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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

三 長浜港と須合田港の盛衰


 長浜の由来

 『積塵邦語』の巻三の中ほどに、「長浜の由来」の項目がある。著者は長浜生まれの佐々木源三兵衛(一七五二―一八三八)で立山亭喜楽と号した。五巻よりなり文政四年(一八二一)完成した大洲藩の民間の郷土誌である。近世の長浜は

「粟津郷喜多郡長浜は昔は城があったが、その由来は詳かでない。今の弁天姪子の社の処が城の台で一堆高くなっている。出来町人家の裏筋や新町西側の通りはすべて一面の堀端である。平地より余程窪い。その形が今なおあり、宝暦明和の頃までは、霖雨の時には雨水が溜ったが、々埋めあげて家々の菜園となった。沖は西より北へ廻り、水場までは三人家より浪打際まで七八丁広野で、松原また麦畑がある。今に明神畑帳、城の沖畑帳がある。東は明神浜、西北は城の沖というめぐりの浜が長いので、長浜というのであろう。云々

と『積塵邦語』にある。

 長浜の地形

 長浜の集落は、肱川の河口の砂嘴に元和以後に発達したものである。肱川の下流は有名な先行性河川で、河口に平野が形成されず、海図(一六四号四万分の一)でみると海底に三角洲があるのが判る。伊予灘断層海岸で、砂浜海岸が狭く、一~二㎞沖に、沿岸潮流のため形成された深さ三・七mの片山洲と、西方に片山洲の倍ぐらいな深さ七・八mの砂堆が読図できる。黒田の海岸に昭和四七年、晴海の第三号地の埋め立てが行なわれ、小野田セメント昭和電工・昭和サボアの工場などが誘致された(図2―26)。

 文久三年の吹寄洲

 長浜町の満野公介所蔵の文久三年(一八六三)十二月加藤出羽守の文字のある長浜の古図を見ると、肱川の河口の右岸には、沖浦の松林と蛇篭の石積のナゲがある。河口の左岸には、吹寄洲と四か所に砂洲がある。波戸、は斗と内港の防波堤があり、打瀬舟のような舟が三隻描かれている。江湖の少し北に川口番所とあり、中央に台場があり下三拾三間余、高一間半が判読できる。

 元和三年当時の長浜

 大洲城主六万石に転封された加藤貞泰は伯耆の米子を元和三年(一六一七)七月二五日出発し、同年八月五日に長浜に上陸した。このときの有様を『大洲旧記』は次の如く書いている。

加屋村(喜多郡粟津郷)庄屋座敷至て古く小宅也。六畳の間たいめんの小平書院床にして、次四畳、中敷居の真中に柱有。左近太夫様(貞泰)御国替の節、初而御入国の時、長浜に御屋敷もなく、此家に御入有しとて立替ず有、又召れしとて鞍有共、あわくらにして合点不行。云々

とあり、さらに

『積塵邦語』の須合田先庄屋、初代佐田九右衛門、万治二年(一六五九)七月卒、号宗閑。の項に、「大峯院様初而御入国の節、長浜へ御着船のこと遊彼地、御屋敷未相調依之庄屋宅・被留入被遊御宿候。御馬も間々不合候 庄屋手馬差出候処 為召 御入城被遊候由 云々」

とある。
 また『積塵邦語』に、「元和三年己年八月五日、御迎のため長浜へ罷出侯庄屋の人数名前左之通」とある。

上灘村(現双海町)清兵衛、多居谷(広田村)少介、大瀬村(内子町)彦右衛門、上川村(小田町)清右衛門、田渡村(小田町)源右衛門、二名村(久万町)九郎兵衛、上新谷(大洲市)甚右衛門、内ノ子与左衛門、五百木(内子町)弥市、上須戒(大洲市)源兵衛、論田村(内子町)弥市、田所村(大洲市柳沢)市右衛門、徳ノ森(大洲市)市之允、石畳村(内子町)仁右衛門、袋口村(内子町)与市、松尾村(大洲市南久米)左馬之介、宇和川(肱川町)惣太郎、宇津村(大洲市菅田)久太夫、菅田村九郎右衛門、森山村(大洲市)市之允、中居谷(肱川町)清九郎、横山村(河辺村)市之介、串村(双海町下灘)孫六

