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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

一 城下町大洲


 城下町の形成

 愛媛県唯一の内陸都市大洲は、かつて加藤氏六万石の城下町として発展し、いまなお各所に往時のおもかげをとどめている。肱川が大きく曲流した如法寺山(二三〇m)の南麓で、肱川右岸(肱北)の常磐町と左岸(肱南)の城下町との対向(渡津)集落としての性格も合わせもって発展してきたもので、米子から移封された加藤氏によって万治元年(一六五八)大洲と改められるまでの旧称は大津である。
 城下町の西「地蔵ケ岳」には、源平時代にすでに比志城・地蔵岳などと称して居館があった。元弘の変には土居得能が根来城を攻略し、天正のころには宇都宮氏が拠り、さらに大野直之がこれに代り、永禄一〇年(一五六七)には小早川隆景が大津城を陥れている。その後、城主は戸田勝隆・池田高祐・藤堂高虎・脇坂安治と代わって、元和三年(一六一七)には加藤貞泰が六万石に封ぜられ維新まで続いた。なお、寛永一九年(一六四二)には一万石を新谷藩として分封した。
 大洲城は規模は小さいが、肱川と久米川を取り入れて要害堅固で、中世においては前後数回の実戦の記録がある。元弘元年(一三三一)に宇都宮豊房が伊予国守護に任ぜられ、下野より来て築城して以来三世紀にわたって漸次整備されていたが、近世城郭として完成したのは藤堂・脇坂両氏の治世のころと思われる。寛永四年(一六二七)の幕府隠密の「讃岐伊予土佐阿波探索書」によると、四重の天守閣と六つの矢倉をもつ本丸が山上にあり、山下は二の丸で八つの矢倉をもち、二の丸のうち南方の上段に居城の丸があり、六つの矢倉があった。城の南から東にかぎの手に武家屋敷となっている三の丸があり、このほか城の南西に武家屋敷があると記されている(図2―30)。
 大洲は、戦災にあわなかったことも関係して、城下町特有のT字路、L字路、喰違、袋小路などの遺構も残存し、また桝形・西ノ門・ニノ丸・三ノ丸・鉄砲町など城下町をしのばせる地名も多い。現在の鉄砲町・三ノ丸・西ノ門・浮舟・中島・西山根・東山根・比志町・殿町あたりは全部侍屋敷であった。侍屋敷は文化一一年(一八一四)当時で二七二戸(肱北一七六戸、肱南九六戸)で、ほかに侍長屋四か所、小姓長屋が二か所である。侍屋敷の規模は、城郭に近いほど大きく、周辺部へいくほど小規模になっている。三ノ丸・西ノ門・鉄砲町・中島などの侍屋敷は一般に広く、上級武士が住んでいた。なかでも三ノ丸に位置する藩主加藤家の屋敷は一九七六坪余り、大手中門附近の大橋家は一七四五坪余りもあった。それにくらべ、城下の周辺部に位置する比志町や殿町ではほとんどが二〇〇坪以下となる。周辺部でも街道に通ずる要衝に位置する屋敷は大きいようで、例えば殿町の肱川からの上陸地点にあった稲葉家は肱北でも五〇九坪余りもあった。

