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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

一 大洲盆地の交通路の変遷


 大洲盆地と峠

 大洲は盆地のため、松山へ出るには犬寄峠(標高三〇六m)を、八幡浜へ行くには夜昼峠(三〇〇m)を、宇和島に行くには鳥坂(とさか)峠(旧道四五〇m、新道四〇〇m)を、土佐の檮原へ行くには山鳥坂の泉ヶ峠(六五〇m)か耳取峠(六〇〇m)を越えねばならなかった。今ではほとんどの峠の下をトンネルが通じている。もっとも長浜港に出るには、川筋に明治三七年(一九〇四)道ができ、川舟の便もあった。
 なお犬寄峠のバイパスとして、内子から石畳―仏峠(標高五〇〇m)―下灘の道、また内子から応永九年(一四〇二)の鳥居のある永木の三島神社から、鳥越(五五〇m)―大栄を経て上灘のコースも通った。奥大栄には今でも昔の石畳の道が残っており、道標もある。このほか大洲盆地の周辺にはバイパスを合わすと十余の峠がある。

 大洲・松山街道

 大体今の国道五六号であるが、若干変わっている所もある。元治元年(一八六五)の『大洲手鑑』の御伝馬定によると、

 大洲中村より内子へ三り八丁で、駄賃二四二文、人足一一八文。内子より中山村へ三り七丁で、駄賃二六八文、人足コー八文である。中山村から大平村を経て郡中村が三り半三丁で、駄賃三二〈文、人足一五四文 とある。

 中村より内山筋送りで、中村―内ノ子―中山村―大平村の駄賃合計八二六文、人足四〇〇文である。
 『松山叢談』付録第六の松山札辻より道法をみると、

保免村―伝馬継場一里二丁五十間 筒井村―伝馬継場一里十丁二十五間二尺 郡中―伝馬継場一里三十四間 中山村―伝馬継場三里二一丁 内之子―伝馬継場三里七丁 大洲―三里八丁 〆十三里二十丁九関二尺 但大洲領五十丁一里なり とある。

 明治四二年(一九〇九)版の『松山案内』(高浜虚子校閲東草水編述 松山市勧業協会発行)の松山市札の辻元標よりの各地の距離は、郡中三里一〇丁、中山七里一二丁、内子一一里一丁、大洲一四里一五丁、八幡浜一八里一四丁、卯之町一九里二五丁、宇和島二五里となっている。
 以上のように大洲―内子、内子―中山、中山―郡中の間の距離も文献によって若干差がある。藩政時代の距離はその村の庄屋の玄関先から玄関先までを測った例がある。

 地形図に見られる新旧の大洲盆地

 図2―19と図2―20を対比しても、東大洲の道路や鉄道の改修状況が判る、まず若宮のバイパス、十夜ケ橋、松ヶ花の集落と水準点、国鉄内子線の五郎連絡、田ノロ・市木地区の耕地整理・工場立地・土地利用の変化が目につく。国道の十字路の「松ヶ花」の地名は、下新谷に一里松(水準点の処)があった。その一里松の端(鼻)というホノギ(小地名)が、花の字に転じたのである。
 内子線は愛媛鉄道時代には若宮の畑の中で分岐していた。昭和九年国鉄に移管された際に、五郎駅連絡になった。上りは少し近くなったが、内子方面から大洲へ通学通勤に、五郎駅で乗換えたり迂回するため不便である。目下工事中の内山線は大洲駅で連絡する計画である。この地形図には出ていたいが、車時代になり、大洲本町の大洲市役所前が、交通が輻輳するので、柚ノ木にバイパスの新冨士橋が架設中である。

 地形図に見られる新旧の内山盆地

 図2―21と図2―22を対比すると、昔の街道と現在の国道がわかる。五十崎の黒内坊から内子の廿日市に至るコースは、泉ヶ峠に水準点があるのでも判るように、明治三七年までは、泉ケ峠がメインルートであった。内子の街の中は、今の中町を主に通っていた。もっとも「六日市永久録」の文書(弘化四年)にあるように、幕末には今の本町の商店街が、内子の紙役所や化育学校を中心に繁栄し、明治三八年(一九〇五)には、五十崎の鳥越から、内子の八日市の新道に松山―大洲街道のメインルートが移った。二つの地形図の町役場の位置で判るように、街の中心地を示している。内子町の廿日市や六日市でも、あるいは八日市や岡町でも、江戸・明治・戦後の三時期に改修された道路を一望のもとに観察できる。
 内子から北の部分では、「金ぴら街道」は高昌寺の下に道標があるように、常久寺から千部の坂を通り、山頂の水準点のある道を犬寄峠に向かった。これに対して「遍路道」は、岡町から五城村の役場を通り、水戸森峠を越した。
 江戸時代の街道は河岸は崩れやすいので、山頂や山腹の平坦な見透しのきくコースを選んでいる。常久寺から千部の坂の山頂の平坦地には、休んだり牛馬をつないだ場所が残っている。もうすぐこの下を内山線の列車が走るのである。
 五十崎町と天神村の間を南流する小田川は蛇行している。今の河川が境界でなく、宿間と大久喜でお互に対岸に耕地があることは、昔の蛇行を示している。御祓の役場のあった成内から町役場に行くには、御祓川から宿間経由の方が近くなった。新しい地形図には大久喜の昭和鉱業経営の鉱山集落や五十崎牧場の記号かあるが、残念ながら現在はともに廃墟である。
 さて国道五六号の大洲―松山間は、犬寄隧道(七四九m)・東峰燧道(一〇五m)・犬寄大橋(一〇五m)などの工事で短縮され、バスで五五㎞、一時間三〇分の行程である。国鉄内山線の犬寄トンネル(六〇一二m)の貫通で、松山―大洲間は五〇分の今治とほぼ同じ距離地となる。