以上二十三人である。

このとき宇和川村の庄屋惣太郎が長浜に上陸された貞泰侯に、焼米を献上した。貞泰は喜多郡に入って初めての献上で、殊の外御満悦遊され、その田の年貢を許し給うとかや。

とある。
 出迎えの庄屋の中に、長浜の庄屋の名の見えないのは、長浜が集落村として未発達のためと思われる。

 須合田

 『西海巡見志』伊予国・寛文七年(一六六七)によれば、須合田村とあり、

高四百八十石九斗、家数百五十五軒、舟数四艘百石積より三百五十石積迄、加子数四十一人内十四人役加子、右四ヶ村(二牛・上老松・下須戒・須合田)は長浜河辺奥陸分にて候得共船持在之故申渡仕候。長浜より一里九丁陸路

とある。
 須合田は周知の如く、白滝小学校の付近であるが、藩政時代には、大洲藩の重要な物資の港であった。それで藩の代官屋敷があり、塩蔵や米蔵があった。なお宇和島藩の米倉もあった。
 藩の役人に須合田詰として代官一人、御蔵方一人、目付一人、手代一人がいた。なお文政元年(一八一八)に須合田の蔵を普請したと町誌の年表に記している。
 『弌墅載』上(二二三頁)に

蔵村之内、白髭村但津出道法大竹村迄弐里、大竹村与須合田迄五里、舟壱艘三拾三俵運賃六匁宛、須合田蔵元二而壱俵二付浜上九勺、浜下九勺、蔵敷壱合以上弐合八勺宛、外さし米とて五勺も壱合も入よし

とある。

 須合田の船着場と藩の役所と倉庫

 須合田は大字加屋の七小字の一つである。『滝川村郷土誌・明治四十四年十二月』によれば、河川交通について次の如く述べている。

本村ヨリ肱川ノ川ロニ至ル間ハ幅広ク水深クシテ、日本形船三、四百石積船舶容易二上下スルヲ得ベシ。幅ハ一様ナラズト雖モ狭キモ拾五間、広キ八二十五間二及ブ。其立石ノ如キ八本流三深渕ノ一ニシテ深サ二丈余二達スト云フ。(中略)加屋ノ内、須合田石揚場迄ハ満潮暁二来達スルヲ以テ、石船卜称スル帆船屡々入津シテ、石ヲ石工ニ給シテ当村ノ繁栄ヲ助ク

とある。
 須合田の船着場は、『郷土誌』(大正七年)や古老よりの聞き取りによると、三か所ほどナゲ(石積)が推定される。白滝小学校の西北の河岸は米揚場と称し、小学校のすぐ西の白滝五五五番地四〇〇坪(一三二九㎡)は門田屋敷と称し、藩政時代には宇和島藩の米倉と蔵元の松屋清左衛門(文化十四年五月二十二日歿八十八才)がいた。今は荒廃して人は住んでいないが貞泰侯が初めて大津(大洲)へ赴任されたとき泊られたと称する九右衛門の家が残っている。
 現在松屋九右衛門の墓地の近くに石灯篭があった。舟が須合田港に発着するとき狼煙をあげたという。今は石灯篭の代わりにコンクリートの灯篭が残っている。白滝小学校の敷地が旧家 (十九代の墓がある)鎌田屋方と称し、宇和島藩の倉があった。野村町の坂石や大洲市の野田平地の宇和島藩の米をここに集荷したのである。大洲藩の代官屋敷は今の小石直一の居る白滝甲五六二番地一五〇坪の地にあり、大洲藩の米倉が久保博道宅を中心に建っていた。明治時代に一時倉庫を小学校に代用したこともあり、写真を上田正が所蔵し、『長浜史談』第四号の口絵で紹介している。
 『郷土誌』に石揚場とあるのが大洲藩の主な須合田港であり、一町ほど上流の柿早橋の付近に、塩揚場と称するナゲがあった。ここから近い西野公温医師のいた甲五九八番地五六坪(矢野勲)の今は空家の宅地が藩の塩役所であり、坂石義明の住居五七六番地一〇八坪の屋敷に昔の塩倉の古い建物が残っている。

