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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

二 大洲・内子・長浜の木蝋業

 木蝋業の現況

 戦前は盛んであったこの地方の木蝋と製糸は現在はともに衰えて、生糸は近代化した伊予製糸工場と金子製糸の座繰工場があるに過ぎない。木蝋は内子地方は大正一○年(一九二一)、大洲地方は昭和一五年に消滅し、製蝋(搾蝋)も晒(さらし)蝋業も長浜に各々一軒残っているのみである。蝋燭製造は内子の護国町の大森弥太郎ひとりが昔ながらの和蝋燭を造っている。愛媛県の伝統的特産品産業として振興対策の対象としたいが、僅か一軒(四業者以上ないと不備)では資格がない。二〇〇年以上の伝統があるのに残念である。
 櫨から青蝋を搾る蝋打業は、元文三年(一七三八)に安芸国の可部(広島市)から、五十崎町只海を経て、内ノ子六日市の庄兵衛方に伝授されている(積塵邦語)。伊予ではこれを立木と称する。明治二八年(一八九五)に第一回の全国木蝋業大会が大洲町で行なわれたときには、愛媛県に立木が四〇〇面、蝋蓋が二十万枚あった。それが昭和五九年現在では、立木に替わる抽出式で長浜町上田喜三郎の喜多製蝋所で、只一軒青蝋(生蝋)を搾っているのみである。原料の櫨は愛媛県産では不足するので、大分や福岡など北九州から仕入れている。
 晒蝋業も昭和五九年現在では、長浜町柴(白滝)の坂井八津己が、喜多製蝋所の下請けで、蝋蓋約二〇〇〇枚で、昔ながらの伊予式箱晒しで、白蝋を一軒だけ製造しているに過ぎない。昭和二五年に愛大紀要に、村上節太郎が「愛媛県の櫨及び製蝋地域の地理学的研究」を発表した当時には、晒蝋業者が、六軒(上灘二・長浜一白滝一・八幡浜一・喜須木一)あった。

 芳我弥三右衛門と伊予式箱晒法の発明

 箱晒法の創始については『愛媛県誌稿下巻』第九章木蝋の項に次のように記している。

抑々(内子町の)芳我の祖先が斯業を開始めるは今(一九一七)より百六十年の昔(宝暦七年一七五七年ころ)に在り、爾来父子相承け祖孫相伝へ今に至りて斯業に終始す。初代弥三右衛門の製蝋に関する苦心談に伝うべきものあり。蓋し当時の製蝋晒白法は飽を以て之を削り、幾多の煩労を重ねて漸く白色を呈するを得たり。弥三右衛門之を改良せんとして焦心苦慮すること十有五年(一七七二年安永元年)未だ良法を発明するに至らず、一夜蝋燭を点して上厠の後、手を洗ふに際り、蝋燭の圏滴水中に落ち、白色を帯び恰も六花形結晶の状を呈す。以て奇となし再度蝋燭を傾斜し、其滴を水中に墜すに皆同一の状をなせり。是に於て大に悟る所あり、翌朝更に之を試み滴蝋を板上に載せ日光に晒すこと旬余日、稍々光沢を放つを見たり、乃ち良好の晒自法と確認して、爾後この方法を弘布せり、是れ現今普通に行なわるる晒蝋法なり。

 以上の如く芳我弥三右衛門が蝋花式の箱晒法の創始者であること、芳我家の祖先が明治一七年(一八八五)より一六〇年前の宝暦年間(一七五一~一七六三)に、内子で木蝋業を営んでいたことは明確なことで疑う余地はない。初代芳我弥三右衛門というので、彼が芳我家の元祖で、宝暦年間に木蝋業を始めたと筆者が誤解したのである。
 初代芳我弥三右衛門の過去帳・系図・位牌・墓碑などを見ると、享和元年(一八〇一)生れで、慶応三年(一八六七)四月二六日六七才歿である。孝芳と称し、父は廿日市の庄屋曽根又三郎で、彼は長男。母は芳我弥五七兼重の娘で和左という。幼名は秀太郎と称し、法名は高山遊野居士で、墓は高昌寺にある。彼はいわゆる本芳我の初代である。彼が夜厠に行って手洗水で蝋燭の滴の落ちた蝋花をみて、晒し方のヒントを得たのは、彼の年齢からみて幕末に近い、天保から文久のころであろうと推察する。
 横田春南が『伊予史談』二五号に次のように述べているのと一致する。

寛政(一七八九~一八〇〇)以来の製蝋は、漸次成況を呈し、文久ころまでは販路大阪・広島に限られ、白蝋を製するに至って、関東地方に移出するようになった。慶応年間より価格騰貴して云々。

