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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

四 宮窪杜氏

 杜氏の出身地

 杜氏とは狭義には酒蔵で働く酒造従事者の統括者を意味し、広義にはその統括者を含めた酒造労働者全体をさし示す。酒造業者はこの杜氏を雇用して酒造を行う。酒造期間が冬季半年間であることから、冬季雪に埋もれて仕事のない日本海沿岸に杜氏の出稼ぎは多かった。灘の酒造地におもむく丹波杜氏や但馬杜氏、関東地方の酒造地に出稼ぎする越後杜氏などは全国的に有名であった。
 愛媛県の杜氏の出身地としては、越智郡大島の宮窪、松山市の垣生、それに西宇和郡の伊方が有名であった。このうち垣生は伊予絣の生産が盛んになるにつれて衰退し、第二次大戦後の愛媛県の杜氏としては、垣生は一組のみで、宮窪杜氏と伊方杜氏が有名であった。


 杜氏の組織

 酒造出稼ぎは、酒造りの責任者である杜氏に多くの蔵人が率いられて出稼ぎする。その組織は杜氏・頭・麹師・翫回り・庫夫・飯炊きなどから構成されていた。杜氏は酒造の技術的責任者であると共に、組織全体の統括者でもある。頭は杜氏の職務上の代行者であり、麹師を兼ねる場合もある。翫回りは酵母の培養者であり、庫夫は樽洗い、用具の消毒、酒の運搬、酒しぼりなどの雑用に従事する。飯炊きは見習いであり、炊事をしながら酒造の技術の修得につとめる。最高の地位にある杜氏になるためには、飯炊きから始めて、庫夫・翫回り・麹師となり、その後はじめて杜氏となる。杜氏になるまでの年限は人によって異なるが通常一〇年から一五年を要する。
 杜氏の組織は昭和四五年頃までは一三人程度で構成されていたが、仕込み桶が樽からホーロタンクになったりして省力化が進んだり、庫人は蔵元で近くの者を雇用する場合もあり、その構成人員は次第に減少してきている。現在は杜氏・麹師・翫回りの三人で出稼ぎするグループもいる有り様である。杜氏の出稼ぎ期間は一一月上旬から四月上旬までの約五か月程度であるが、その間は蔵元に投宿して酒造に従事する。酒造期間中の炊事全般を蔵元で受けもつのが飯炊きの仕事であったが、近年は蔵元で炊事婦を雇い、食事を用意する例が多くなっている。


 宮窪杜氏の出身地と出稼ぎ先

 宮窪杜氏の酒造出稼ぎ者は昭和五五年現在二一団体一二二人を数えた。その出身地をみると、田之浦・泊・仁江・本庄・名・椋名などの吉海町に一番多く、次いで宮窪町の宮窪や伯方町の北浦・有津などに多い。杜氏は農家の兼業が多いので、大島の農業集落に杜氏が多く見られる(図5-39)。宮窪町の宮窪は漁業が盛んであり、余所国は石材採掘が盛んであるので、吉海町と比べて杜氏の数が少ないといえる。
 杜氏の出稼ぎ先を見ると、現在は東予・中予に大部分のものが出稼ぎしている(図5-40)。県外は香川県の三木町に二団体一二人出稼ぎしているのみである。杜氏と蔵元の関係はほぼ固定しており、同じ杜氏が毎年特定の蔵元に出稼ぎする場合が多い。


 酒造出稼ぎの盛衰

 昭和四〇年の宮窪杜氏の出稼ぎ数は四九六人を数え、その出稼ぎ先も愛媛県全域から香川県・徳島県にまで及んでいた。第二次大戦前には朝鮮半島から満州、九州から中国地方にまで及んでいたが、杜氏の出稼ぎ数は徐々に減少し、その出稼ぎ先も次第に縮小されている。
 酒造出稼ぎが減少した要因には、次のようなものがあげられる。まず第一点は大島や伯方島において造船業が盛んになったり、大島の余所国の石材採掘が盛んになったことである。農家は冬季四か月間しか出稼ぎできない杜氏よりも年間雇用される造船業や石材の採掘に兼業を転換するようになった。第二点は大島・伯方島の農業が米麦中心の自給的農業からみかんを主とした商業的農業に転換したことである。麦作であれば一一月上旬に麦の播種を終えて、その後酒造出稼ぎに行くことが可能であったが、みかんは一二月に収穫がずれ込むために、酒造出稼ぎに行きにくくなったのである。第三点は家族と五か月も別居して生活したり、蔵元で朝五時から夕方五時まで仕事をするような就労形態が若年層の人々にきらわれるようになったことである。昭和五五年現在の杜氏の年齢構成を見ると、七六~八〇歳三人、六六~七〇歳九人、六一~六五歳一八人、五六~六〇歳一八人、五一~五五歳二六人、四六~五〇歳二三人、四一~四五歳一五人、三六~四〇歳二人、三一~三五歳一人、二六~三〇歳一人となっている。平均年齢にすれば五四・三歳にもなり、四〇歳以下の若年者はほとんど見られない。後継者の不足から、宮窪杜氏は今後もさらにその出稼ぎ数が減少していくことが予想されている。

図5-39 宮窪杜氏の出身地の分布

図5-39 宮窪杜氏の出身地の分布


図5-40 宮窪杜氏の出稼ぎ先の分布(昭和55年)

図5-40 宮窪杜氏の出稼ぎ先の分布(昭和55年)