 大洲藩の船手組を長浜に創設

 貞泰が長浜へ上陸した時には、長浜は原野のような状態であったので、直ちに整備に着手した。貞泰は大洲藩主に着任早々、初代御船奉行に市橋新右衛門重長を任命し、禄二百石を与え、長浜浦一円のことを司らしめた。彼は元和三年から九年まで七年間、初代御船奉行として専念し船乗、船数も増加した。元和四年(一六一八)正月には貞泰侯より祝いの感状を拝受している(『長浜町誌』九八頁)。
 市橋新右衛門は赴任後、源蔵・安右衛門・久治・右門及叶助などを各方面に派遣し、漁師・船乗などを集め、船働きをする船手組を設けた。大船頭のもとに水主(かこ)を組織して、藩船運行に当たらせた。大船頭には三井加兵衛・竹内藤兵衛・阿部三右衛門・平井甚之允の四人が任命された(『積塵邦語』)。元和五年(一六一九)に市橋新右衛門は、海の守護神の住居神社を沖浦から、今の位置の長浜御建山の麓に勧請し、神社通を中心に町割を計画した(『住吉神社由来書』)。かくて、長浜へは灘・米津・白滝・小長浜方面から人びとが集まり、市街地が形成された。長浜の船奉行の初代市橋新右衛門重長の元和三年から、第三七代の神山重郎の明治四年から同五年八月までの、歴代船奉行の氏名、任期、禄高など記録が残っている。

 御船手奉行の組織

 藩政時代の御船手組の組織のあらましは次のようである。大目付一人、御目付五人、医師一人、  御蔵代官一人、御蔵方一人、御作事一人、大船頭三人、小船頭一四人、人仕役二人、棟梁二人、小物成二人、取次書役二人、御蔵目附一人、御蔵手代二人、下目付二人、浜番所二人、御台所詰二人、御船手組(柁取一六人、手明一六人、並御扶持九〇人)、御肴持一五人、櫛生浜番一人。外に須合田詰として代官一人、御歳方一人、目付一人、手代一人。

 藩政時代の長浜の集落と古地図

 元和三年(一六一七)大洲藩の初代の加藤貞泰が長浜へ初めて到着した時は、長浜の集落は寒村であったが、藩が長浜に船手組を設け、船手奉行を任命し、集落の形成に力を入れたので、五〇年後の寛文七年(一六六七)には表2―27のように二〇八戸の家数に発展し、加子や船が驚くほど、増加している。
 藩政時代の長浜の古地図で紹介されているものが四点ある。文久三年(一八六三)の満野公介所蔵の長浜地図には、吹寄洲が四か所と防波堤や川口番所や台場などは描かれておるが、町割や主たる屋敷さえも書かれていない。
 『長浜町誌』(一八六頁)が転載している大洲藩主加藤家蔵の長浜町古図には、江湖と御船蔵と御作業、藩の御屋敷・多田半蔵・玉井半兵衛・人見口衛門など六人の侍屋敷、住吉明神・川口番所・古城えびす堂、古城の大きさ=惣回り百八拾六間、幅四拾六間、弐拾五間、古城より六拾間、右京様御屋敷、寺、町などの文字が判読できる。
 住吉神社の御広前の奉納額の天明六年(一七八六)の長浜古図は立派なもので、高橋源右衛門六三歳が、当時の長浜の町家を写真の如く正確に、一軒一軒描いたものである。兵頭正は、北東から南西に通っている本町より北西部(海側)が二四九軒、本町より南東部(山側)二八九軒、合計五三八軒と推定している(『住吉神社沿革史概説』)。
 安政六年(一八五九)の長浜の旧港図と新港図が、『長浜町誌』二五七頁に転載されている。これは宇津村の豪商奥野源左衛門(―一八六九)らの私財投入により完成したものである。西波戸の四拾間と八拾間、北に八拾間の一文字波戸が描かれている(図2―27)。