 町家の形成

 一方、本町・中町・末広町は町家で、そうとうのにぎわいをみせていた。当時の町家はいずれも街路に面して間口約二間から四間、奥行約八間から一五間程度のものが多く、平均して約四〇坪ぐらいである。町家特有のいわゆる短冊型をなし、全体としては長方形格子型をなしていた。なかには間口七間から一〇間の大規模な構えをもつ豪商もいた(図2―31)。
 大洲城の東端にあった城下町のうち、最初につくられたのは、慶長一〇年(一六〇五)七月に藤堂高虎が部下の田中林斎に命じて、塩売買のため建設させた塩屋町であった(城甲文書)。築城と並行して城下町の町割りも進み、寛永二〇年(一六四三)の「大津総町中之絵図」によると、肱川と並行して東西三町の本町・中町・裏町の三つの町筋が北から南へ並んでおり、この町並みを横断する南北の通りが、東から塩屋町・上横丁・下横丁であった。
 慶安四年(一六五一)の独立町家は三〇二軒で、このうち樋屋(おけや)六軒、舟役家一九軒、計二五軒が無役、二七五軒が役家とよばれ、町の諸経費を負担していた。惣町は「十人組」とよばれる三二の組(本町・中町各一二組、裏町七組、柚ノ木一組)に区分され、各組とも組頭によって統率された。また、五人の町年寄がいて、総町政の運用にあたり、藩当局から公布される町内法度を町奉行から受け、十人組を通じて町民に伝達し、町民確認の印形をとって町奉行に復命した。
 幕末期(一八六〇年ころ)のものと推定される大洲町内図によると、町屋の西端、桝形に面した場所に、北から町会所・船蔵・蔵長屋、延享四年(一七四七)設立の藩校明倫堂が並んでいた。町家の総戸数は三四三戸、内訳は、本町一丁目三七、本町二丁目三九、本町三丁目四〇、中町一丁目四五、中町二丁目三五、中町三丁目三七、裏町四三、志保町(塩屋町改称)二八、比地町三九の戸数となっている。町家の戸数は江戸時代を通じてあまり大きな変化はみられなかったが、このあたり一帯は、飲食店・たばこ店・酒屋・米屋・八百屋・呉服屋・唐津屋・よろず屋(雑貨店)・小道具屋・薬屋・油屋などの町家が軒を並べて繁昌していた。豪商の中には町内へ五軒も六軒も店を持った者もある。柚木往還と常磐町にも区画して町家があり、ここにも城下町と同じく商人や職人・あんま・山伏・用人などのほか半農半商の町家もあった。
 肱川左岸の旧城下町は侍町・町家の形態が残存し、しかも明治時代の姿をとどめている。一方、右岸の常磐町は、大洲藩が中村の在郷に設けた計画的町家(長さ三〇〇間、奥行き一五間)である。間口四間から七間、奥行き一五間の町屋が街路をはさんで両側に整然と並んでいる。予讃線開通以後は、肱南の本町、中町などよりも発展し、現在は肱川橋通りとともに大洲の中心商店街に成長したが、ここにも在町当時さながらの街路や古めかしい家構えが残っている。

 肱南地区

 旧城下町で行政・文化両機能が強く、市役所・市民会館・郵便局・中央公民館・専売公社・商工会議所・電々・消防署・警察署・税務署・農協・裁判所・高校・中学校・小学校・法務局支所・市立病院・郷土館・公園・河畔遊園地などの社会公共施設が多い。また、大洲神社・法華寺・曹渓院・光照殿・臥竜山(がりゅう)荘・大洲城・城山公園・中江藤樹邸跡・古典的商店街などの文化遺産を背景とする観光資源も多い(図2―32)。
 旧来の中心街を囲み静かな住居系地域となっているが、山地と肱川とに囲まれているため、市街の領域が必然的に狭められ、街並みは歴史的形態を残しながら肱北地区と分断された形態で存立している。また、国道五六号と国道一九七号が旧街区の中心部でT字型に連絡し、交通の渋滞が起こっている。中心部には、肱川に並行して、三筋の商店街が昔の町屋の街区の名残りをとどめており、本町一丁目二〇〇m、中町一丁目二〇〇m、末広町一丁目一五〇m、本町二丁目一四〇m、中町二丁目一四〇m、合わせて八四〇mの商店街で、街形からする面的構成に利点があるが、中心部を国道が通過しているため面積効果は半減している。核店舗はAコープ三の丸店四八一平方m、スーパーレットしまだや三〇〇平方mと二店あるが規模が小さい(図2―33)。
 商店街の業種構成では、本町一丁目では飲食サービスと最寄り品小売、中町一丁目は買回り品小売と最寄り品小売、本町二丁目は買回り品小売の店が多く、中町二丁目商店は店数が少なく、業務品店五店のうちの三店がこの地区にある。商業活動の近代化が進められ、本町一丁目は雁木式両側アーケード街となり、中町一丁目ではカラー舗装(黄色・模様入り)をすすめ環境整備の実績をあげている。古典的表情の住宅群・観光河畔と共に形態的には繁華街的要素をもっているので、豊かな観光資源と結びついた夜間性飲食など観光性・慰楽性空間の充実に期待がかけられている(表2―31)。

