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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

五 魚島の集落

 集落の立地

 魚島村は越智郡島しょ部のなかでも燧灘の中央に位置する離島であり魚島・高井神島と無人島の江ノ島・瓢箪島などよりなっている。集落としては魚島の篠塚・井ノ浦・大木・高井神島の浦があげられるが、村役場その他の行政機能の集中する篠塚地区に人口は集中している。今治藩の調査によれば延宝六年(一六七八)戸数一五七、人口四九六人を数え、明治一八年(一八八五)には一八四戸、七八〇人と漸増しており、開発の歴史は古い。口碑によれば延宝以降、人口増加のため住民の一部が新居浜市黒島及び広島県因島市椋浦に集団移住したと伝えている。ほかに淀川を上下する三〇石船の船頭や北前船の乗り組みなど島外での活躍も伝えられている。早くより開けた魚島であるが最も活気を呈したのは、魚島が鯛の好漁場として注目された江戸時代の文政頃から明治の初期にかけてである。一統およそ六〇人よりなる漁民によって組織された鯛縛網漁業は、江の島の吉田磯を中心に行われた。最盛時には九統の網元が存在したといわれる。大阪や尾道の市場で「ウオジマが来た」とは、瀬戸内海の鯛の漁期を示す代名詞ともなっていた。
 人口が一番多かったのは終戦間もない昭和二二年であり、一七五五人を数えた。しかし高度経済成長の結果、昭和四〇年には大幅な過疎現象を生み出し、昭和五九年には全人口が四二六人となり、全国の市町村でも人口の少ない小規模村の一つとなっている。


 集落の景観

 港に入ると魚島港とかかれた朱塗りの看板が港務所の屋上に建っているのが目につく。戦後になって埋め立てられた土地に、島の中枢機能が立地している。魚島開発センター(六階)を中心に西より魚島西集会所・魚島診療所・魚島村役場・魚島漁業協同組合・駐在所・漁協センター・港務所・魚島東集会所の公共施設が海岸に沿って並んでいる。背後に密集する民家の防御・防風壁の役割を示しているかのようである。この公共施設の背後の幅一mの道路がかつての海岸沿いのメインストリートであった。現在も残る石垣や狭い区画の倉庫の配列などからも旧海岸線の形跡をみることができる(図6―8)。
 道路が狭く漁村特有の密集集落を形成する魚島では、おのずと独自の道路形態が生まれてくる。海岸通りに直角に奥に入り込む道が「ヨコミチ」であり、それぞれ部落の名称をとって「中部落のヨコミチ」などという呼称が用いられている。その横道を奥へ進むと石段が続くがこれを「ガンギ」と称している。背後の段畑と漁場としての海の二つの生産活動への方向をもった道が、「ヨコミチ」である。漁村の生活について、特に道路形態や飲料水については愛媛大学民俗研究会の『魚島民俗誌』(昭和四九年)が詳しく調べている。漁村の生活はとくに飲料水の確保の仕方に特色がある。島内には「村井戸」が九箇所あるが、村井戸とは、村民なら誰でも自由に使える井戸であり、篠塚地区には五箇所が確認される。『魚島民俗誌』にはAバンぢゃカワ、B中カワ、C新カワ、Dおだいさん井戸、E西井戸、と記録している(図6―8)。また東大地文研究会では昭和五九年この井戸の水質検査を実施し、研究報告誌に井戸の特徴を記載している。
 水不足に悩む魚島に簡易水道ができたのは昭和二七年と早かったが、週一~二回の給水であった。昭和四二年より四年間に共同井戸が二三基、個人井戸が三四基掘られている。しかしそれでも生活用水の確保は不充分で、昭和五〇年には二六〇トンの水を三原市より購入している。自治体は水の確保を重点課題とし、二六〇トン・四〇〇トンの貯水施設を集会所地下に相次いで完成させている。また直径三・五m、深さ一二・五mのジャンボ井戸を井ノ浦地区など、三基を完成し、昭和五三年より完全給水が可能となっている。まさしく現代の共同井戸ともいうべきものである。