 明治維新当時の長浜港

 安政六年(一八五九)に奥野源左衛門の寄附などにより長浜港の波止改修が行なわれ、藩主の御召船駒手丸の一〇回目の御造替進水が安政四年(一八五七)である。万延元年(一八六〇)に藩主泰祉が長浜の波戸を視察見分する。文久二年(一八六二)三月には土佐の吉村寅太郎や坂本竜馬らが長浜の富屋金兵衛の家に泊まり中ノ関を経て長州に渡っている。
 文久三年に大洲藩新谷藩が長浜に大筒の台場を造った。天誅組の義拳で、吉村寅太郎は八月戦死した年二十六歳、文久三年六月六日フランス船が長浜沖に停泊す。元治元年(一八六四)三月、藩主泰祉は長浜―郡中の海岸を巡検している。慶応二年(一六六六)六月一四日第二回防長征伐のため、長浜郡中へ固めの人数を出す。九月六日、三万両で購入のいろは丸が長浜へ入港す。慶応三年(一八六七)四月二三日坂本竜馬に貸したいろは丸が鞆の浦で沈没した。
 明治元年大洲藩は甲府守衛を命ぜられ、藩兵一小隊が長浜港を出発した。

 明治大正時代の長浜港

 明治七年(一八七四)長浜郵便局設置、明治八年長浜に人力車開始、同一〇年大洲警察署長浜分署になる。同一七年今坊村の東久治郎が換盛丸を購入し、長浜宇和島間を就航。同二一年有限責任肱川会社を設立し、第一・二・三肱川丸を造る。同二七年に肱川汽船KK設立。同三〇年三月十五日旅芝居一座二四名、渡海船にて肱川河口で転覆溺死す。同三〇年一〇月三一日軍艦扶桑(瓜生外吉艦長)長浜沖に沈没。同三五年客馬車開始、同三六年長浜―大洲間の県道が開通した。同四〇年末永回漕店が業務開始し、高浜三津三机線の第二宝安丸が就航した。大正二年(一九一三)に三机・長浜・宇品線航路開始。同七年二月一四日愛媛鉄道長浜大洲間開通。同九年長浜港防波堤の大改築に着手し、昭和二年三月三一日完成した。同一三年に長浜上水道の工事着工し同一五年二月一四日完成する。

 昭和戦前の長浜港の機能

 昭和二年三月三一日に長浜港の大防波堤が完成し、別府―大阪航路客船が長浜へ発着するようになった。しかし艀(はしげ)(通い船)で乗降し、桟橋横付ではなかった。同七年四月から大阪商船の大型船の紫丸紅丸が長浜港に寄港を始めた。同八年一〇月一日愛媛鉄道国鉄移管。昭和一〇年四月一一日長浜水族館開設、同五月二五日松原温泉開業、同一〇年七月海水浴場開設、同一〇年八月二四日民政系の西村兵太郎の尽力により長浜大橋(バスキュール式開閉橋)完成。同一〇年一〇月六日予讃線下灘―喜多灘―長浜―上老松―白滝―八多喜―五郎―大洲線開通。
 昭和一〇年一〇月一三日政友系の大和橋(上老松)開通す。戦前戦時中は、北九州の石炭を阪神方面に運ぶ機帆船が帰り荷に肱川の砂利を防長や北九州に運んでいた。昭和四年一月伊予砂利合資会社が設立された。南洋群島へも肱川の砂利を運び、帰り荷にワニを持ち帰り、長浜の水族館に入れた。肱川の河口の結晶片岩の砂利は良質で、ビルや道路工事用はもちろん、南洋の軍事施設用に運んでいた。
 長浜は和歌山の新宮、秋田の能代とともに、日本の三大木材集散地であった。「伊子の小丸太」と称し、長浜に集散されるものは、建築材の柱や垂木や坑木が多く、今の輸入される巨木とは違っていた。販路は内地はもちろん、台湾や満鮮の社宅・駅用に出荷された。坑木は北九州や宇部などの炭坑に送られていた。長浜は冬季、北西の季節風が強いので、台湾行の本船は興居島の東側に停泊し、長浜から興居島まで小丸太を筏にして送り、本船に積込んでいた。積荷を終わって松山から長浜に夜汽車で帰る人夫の人びとに逢った思い出が忘れられない。












図2-26 長浜の海図

図2-26 長浜の海図


表2-27 寛文7年(1667)当時の長浜の家数・加子・船(西海巡見志・伊予国)

表2-27 寛文7年(1667)当時の長浜の家数・加子・船(西海巡見志・伊予国)


図2-27 長浜町須合田港の今昔

図2-27 長浜町須合田港の今昔