 初代芳我弥三右衛門と称するから誤解するので、弥三右衛門はいわゆる本芳我の初代である。内子の宇都宮家は天文九年(一五四〇)に下野国の芳賀郡から、故ありて伊予国喜多郡曽根郷に来ている。慶長九年(一六〇四)に召されて城廻及内子の庄官になっており、姓を芳我と称した。前松山市長宇都宮孝平の祖先で、孝平は第一五代である(県立図書館伊予史談会所蔵の宇都宮氏系図による)。第七代までが芳我姓で、第八代国通長右衛門の寛政年間から宇都宮姓に替わっている。本芳我も宇都宮氏と一族で、芳我小太郎の家系もある。
 正木八十八著『日本の櫨と木蝋』に、夜厠に行って手洗水の蝋花にヒントを得た晒白法について、京都の柊屋の例をあげている。これと同じ発明挿話が、伊予にも九州にもあるが、どこが本元か、読者に任すと書いている。

 第一回全国木蝋業者大会

 全国木蝋業者大会が明治二八年(一八九五)三月一五日に、初めて大洲の比志町に新築した大洲公会堂で開催された。時の農商務次官の前田正名(一八五〇~一九二一)が臨席している。当時の記録が大洲には残っていないが、幸に内子には残っており、その一部は『内子町誌』に記載されている。この大会に約四〇〇人全国から集まっている。愛媛県の各郡に割当した委員が二三名あり、その氏名は『内子町誌』にも載っている。郡別にみると、東宇和三、西宇和五、南宇和一、北宇和二、下浮穴(上灘)三、伊予一、喜多郡八名である。
 内子が芳我弥三衛・高岡喜三郎・松前庄三の三名、大洲が岩村順作・城甲乙吉・程野茂三郎・村上長次郎・河内助三郎(新谷)の五名であった。前田正名は帰途、経営規模日本一の内子の芳我弥三衛の本宅に泊っている。彼の揮豪の「竜は雲に従う」の額が、本芳我の隠居家の玄関に今も掲げてある。
 第一回全国木蝋業者大会の経費を六〇〇円と予算に組んでいる。負担を見ると、蝋を搾る立木が当時愛媛県内に四〇〇面、蝋蓋を二〇万枚と見込んでいる。そして立木一面につき四五銭、蝋蓋一〇〇〇枚につき六〇銭宛出資させている。このとき大日本木蝋会が発足し、前田正名が監督に就任している。第二回・第三回の全国木蝋業者大会は、どこであったか記録がないが、第四回は博多で開催され、当時の写真が大洲の村上長次郎家に残っていた。いま市立博物館に展示されている。また内外の博覧会に出品して得られた賞状やメタルも保存されている。
 内子町の芳我家の木蝋に関する賞状や写真も、整備され、いまは上芳我の町営の展示室二階に保存されている。

 喜多郡の晒蝋業者名

 明治の最盛期の木蝋業者名を知りたいが、資料がない。横田伝之松著『喜多郡誌』によれば、明治四一年(一九〇八)の喜多郡の生蝋製造業者は七六戸、晒蝋家が三二戸とある。それが大正六年(一九一七)には生蝋製造が五一戸、晒蝋が一五戸に減っている。筆者は今は亡き内子町の宮田愛明・浅野幸三・芳我保、大洲市の河内陽一・村上長次郎の古老や、今も健在の後藤茂七翁らの聞きとりで、内子町で二三軒の晒蝋家の位置を確かめた(図2―16)。
 本芳我(弥三衛)は内子ではもちろん全国一の大規模で、蝋蓋五万枚で、明治二七年(一八九四)の賞状に、使用者六七人、産額百五十万斤、価額二二万五〇〇〇円とある。次が分家の上芳我(弥衛美)で蝋蓋二万五〇〇〇枚、次が下芳我(数衛)と上浅野(竹次郎)の一万五〇〇〇枚、次が菊池石蔵の一万二〇〇〇と小泉桂六(滝蔵)の八〇〇〇枚が大規模であった。なお八幡浜の浦中要次郎も大きく、上芳我級であった。次が下浅野(幸三)の五〇〇〇枚で、これと同規模が大洲の城甲乙告・新谷の河内宇十郎・天神の村上半次郎(孫吉)などであった。三〇〇〇枚級が中芳我(吉右衛門)・宮田卯三郎(愛明)・高根鶴太郎・大洲の村上長次郎・村上荘三などであった。もっとも芳我一族や天神の村上は晒蝋専業であったのに対して、内子の宮田・下浅野や大洲の村上・岩村・程野などは生蝋を搾る立木を有し、生蝋と白蝋の双方造っていた。
 内子では以上のほか順序不同であるが、護国町に山本久太郎・脇田安次郎・曽我見二郎、八日市に松前庄三・芳我実衛・旅井市太郎・高岡善三郎、六日市に伊達猪鹿・曽根弥雄・須崎辰重郎・西野久衛・水野武七・鎌田卯平・芳我忠治・岡本利平・松原和十郎・高畑宗次郎・宇都宮時之寿計の諸氏が晒蝋業を営んでいた。隣村の天神では村上のほか、宇都宮建次(平野部落)・宮崎辰蔵(天地)・山岡房太郎(柿原)・久保石太郎(重松)・久保小十郎(柿原)・五十崎の高野島太郎なども一時蝋を晒していた。しかし晒蝋業の中心は本芳我をめぐる内子の八日市であった。