 川之石・八幡浜への道

 明治二五年(一八九二)に、大洲にも八幡浜にも電信局がまだ設立されない時代、五十崎町平岡から、大阪へ木蝋の商店で電信を打つのに、川之石まで出かけた。まず五十崎町上村の宗光寺の裏道から二本松峠(国鉄内子線の二本松トンネルの上)を夜の明けぬうちに出て黒内坊を通って、新谷から大洲へ出た。大洲から平地を通り横野峠(標高三五〇m)を越えて、喜木川に沿って川之石電信局に着くと昼であった。用件を済ませてもとの道を平岡に帰ると夜になった。二本松峠を金をもって日暮れに通るのは用心が悪いので、いつも黒内坊まで下男に提灯をもって出迎えてもらったという(明治四年生まれの父の体験談)。
 八幡浜と大洲は夜昼峠(標高三〇〇m)を境にして、夜昼峠の名の如く気候的景観を異にする。大洲盆地は霧の海でも、峠に上れば八幡浜側は快晴な時が多い。大洲―八幡浜は旧道を通って四里の行程であった。大洲側は野田川を、八幡浜側は千丈川を、ともに溯った奥に夜昼峠の石畳の道があった。大正時代には歩いて旧道を、昭和になっては自転車で、何回か筆者は夜昼峠を通った思い出がある。バスが発達して淋れていたが峠に茶屋もあった。バス停もあった。
 大正三年(一九一四)四月、八幡浜の新町と矢野町の角に建てられた道標には、大洲町へ五里九丁、宇和町へ四里三十五丁、愛媛県庁前江十九里三十丁、川之石江壱里三十三丁、海岸通江五丁と切石に刻まれている。
 昭和一四年二月六日、国鉄予讃線は断層で難工事であったが夜昼トンネル二八七〇mを貫いて八幡浜へ開通した。大洲は八幡浜のベットタウン化した。昭和四五年国道一九七号は、夜昼隧道二一四一mを貫通して、大洲八幡浜を一つの経済生活圏に結びつけた。

 大洲から南の昔の街道

 奈良時代に僧行基が歩いた道をしるした「拾芥抄行基図」(図2―23)は鎌倉時代の初めに書かれた略図である。この図を見ると大洲から南予を迂回して土佐の国府に及んでいる。『延喜式』(九二七)の刑部省式には京よりの距離が記してあり、民部省式の日数を裏付ける(表2―24)。土佐は千二百二十五里、伊予は五百六十里とある。当時は六町一里なので、土佐は二〇四里すなわち八一六㎞、伊予は九三里で三七二㎞で、既述の行基図と釣合っている。
 大洲から札掛を通り鳥坂峠を経て宇和盆地に至る宇和島街道には、地形図でも判るような美しい松並木があった。巨木であったが松喰虫のため全滅した。鳥坂峠の下には国道五六号の鳥坂トンネル一一一七mが、昭和四五年に貫通した。昔の松並木のあった旧道は、「四国のみち」のハイキングコースとなっている(図2―24)。

 土佐祷原と大洲街道

 『南路志』によれば、檮原から高知の城下までは二三里に対して、伊予の大洲へは一四里九町九間とある。『大洲手鑑』中巻によれば、大洲中村から土佐の檮原町四万川まで、表2―25の如く約一一里で、馬で一日のコースである。したがって物質や文化も長浜大洲五十崎のものが送られており、楮・三椏の原料が檮原から五十崎に送られていた。大洲の盤珪禅師も承応年間(一六五二~一六五四)に檮原へ来て、「瀑本山徳泉寺」の額を書き残している。
 檮原へ来住している五十崎出身の人びとの名や、当時の物資や伊予式農具のことは『檮原町史』に詳しい。吉村寅太郎や坂本竜馬も、檮原から城川町・肱川町・五十崎町を通って大洲・長浜から長州に渡っている。長浜の富田運夫家には吉村寅太郎の文書が残っている。

 川筋より郡中送り継場

 『大洲手鑑』中巻によれば、大洲中村―八多喜村―加屋村須合田―長浜―串村―大久保村―上灘村―郡中森村=合計駄賃七六四文、人足三九四文とある。その駅間の内訳は表2―26の如くである。これに対して中村から内山筋送りは、中村―内ノ子―中山村―大平村で、駄賃合計八二六文、人足合計四〇〇文となっていた。












図2-19 大洲盆地の図(新)

図2-19 大洲盆地の図(新)


図2-20 大洲盆地の図(旧)

図2-20 大洲盆地の図(旧)


図2-21 内山盆地の図(新)

図2-21 内山盆地の図(新)


図2-22 内山盆地の図(旧)

図2-22 内山盆地の図(旧)


図2-23 拾芥抄行其図

図2-23 拾芥抄行其図


表2-24京よりの距離

表2-24京よりの距離


図2-24 鳥坂峠の松並木の図

図2-24 鳥坂峠の松並木の図


表2-25 大洲・梼原街道の距離・駄賃・人足定め

表2-25 大洲・梼原街道の距離・駄賃・人足定め


表2-26 幕末における大洲中村からの距離・駄賃・人足定め

表2-26 幕末における大洲中村からの距離・駄賃・人足定め