 農業の放棄と漁港の整備

 かつての魚島は半農半漁の村であった。漁業は男性の仕事であり、畑仕事は女性の仕事であった。魚島では女性が漁業の仕事をするのは、めずらしく男子も収穫の時以外に畑仕事を手伝うことは稀であった。最も農業が盛んであったのは、終戦直後、人口が最大に膨張して食糧難が深刻であった時で、その時、島内の耕地は七〇haを超えていた、昭和三〇年代の全国的みかん栽培ブームの中で、魚島村でもまず高井神島地区で昭和三五年九・六四hの樹園地が、自衛隊の協力で機械開墾された。二三人の共同経営によるみかん栽培が開始されたが、翌三六年魚島地区でも九人の共同経営者が江ノ島の土地五・三haを造成している。魚島村全体では、普通畑をみかん園に転換したものが一五haあっだので、合計三〇haのみかん園が誕生している。しかし結局のところ両地区ともみかん栽培は失敗し、現在はわずかのみかん園を残すばかりとなり、ほかは放棄されてしまった。
 この共同経営のみかん栽培について、関西学院大学地理研究会『魚島・見島』(昭和四七)は失敗の理由を詳しく述べている。それによると最大の理由は、みかんの暴落により、所得増大の夢が崩れ経営意欲がなくなったこと。第二が魚島の厳しい自然条件、とくに急傾斜で他町村に比べ労力の負担が大きいこと、台風の被害、水不足等があげられた。他にも、みかん栽培には全くの素人ばかりであったこと、すぐには収穫の得られないみかん栽培より一日海に出ればかなりの収入になる漁業の方に魅力があったからなどの理由をあげている。おりしも広島県の福山市に日本鋼管福山製鉄所ができ、付近の漁民が工場労働者として陸に上がったために、漁獲量の減少から魚価が上昇し、漁業の収益があがったことも一因となった。
 今や、みかん園三ha、野菜畑五ha、合計八haが魚島村の全耕地となってしまった。魚島は背後の耕地を放棄し、周辺の海だけを生産手段とする純漁村に転換した。
 魚島港、すなわち篠塚漁港は昭和三八年に始まった第三次整備事業計画に伴う修築事業より、二〇年間の歳月と一一億四〇〇〇万円の事業費の投入によって見事に整備された。現在も整備事業は継続中で六二年度までには二〇億八〇〇〇万円の莫大な事業費が投入されるという。とくに港内に物揚場四八二mができたことにより一万二六〇〇平方mの埋め立て地が造成され、かつては三〇平方mの用地もなかった漁村では、水産物の荷揚場、漁具漁網の作業用地、加工用品の乾燥場、建築資材置場、駐車場などフルに活用されることになった(写真6―8)。
 高井神島の場合、集落よりはずれた箇所に船溜施設があったにすぎない。昭和五〇年より漁港整備計画に組み入れることができ、六二年までに七億四〇〇〇万円の事業費が投入されることになる。現在までにできあがった高井神新港は、防波堤一八七mの延長により集落は漁港内に位置することになり、また埋め立て地も六五〇〇平方mが造成された。
 かつての漁村といえば、波打ち際まで密集した家屋がせまり、平坦地は猫の額ほどの網干場を有するのみであった。それが今では、各自が自由に利用して、なお余りある広場を残している魚島・高井神の漁港整備をまのあたりにするとき、新しい村落共同体としての象徴をこの埋め立て地にみることができる。高井神島は、魚島にくらべてなお平地が少なく、集落は斜面に階段状に立地し、飲料水の運搬や、農産物の運搬など苦労が多かった。写真6―9も、そうした高井神島の頭上運搬の様子である。農業の放棄、簡易水道の発達等により、今はこうした風景もみられない(写真6―9)。


 「離島振興」と「過疎対策」

 佐伯増夫村長は自著『島に生きる』(昭和五八年)で次のように語っている。

「住民が喜んでくれる公共事業にいくら支出しているかというと、四億円の金額を充てています。一般会計六億五千万円のうち、四億円の公共事業費です。こうして小さい人口の小さい地域に、毎年多額の事業をやっていれば、五年たち、十年たつうち随分立派な村が出来ることになります。現在でもかなりな施設が出来ているんですね、視察に来られる人も多くなりました。魚島村は帰るたびに村の様子が変わっていると、地元出身者はいいます。村外の人が、小さい村だからと思って桟橋に上がって驚くんです。桟橋前の道路に沿って鉄筋の公共建物がズラリと並んでいるからです。」

 魚島村は昭和三二年「離島振興法」昭和四五年「過疎対策特別措置法」の適用をうけることによって、大きな公共事業を実施している。村長のいう二、三の自慢を列挙すると次のごとくである。
 (一)電話普及率日本一、(二)冷暖房完備、船舶電話付村営船、(三)港務所屋上の巨大看板、(四)一日二回の郵便集配、(五)完全給水、(六)五〇〇人の島の鉄筋集会所四戸、(七)防犯灯及び街灯の整備、(八)至れり尽くせりの老人憩いの部屋、(九)教育振興会を中心にした村ぐるみ運動、(一〇)高齢者へのお年玉年金、(一一)教育施設の整備、(一二)新築の教員住宅一七戸、(一三)高校進学率一〇〇%、(一四)(一五)鉄筋コンクリート製の診療所並びに医師住宅、(一六)漁港の整備、(一七)魚礁としての大型バス投入、(一八)失業者ゼロ、(一九)四戸の新婚住宅、(二〇)村内希望者全員の視察旅行、(二一)公民館のカラオケ施設、(一三)魚島村営テレビ、(一三)エレベーター付の離島センターの建設である。こうした離島ならではの公共施設の整備は、自治省などの注目するところともなっている。

図6-8 魚島村中心部の建物の配置

図6-8 魚島村中心部の建物の配置