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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

三 大洲市の商圏


 商業地域の展開

 大洲市は大洲藩の城下町として大洲盆地の商業の中心をなしてきた。肱川中流の渡頭集落として発展したが、藩政時代から明治時代を経て昭和の初期までは肱南(こうなん)地区の国道五六号の東部が中心であった(図2―28)。現在の本町・中町の二丁目から三丁目地区で城下町の原型を保存し、河川交通、旧道の道路体系、宿場町として慰楽性を求めて集まる人びとを充足する条件が集中する商業地域であった。それが大正二年(一九一三)肱川橋が完成するなどの道路体系の変化に促され、専門店中心の商店街に移行するのは昭和の初期に入ってからである。この結果、商業中心地は同じ肱南地区ながら国道五六号の西側の本町から中町一丁目地区へ移った。
 次に予讃線の開通(昭和一〇年)以後大洲駅近くの常磐町・新町が発展し、昭和三九年国道のバイパスが完成すると、その沿線が発展し大洲商業の中心は肱南から肱北に移ったと言える。
 肱南地区は市役所などの行政機関や学校、公園、運動施設などは多いが、肱川で切断され、しかも商業地域の形成が中央部を南北に走っている国道五六号で東西に分断されている。さらに戦災を受けずに残った城下町の常として街路の曲折が多く、幅員が狭く、車輛による歩行者への危険が多い。また、本町と中町の復線街路に発達した商店街で両街路を接続する巡回路に欠け、回遊性に乏しかった。昭和四八年、大洲駅前近くに大型の商業核としてフジと農協系のAコープが進出して、バス営業所や国鉄大洲駅など交通上の発展条件の整備と共に、約一、一九〇mの一線上の商業地域が形成された。さらに後背地には工業団地や住宅地の整備が進み、特に若宮~新谷間の五六号バイパス沿線には自動車関連企業を中心に食品関連や農機具関係が集中している。後背地としての農村の特性を反映しているともいえるが、大洲市以外からの進出は少なく、常磐町・新町などの外延的発展というべきである。

 商業の現状

 大洲市の商圏は五五年の国勢調査で当市の三万八七一九人と喜多郡長浜町・内子町・五十崎町・肱川町・河辺村の四町一村の三万八一九一人を合わせて七万六九一〇人になる。当市はこの地域の交通の拠点であると共に、行政、文教機能の中心として、また、産業構造の高次化による第二次産業の発展に支えられているが、商業、特に小売業の一般消費需要に対する販売額占拠率は九〇・六%と流出しており、相対的な商業力の低さを示している。(五六年『大洲市広域商業診断報告書』)それは買物調査にみられるように、主として松山市に、また一部は八幡浜市に流出しているためである。
 商業統計から県の中で占める大洲市の割合をみたのが表2―28である。商店数で二・八%であるが、従業員・販売額は少なく、生産性が低いことがわかる。また、一店当たりの従業者数、販売額をみても、県平均と比較して規模が小さく生産性が低い。大洲市の小売業は五七年で年間販売額は約二七〇億円で購買流入をみており、喜多郡地方の中心的商業都市になっているが、国道五六号や八幡浜市へ通じる夜昼トンネルの開通による交通の利便性が流出の原因にもなっている。特に呉服や婦人服などで松山や八幡浜への購買流出の傾向が強い。また、業種別販売構成からみると、県全体のそれに比較して自動車小売業に特化した様相を示していることが特色である。
 次に、大型店の現況をみると表2―29の通りである。全体で八店あるが、一五〇〇㎡以上の第一種大型店は、フジ大洲店(五二六二㎡)のみであり、一五〇〇㎡未満の第二種大型店も南予エイコー大洲店一店となっている。
 この他、実際にはAコープの三店の影響が大きいが、同店は農協資本で、農林水産省の管轄のため比較検討の資料に乏しく、他者とは同一に扱い難い。
 これら大型店の売場面積が本市小売業の総面積に占める割合は、第一種大型店が一四・七%、第二種大型店が一・八%となっており、他のAコープ三店を加えても二三・三%で、当市の商圏人口の大きさや、人口集積の条件から類似都市と比較すると高いとは言えず、今後大型店への対応がさらに厳しくせまられるとみられる。

 周辺商業地の分布と商圏

 大洲市は丘陵地と河川により市街地の形成が限られ、人口分布は分散的であるが、それぞれの集落単位で近隣の需要に対応する商業地が形成され消費は分散的であった。大洲市では図2―29のごとく、中心地と共に平野・八多喜・新谷などに小規模ながら近隣の需要に対応する商業地が形成された。中心地はこれらを包含し、センター機能を積極的にはたすべきであるが、現状ではそれ自体も近隣機能の枠を脱しきれない一面を残している。周辺商業地域はいずれも近隣型ながら、長浜と内子は立地上、鉄道と国道の影響を大きく受け、一つのまとまりを持っているといえる。五十崎は旧藩時代からいわゆる大洲半紙の中心地として商業も活発であったが、大洲同様に小田川で二分されて規模的制約を受け、平野や八多喜も旧道沿いに二〇店前後分布するにすぎない。
 次に消費者買物実態調査から商品別購買先をみたのが表2―30である。金額別にみると、金額の低い商品はそれぞれの地元依存の割合が高いが、二万円以上になると、周辺町村では大洲への依存が強まり、五万円以上になると大洲市依存と共に松山指向も強まる。商品別買物先では、大洲市の消費者は地元依存の商品が多いが、先述のごとく呉服・婦人服と、贈答品の松山での購入が多い。
 肱川町、河辺村では地元依存率六〇%以上の商品はなく、内子町・五十崎町・長浜町では最寄品関係の地元依存率が高くなっている。







図2-28 大洲市商店街配置図

図2-28 大洲市商店街配置図


表2-28 大洲市商業のウェイト

表2-28 大洲市商業のウェイト


表2-29 大洲市内大型店(準大型店)の現状

表2-29 大洲市内大型店(準大型店)の現状


図2-29 大洲市を中心とした近隣の小規模商業地

図2-29 大洲市を中心とした近隣の小規模商業地


表2-30 大洲圏における商品別購買先

表2-30 大洲圏における商品別購買先