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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

六 木浦の集落

 木浦の開発
      
 木浦の歴史は古いが、四〇〇戸を超えるような大集落となったのは近代になってからのことである。木浦は、瀬戸内海の中枢部に位置するという立地条件もあって、早くより文化が開け、内海の軍事拠点として発達した。特に中世、木浦は村上水軍発祥の地となっている。耕地を持たぬ水軍は海賊衆であった。輸送や貿易などに活躍した船侍や水主・揖取・船大工などの職業集団は、船手組として古江から金崎地区などに住んでいたが、秀吉による四国征伐により村上水軍が滅亡すると、そこはほとんどが無人化してしまった。
 この時帰農した地侍は「木浦六軒株」の口碑を伝えており、後に島の庄屋層を形成している。大深山・打越・沢津・尾浦など、内陸部の木浦は農業集落として成立した。これらの地区は海抜一〇m程度の丘陵地にあり、北西の季節風もあたらず、温暖で住みよい環境にある。
 江戸時代に入って今治藩支配地となると、元禄時代を中心に新田開発が急速に進んでいる。一七〇〇年代には数多くの灌漑用溜池の建設が相次いでいる。木浦開発史の中で特筆されるのは瀬戸浜・古江浜の塩田開発である。合わせて七六町歩の塩田が完成し、三八〇人が製塩に携わった。人口も貞享元年(一六八四)六一戸、三九五人であったものが、明治四年(一八七一)には四五七戸、二、一二一人に増加している。特に古江浜塩田の築造にあたった船の中から、山岡久蔵の支配のもとに二〇隻の上荷船の株が与えられており、木浦に海運業が盛んとなる端緒となった。「ゴヘイダ船」と呼ばれた石炭船などの本船は接岸できなかったので、各浜から製造された塩の倉出しや燃料となる薪や石炭の運搬などのために、船底を浅くした小型の二〇トンまでの船が活躍した。
 宝暦末、大庄屋白石三五エ門によって木浦港造成が企てられている。寛政六年(一七九四)には大屋の波戸(伯方旧内港)の完成をみている。当時としては越智島しょ部唯一の築港であった。文久元年(一八六一)には新波止・樋口波止の構築が実施された。こうした築堤と共に木浦の新開地には家屋の集中をみることになる。


 木浦の市街地形態

 浜床・浜側はその地名が示すとおり、かつて揚浜式の塩田のあったところであり、当時の集落は現在の三島神社から町役場にかけて位置していたと思われる。現在は最も家屋の密集した浜床地区であるが、明治九年作成の野取図をみると、浜床には畑が多い(写真5-33)。
 あたかも漁村のように密集した集落は海運業の発達と港湾の整備と共にできあがったものであり、その歴史は新しい。海浜に面してはいるものの漁業は振るわず、漁業権は対岸の島、大島の宮窪町ににぎられている。
 伯方港に面した公共施設として、新波止の伯方港務所、伯方地区内航海員組合、内港の伯方町農協共同集荷場、伯方町農協会館、伯方警察署があり、昭和六一年一月に倒産した木浦造船所が内港の中心に位置している(図5-41)。伯方町役場、伯方町小学校・伯方中学校・伯方高等学校は湾頭よりやや内陸に入ったところに集中し、伯方郵便局、伯方電報電話局、松山地方法務局伯方支所、伊予銀行・愛媛相互銀行等が県道沿いに分布する。
 昭和五五年の国勢調査による産業別就業人口をみれば、木浦が愛媛県を代表する海運の町であることがわかる。運輸・通信業の県平均が六・三%であるのに対して木浦地区では二二・二%と高率である。ほかには農業就業者が一五・七%であり、わずかに県平均を超えている。臨海集落でありながら漁業が一・六%であり県平均を下回っているのが目立っている。
 臨海部に集中した木浦の集落は、港と関係した交通集落とみることができよう。港を中心に商業・サービス業に関係する土地利用と、船主・船員等海に活動の場を求めた人々の住宅が市街地を特色づける(図5-41)。
 明治二八年(一八九五)木浦~尾道に汽船が運航を開始すると、冬季の酒造りなどの出稼ぎが増加している。今治との間の定期便は大正一二年(一九二三)開始である。木浦は今治・尾道のちょうど中間に位置しており、機帆船時代には時化のときの避難港としての性格を有していた。また漁期ともなれば広島県の打瀬船や鯛網の慰安所として入港船も多かったので、銭湯、旅館、劇場などの船員、漁師向けの商業・サービス業が発達した。