 肱北地区

 社会公共施設のうち四国電力・国鉄駅・国鉄バス営業所・建設省出張所・職業安定所・社会教育センター・県地方局・農業高校・中学校などがあるが、江戸時代に在町として計画的に形成された常磐町を基に、駅前から南へ殿町にのびる一三三〇mの商店街を中心に住居系地域が広がっている。
 国鉄・バス等の結接点である大洲駅から三〇〇m以内には、フジ大洲店(五二六二㎡)、Aコープ大洲店(一六一〇㎡)を核店舗として、駅前通り(道路巾一五m)、新町、常磐町六丁目が含まれ、駅前性商業機能地域として再開発のきざしがみえるが、それ以南肱川までは、自然発生街区であり、道路巾六mから五・五mで歩道はなく、やや危険な様相を呈し、駐車性も弱い。また、この地区も肱南の商店街と同様に商業内での機能分化の程度があいまいであり、商店街の中に病院や門構えの民家の混在がみられる(図2―34)。

 肱北への展開

 市内の繁華街の移り変わりと交通の変遷とのかかわりがはっきりとみとめられるのが大洲市の特色である。
 城下町東端の志保町は、大正初期までは肱川左岸の渡し場を持ち、舟を横に並べ板を敷いて浮亀橋と称した時代には、名実ともに大洲の中心街で活気に満ちていた。木ロウ・生糸の製造元や問屋、さらに料理屋・土産物屋が道路沿いに軒を並べ、職人も多い典型的な町人町であった。大正二年(一九一三)に浮亀橋よりやや下流に肱川橋(鉄筋)が完成すると、人・物資の交流は肱川橋通りに集中し、明治初期には場末にすぎなかった肱川橋通りが活況を呈するようになった。志保町は、五六号の変更及び付け替えも加わって、商業活動は衰退し、いまでは道路沿いの格子や白壁にかつての商人町をしのぶ程度で、全くの住宅街となった。
 国鉄予讃本線の開通(旧愛媛鉄道がすでに一九一六年に大洲―長浜間に開通)により大洲駅が設けられた常磐地区・若宮地区が発展し、さらに国道五六号バイパスが昭和三九年に完成してから、この新道沿線へ商店・工場など事業所の増加が目立って多くなった。大洲国鉄駅前の三叉路から新谷方面へ、松ヶ花に至る間の約一・五㎞の間では、バイパス建設時から昭和四五年の間に、家屋が五戸から六七戸に増加した。自動車販売修理関係一一戸、農機具関係六戸、食堂六戸、喫茶四戸、建材店四戸、鉄工所三戸、その他ガソリンスタンド、バッテリー、タイヤ、運送業などの交通に関した業種、明治乳業を筆頭にサニー飲料、ヤクルトなどの飲料工場、県地方局、大洲農協、建設省肱川出張所などの官庁があげられる。出身者は、殿町・常磐町・新町・若宮の元国道五六号周辺から移ってきたか、あるいは出店を出している人が多く、殿町・常磐町・新町・若宮の外延的発展といった色彩の濃いものであった。
 表2―32によって大洲市の人口の動きをみると、旧大洲町の人口が増加しているのに対して、周辺地区は軒並み人口が減少している。旧大洲町の中では、大洲と常磐町の人口減少が著しく、肱南では西大洲と柚木、肱北では常磐町を除く全域で人口が増加している。特に、若宮、市木、徳森において都市化が著しく進行している。前述の国道五六号のバイパスの建設ならびに事業所の進出が引き金になったほか、バイパス以南の大洲盆地土地改良事業、冨士山麓の大洲市住宅団地開発による山根住宅団地の建設、徳森における工業団地、並びに都市住宅団地開発構想による徳森団地の建設などが大きくかかわっている。


















図2-30 大洲城と城下町

図2-30 大洲城と城下町


図2-31 大洲総町中之絵図(寛永20年之原図)

図2-31 大洲総町中之絵図(寛永20年之原図)


図2-32 大洲市中心部の土地利用

図2-32 大洲市中心部の土地利用


図2-33 大洲市肱南地区の中心商店街

図2-33 大洲市肱南地区の中心商店街


表2-31 大洲市の商店街別業種構成表

表2-31 大洲市の商店街別業種構成表


図2-34 大洲市の肱北地区の商店街

図2-34 大洲市の肱北地区の商店街


表2-32 大洲市の地区別人口推移

表2-32 大洲市の地区別人口推移