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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

六 上浦の石油ターミナル

 立地の経過

 上浦町井口にある石油貯蔵施設は、昭和一七年に旧陸軍燃料廠の貯油タンクの第一期工事として着工、一八年より軍用貯蔵を開始した。一九年には燃料貯油タンクが七基完成した。太平洋戦争のため、二期工事の未完成のまま終戦となったが、合計一二基が完成していた。買収した用地は戦後地主に返還され、一時は耕作も許可された。二七年には燃料タンク七基を解体する一方、旧軍用地の分配を行った。解体されたタンクは横浜のスタンダード石油へ三基、海上保安庁へ二基、菊間町シール石油へ二基払い下げられた。さらに三二年に残された井口の軍用第二地区(井田浜付近)のタンク五基と土地が、旧丸善石油に払い下げられて三三年から同社は貯油事業を開始した。四八年には旧丸善石油の土地と井田浜新田の土地を交換して、同社の所有地には上浦中学を新築するなど上浦町が利用し、その代わりとして同社は井田浜新田の一か所に集め、四九年には旧タンクを処分して新しく七基のタンクを造って面目を一新した。

 現 況

 現在のターミナルは三二年に国から買収した後、三三年に貯油を開始し、四九年に現在の広さ(九万四〇〇〇平方m-約三万坪)に拡張し、五四年に現在の積出専用岸壁が完成した(写真5-26)。
 丸善石油は五七年より経営悪化により松山製油所を分離独立して、丸善松山石油㈱となり、同ターミナルは丸善松山石油大三島油槽所となった。さらに六一年から合併してコスモ石油と社名を変更し、松山製油所の製品の貯蔵所として瀬戸内海の中央に位置する好条件を生かして中継基地的役割をはたしていた。現在は、西日本のコスモ石油の製品(灯油・軽油・A重油)の備蓄基地になっており、製油所の機能を停止した現在、千葉や堺の他、海外からも直接に製品(特にA重油)を輸入している。
 現在の貯油能力が合計二二万三〇〇〇klで専用岸壁には年間約三〇〇隻のタンカーが出入りしている。職員は地元雇用を含めて一〇名程度と大きくないが、固定資産税や国から地方自治体への石油備蓄のための交付金(「石油貯蔵施設立地対策交付金」)など財政的影響はかなり大きい。