 大正三年版商工名鑑による愛媛木蝋業者

 日本商工名鑑の蝋製造業者名をみると、喜多郡では、内子の本芳我・上芳我・下芳我・上浅野・下浅野・高根・小泉・須崎・菊池の九軒が載っている。大洲では村上両家と城甲・岩村の四軒、その他喜多郡では新谷の河内・粟津の三瀬・天神の村上・山鳥坂の亀田の四軒の合計一七軒である。次に伊予郡では上灘の本田・岡崎・若松と、郡中の灘井・下灘の橋本・南伊予の向井の六軒である。西宇和郡では次の一七軒が出ている。八幡浜の浦中と井上、町見の林、神山の中川、日土の久保田、川之石の兵頭と白石、宮内の矢野、喜須木の菊池二軒、三瓶の三好と和田、伊方の八幡、磯津の二宮と永井、舌田の福岡、八幡浜製蝋合資KKの以上である。このうち八幡浜町新田の浦中要次郎は、内子の本芳我や大洲の村上長次郎と同様、国内はもちろん晒蝋(白蝋)をセントルイスやシカゴの博覧会に出品して金牌や銅牌を受賞している。
 東宇和郡では土居の中城と玉津の赤松の二軒である。北宇和郡では宇和島の槇本・岡田・植木、丸穂の阿武、旭村の岡田、岩松の両小西、吉田の朝岡、日吉の井谷の九軒である。宇和島の岡田宇三郎だけが晒蝋とある。南宇和郡では東外海の小西喜佐太が醤油と蝋を製造している。松山市温泉郡には晒蝋業はなく、唐人町三丁目の柏井が製蝋製油肥料の卸高と同古川油店が蝋燭を製造している。東予では周桑郡の櫨の産地の中川村に三好・塩出・野田の三軒と福岡村の伊藤が蝋製造業となっている。上浮穴郡では参川村の大野が一軒蝋製造業である。明治二八年(一八九五)の愛媛県商工亀鑑によれば、大洲の大野徳七や程野宗兵衛も兼業で蝋を扱っている。文献にはないが新谷の河野政治郎・河井喜三郎・大野棟三郎・後藤豊、鹿野川の和気、蔵川の中野、横林の井関、須合田の門田儀通、柴の坂井己六と小野、下須戒の上田鹿蔵なども晒蝋を業としていた。
 三好昌文の研究では(文化愛媛五号)、明治二〇年(一八八七)の宇和四郡製蝋組合の役員に、宇和島の染瀬専太郎、八幡浜の清水経二・平田喜平、卯之町の和気源蔵、川之石の宇都宮壮十郎らの名がある。

 内山盆地の晒蝋業が衰えた要因

 幕末から明治にかけて、全国一盛んであった内子町の晒蝋業は、大正八年(一九一九)前後に廃業するか製糸業などに転換している。大洲の城甲は昭和一五年ころまで存続し、上灘の岡崎は同四五年まで経営していた。長浜町柴の坂井八津巳は喜多製蝋所(上田喜三郎経営)の下請賃晒しで、今も存続している。保内町の愛媛木蝋は生蝋と晒蝋を営んでいたが昭和五五年に廃業した。福岡県山門郡三橋町でも、昔のままビニール干し(昔はアンペラか筵)で農家が副業に晒している。内山盆地が早く晒蝋業をやめた要因を、筆者は次の如く考えている。
 (1)自然条件の不利 内山盆地は冬季霧が深く日照時間が少ないため、海岸の上灘に比して製造工程回数が、年に二~三回少なく不利である。(2)内陸で交通不便 原料を移入しても製品を出荷しても、長浜経由で運賃がかかり生産費が高くついた。明治時代は馬の背や肱川の舟を利用した。(3)内子地方の蝋屋は晒専業が多く、自家で生蝋を造らないので、常に高価な生蝋を仕入れ、利潤が少なかった。(4)蝋焚きは上灘では夜半から始め、朝には済ます慣習に対して、内子では早朝から始め、作業が緩慢で能率が悪かった。(5)九州や柴の坂井のように下請事業でなく、下男を雇って労賃を払うので、次第に採算が採れなくなった。(6)晒蝋一本で自己資金のため、輸出の況・不況が九州に比して強く影響し、安定性がなく、父祖の業を継がなくなった。(7)一般的要因としては生活様式が変り、蝋の代用品が発達し、石油や電化のため、蝋の用途需要が減った。(8)地元の櫨が桑や果樹のため少なくなり、今では本県の櫨は九〇%までが九州櫨に依存するようになった理由が考えられる。(9)今では蝋の用途はポマードなど化粧品、家具のつや出し、鋳物の型に使う。生蝋(青蝋)は僅かに蝋燭に使われているのみである。外国の教会では今も白蝋の蝋燭を植物性ワックスとして貴重品とされている。













図2-16 明治末から大正初期の内子町における晒蠟家の分布

図2-16 明治末から大正初期の内子町における晒蠟家の分布