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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

第一節 概説


 この地域は、肱川の流域で、その本・支流が中山性の山間地を、くねくねと蛇行して流れている。領域内の市町村には、大洲市・長浜町・内子町・五十崎町・肱川町・河辺村があるが、その中心集落はいずれも肱川に臨んで立地している。
 大洲は肱川流域最大の都市である。旧名を大津といったこの都市は、元来肱川の河港であり、またその渡渉点として栄えた。近世には大洲六万石の城下町として栄えるが、その城郭は肱川の攻撃斜面の丘陵上にあり、城濠は肱川の水をめぐらせているように、肱川を自然の防壁として利用していた。明治中期以降の大洲は製糸工場が相次いで成立し、全国一の品質を誇る伊予糸の生産地として発展した。原料の繭は付近の農村から集荷したが、桑畑は肱川の形成した自然堤防上に開けるものが多かった。現在の大洲は肱川流域の政治・経済・文化の中心地として栄え、また鵜飼やいもたきなど肱川の自然を生かした観光の町として、水郷大洲の名で知られている。
 河口の長浜も、また肱川の水運によって栄えた港町である。近世初頭に城下町大洲の外港として成立したこの町は、以後、肱川を下る農林産物の集散地として栄える。川舟で下る薪や木炭、筏流しで集まる木材は、いずれもこの港から海路大阪方面に出荷されるものが多かった。昭和一〇年国鉄が開通するまでの長浜は、県下屈指の港であった。
 内子と五十崎もまた肱川の川ぞいに開けた在町であった。内子は藩政時代から製業で栄えるが、原料のはぜは、周辺の山村で生産されたものが小田川などの川舟で集荷された。明治中期には製蝋業は最盛期を迎え、全国屈指の産地となる。現在も八日市の旧街道ぞいには製蝋で栄えた豪壮な邸宅が並び、古い町並の保存されているところとして全国的に有名である。五十崎とその対岸の天神は藩政時代から大洲半紙の生産の盛んな町であり、現在も手漉和紙の工場が残っている。原料の楮は周辺山村で生産されたものが馬の背や川舟で集められた。
 肱川は水上交通の動脈として、この地域の住民に大きな恩恵を与えた。しかし一方では、この川は洪水によって、しばしば流域の住民に大きな被害を与えた。洪水による被害の大きかったのは、肱川の本支流が求心的に集まる大洲盆地であった。この盆地では、昭和三四年鹿野川ダムが完成するまでは、年間二~三回冠水するのが常であり、五年から一〇年に一度は盆地全体が湖水と化すような大洪水をこうむった。大洲盆地では集落が盆地底をさけて、山麓の洪積台地上に立地するのは、この水害をさけるためであった。盆地底に立地する若宮などの集落では、家屋は二階建であり、水防のため特に高く盛土した家などがあった。
 肱川流域には大洲盆地や内子盆地のように、流域に小盆地はみられるが、概して山がちな地域である。山地は北部が三波川系の結晶片岩、南部が秩父古生層であるが、ともに地味肥沃であり、山腹緩斜面の発達が良好なことと相まって、重要な生活舞台となっている。山腹斜面の集落の自給作物としては、とうもろこし・あわ・きび・麦などが重要な作物であり、楮・はぜ・桑などが重要な商品作物であった。集落周辺の林野も高度に活用され、明治末年以降くぬぎの人工林に依存した薪材や木炭の生産が盛んであった。特に木炭は伊予の切炭として、その名を全国にとどろかせた。
 昭和三五年ころからの高度経済成長期以降は、畑作物も林野の利用も大きく転換する。畑作物では、自給作物の雑穀や麦は衰退し、代わってたばこ・栗・柿などの商品作物の栽培が盛んになってくる。たばこは内子町が県下随一の産地であり、栗も大洲市・内子町・肱川町は中山町に次ぐ産地となっている。また柿は内子町の大瀬地区に多いが、これは東予の丹原町と並ぶ県下の二大産地となっている。養蚕業も明治以降県下の主要産地の地位を保っている。
 林野の利用では、薪材や木炭の生産に代わって昭和四〇年以降しいたけの生産が盛んとなり、現在県下随一、日本有数のしいたけ生産地帯となっている。しいたけの榾木(ほだぎ)は木炭に利用されていたくぬぎ林が転用されている。
 またこの地域は豚・肉用牛・乳用牛の飼育も盛んで、県下屈指の畜産地帯となっている。畜舎は市街地をはなれた山腹斜面に大規模なものが建設されている。畜産業は昭和四〇年以降急激に盛んになってくるが、それは東予のように商社の主導のもとに伸びたのではなく、農協主導のもとに発展してくる。大洲市の養豚業では、養豚団地の造成も繁殖素豚の育成も農協が行ない、肥育豚農家の肥育した豚も農協が出荷を受持っている。
 農協など公的機関の主導するのは畜産業のみでなく、たばこ・柿・しいたけなどの農林産物の生産についてもいえることである。例えば、内子町の柿生産が伸びた契機は、昭和四三年にはじまる第一次農業構造改善事業によって、柿園が造成されたり、選果場が建設されたことによる。大洲市の養豚や内子町のたばこ生産では、昭和五一年にはじまる国営農地開発事業によって造成された養蚕団地やたばこ団地がいくつもある。しいたけ生産を推進したのは各市町村の森林組合である。森林組合はしいたけの共同出荷や生産の技術指導をするのみでなく、昭和四二年から始まる林業構造改善事業の実施主体でもあった。相次ぐ林業構造改善事業によって、林道が網の目のように伸び、灌水施設やモノレールを設置した共同榾場が造成され、しいたけ生産の基盤が強化されていった。
 肱川流域の大洲市と喜多郡の一帯は、商工業にはみるべきものは少なく、今日も農林業が主要な産業となっている。内陸盆地や山腹斜面に展開する農山村の住民は、労働市場が遠いこととも相まって、通勤兼業に精を出す者は比較的少なく、農林業に意欲的にとり組んでいる者が多い。県内では第二種兼業農家の比率が最も低く、六〇才未満の男子専従者のいる中核農家の多い地区の一つとなっている。