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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

五 越智諸島の水資源

 上島諸島上水道事業

 越智郡の島しょ部は水源に乏しく、永年にわたり慢性的な水不足に悩まされてきた。特に、昭和四二年の夏には八〇年ぶりの大干ばつにみまわれ、みかんを中心とした農作物への被害をはじめ生活用水の不足が表面化した。近年、生活水準の向上、多様化により慢性的な水不足傾向はますます顕著となり、島の町村は独自に海水淡水化(昭和五四年弓削町、同五六年伯方町にそれぞれ導入)、小規模ダムの建設、島外からの買水(主に広島県)等、様々な施策を講じてきたが、いずれも根本的な解決とはなり得ず、生活用水の安定確保は、越智郡島しょ部にとって最大の行政課題であった。
 季節を問わず慢性的な水不足に悩む上島諸島への本格的な水対策は、昭和五七年から始まった(表5-52)。広島との分水協定成立を受け、弓削町・岩城村・生名村は上水道事業を行う上島上水道企業団を設立し、各種の調査、設計を急いだ。まず六〇年度広島県加茂郡河内町・大和町にまたがる椋梨ダム(四〇年着工、四八年完成)を水源とする沼田川用水供給事業から、日量一〇〇〇トンの給水を受け、生口島分水点(因島市赤崎)で分水した水を海底送水管などで岩城島小漕地区の受水場に送り、加圧して同村積善山の中腹にある配水池(標高七〇m、二三〇〇立方m)に揚げ、岩城・生名・弓削・佐島の各島へ自然流下方式で配水する計画が立てられた。
 協定調印から一年余の五八年九月、岩城島を皮切りに陸上の水道管敷設工事に着手した。翌五九年九月からは生口島~岩城島、岩城島~生名島、生名島~佐島、佐島~弓削島間を結ぶ海底管敷設作業も始められた。この海底パイプを含め、完成時の配水管の総延長は一一六㎞に達する。いっぽう、六〇年三月には、弓削町に企業団の本拠で、水の流量、水圧、水質などを集中的にチェックする管理棟、岩城島の受水場、配水池などが次々に完成した。総事業費は五〇億円におよび、三町村の負担も大きいし、水道料金は、五立方mまでの基本料金は二〇〇〇円と従来の簡易水道に比べると大幅にアップする。四島の受水量は、六三年度までは一日最大一〇〇〇トンで、既存の簡易水道(日量八一〇トン)も利用し給水、六四年度からは上水道だけの全域給水になり、四島一万一八〇〇人、約四〇〇〇世帯をうるおすことになる。また年ごとに受水量を増やし、七〇年度には四六〇〇トン(一人当たり、四〇〇l)が給水される予定である。なお、待望の広島県からの″友愛の水″は、六〇年七月から給水を開始した。


 越智諸島上水道事業と台ダム

 大三島町・上浦町・伯方町・宮窪町の四町からなる越智諸島上水道企業団の傘下では現在、地下水(三一か所)や砂防ダム(一一か所)にためた水など四三か所の水源地の水(簡易水道)に頼っている。取水量は一日計約六六〇〇トン(伯方海水淡水化三〇〇トンを含む)だが、約五〇〇〇トンの水が不足している。そこで上水道用水確保と洪水調節、農業用水補給の多目的ダムが大三島町の台本川中流部に計画されている。島しょ部では初の多目的ダムである台ダムは高さ四〇m、幅二四〇m、有効貯水量一三九万トンの重力式コンクリートダムである。同ダム建設計画に伴い、五九年四月にはダムから大三島町(日量一五〇〇トン)、上浦町(同一〇〇〇トン)、伯方町(同二〇八〇トン)、宮窪町(同一〇〇〇トン)の四町へ水を送る越智諸島上水道企業団が発足した。同企業団は、五九年度から一〇か年計画で水道管敷設工事などの事業を行い、ダム完成後(五九年度~六四年度完成予定)の六五年度には一部通水し、六八年度からは四町に日量五六〇〇トンの水を供給する予定である(表5-53)。
 なお、吉海町は、前記の越智諸島上水道企業団に加盟していない。その理由として、昭和三五年頃には二五八haもあった水田が柑橘園その他に転換されて五八年には八六haに減少し、水田用溜池を簡易水道源としたこと。吉海町ではすでに五五年から五七年の間に水道工事を完了していたことなどによる。現在幸・八幡地区の簡易水道は約二九〇〇人に一日六五〇トンを供給し、本庄地区では約三五〇〇人に五二五トンを供給している。

表5-52 上島上水道企業団のあゆみ

表5-52 上島上水道企業団のあゆみ


表5-53 越智諸島地区別水量表

表5-53 越智諸島地区別水量表