戸(井上義明、亀井浪隆、久世凡夫、山本辰茂)が大規模な牧畜経営を行なっており、約三〇〇頭が放牧されている。







図3-9 昭和35年ころの「三崎牛」の分布

図3-9 昭和35年ころの「三崎牛」の分布


表3-12 瀬戸町の地区別「三崎牛」飼育状況

表3-12 瀬戸町の地区別「三崎牛」飼育状況