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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

四 岡村島の大長出作りのみかん園(1)

 温州みかんの先進地・岡村島

 岡村島の属する関前村は、面積五・三五平方㎞、今治市北西一五kmの海上に位置し、大下島一・五平方㎞、小大下島〇・九平方km、岡村島二・九五平方kmの三島からなり、北は広島県大崎上島木江町、西は大崎下島豊町、東は大三島に接するみかん専業の村である(表5-18)。村内の沿岸平地は殆ど居住地で埋まり、村内耕地の九八・六%は樹園地でしかも九〇%が急傾斜地のみかん単一耕作の島である(図5-13)。
 岡村島(関前村)は南予の立間、中予の中島とともに愛媛みかんの先進的核心産地である。戦前わが国みかんが最も伸びたのは、昭和一七年である。戦時中に食糧増産のため掘り取りで減少したが、昭和二二年の統計によると、愛媛県の集団的みかん栽培面積は三八〇五haである。越智郡・今治市は九三四haで県全体の二四・〇%を占め、そのうち地方(陸地部)が二六・一%であるのに対し、島しょ部が七三・九%を生産した。特に関前村は一二八ha、一三・七%を占める東予地域のトップ産地であった(表5-10参照)。
 みかん園の大部分が山腹の急傾斜地にあって、その土地利用上にもつ意義は単に数字では論じられないものがある。みかん園は普通作物の耕地として利用率の低い山腹の傾斜地に多く開かれている(写真5-10)。このような耕地で顕著な生産をあげるという意味では、土地利用効率は著しく高い。水田や普通畑に転換できにくい山地が多く、本来多くの人口包容力を持たない地域でありながら、みかん栽培を行っているがために多数の人口を擁している。
 柑橘園、特にみかん園が山地の傾斜地に立地したのは、単に土地の物理化学的性質の理由でなく、地形的に平地に乏しいこと、またわが国の米作に対する執着はこのような地帯においても殊更極端であり、更に雑柑類のように準副業的に栽培するならばともかく、なかば専業的に栽培しなければならず、そのためには相当の面積を必要とする。かくて、勢い園地は山に向かわざるを得なかった。温州みかん山地が盛んに増植した頃は、労費を無視しているかの如く争って急峻地や傾斜地を開墾していった(表5-19)。


 大長人の渡り作と関前みかん

 関前村は東予におけるみかん産地の先進地で、岡村島に温州みかんを最初に植えたのは旧里正の桧垣信庸で、明治四年(一八七一)である。明治二一年(一八八一)の統計では、みかん五畝・橙二反・九年母五畝である。明治初期は桃・りんご・梨・みかんは日清戦争後(明治二八年一八九五)大長村民(現広島県豊町)が渡り作で利益をあげているのをみてあわてた農民が植えはじめた。
 大正期に試みた除虫菊・たばこの失敗でみかんの単一生産の形が確立された。大正六年(一九一七)三九haのみかん園が、昭和二五年一〇七ha、三五年一五〇ha、四〇年二二八ha、四三年には構造改善事業で八・五haを開園し二八八haに達した。しかるに、昭和四七年以降のみかん価格の下落による不況で、昭和五八年の栽培面積は二一六・五haに減った。関前みかんは、色合いと味の良さで名声をあげ、大正一一年(一九二二)には大阪へ直送をはじめ、昭和期からは完全な共同出荷体制をとり満州(現中華人民共和国東北地区)カナダへも輸出した。
 表5-20で関前村の農家数と耕作面積をみると、大長入作の農家九九戸が耕作面積七六四七アール、農家平均七七アールを経営し、関前村民の平均経営規模七四アールより大きい。しかも関前村の耕地の二四%が大長村民の手によって栽培し経営されてきた。関前村の岡村島は大長に近いので、明治二〇年(一八八七)頃大長人の手にかかり北側の便利な適地三三haを開墾し、尚山林を安く五〇haも購入し所有した。図5-14の如く岡村島のみかん園化は、大長の対岸、島の北西部からすすんできた。村上節太郎の『柑橘栽培地の研究』によれば、次のごとくであったという。
   
 関前村の特に岡村島の西側に大長の人々が進出したのは、杜氏や漁業や船員・都市労働者としての出稼ぎの関心が強く、集落から遠い西側の山林を手離すことを敢て拒まなかったからである。大長村の人々はみかん栽培について先見の明があり、地元の人々の気付かない地形で、みかんに適する山林を時価より高価に買い入れている。
 大長村は、関前村に二三一人、八四〇筆六五haを所有し、うち課税人員一〇二人、岡村の白潟にみかん栽培のための七戸の新しい集落ができ、そのうち六戸は大長出身者であった。

島しょ部におけるみかん栽培で有名な広島県豊田郡大長村(現豊町)は、柑橘専業の村でしかもこの村の農民の耕作しているみかん園面積五〇〇ha以上のうち、村内耕地二五〇ha、他は二〇余か村にわたる他村(島)で耕作している。これを「渡り作」という(表5-21)。
的場徳造は大長村の「渡り作」について『我国蜜柑の経済研究』に次の如く記している。

 彼らが経営規模を拡張する方法は二通りあった。中経営以上の農家で抵当物件をもつようなものは、農工銀行から所有地を抵当にして借入れ(特に大正年代下半期)、他村の土地を買取って順次開墾していった。この場合所有  地三-四反で一〇〇〇円程度借入れ、元利共年一五〇円位宛償還し、一〇ヶ年賦であった(利子五-六分)。なお特色として、本村は他村に比し農工銀行との取引が特に多く、抵当物件の評価に近い程度の貸付を行った。而も農家はこの借入れを早いものは一年位で完済した。
 大正-昭和初期において、何ほどかの価値ある抵当物件をもつ農家は殆どすべてこの方法によった。この最盛期(大正末期)には、農工銀行から借入金の総額が全村で一四~一五万円に達した。他方、このようなことをやる信   用力のない中小農家(主として分家)は、地主から松林や雑木林を借入れて一〇ヶ年は鍬下無年貢で開墾した。この場合には、苗木も台木から自ら仕立てたので、品種が揃っていて今日優秀な園になっているのはこの後者の園に多い。

 岡村島の西部六七haは、大長の人々の出作地で、みかん園が農地改革で広島県の所有になったのは、自作地で購入していたからである。大長の人は早くから柑橘栽培に着手したのに対し、岡村島の人々は大正年間
(一九一二~一九二五)、村人が都市の工場や杜氏、塩田労務者などに出かけ、裏側の急傾斜地の山林を大長の経営者に譲渡してしまったためである。
 内燃機関の発明は、小型馬力の農用船の発達を促した。大長では大正一五年(一九二六)、越智流行が願力丸に四馬力の発動機をとりつけたのが初めで、一般には昭和一〇年頃から普及した。動力船の普及は農作業の機動力が著しく増大し行動半径が拡大して、大三島やさらに島しょ外進出を促進した(図5-15)。

表5-18 関前村の土地利用

表5-18 関前村の土地利用


図5-13 関前村の柑橘の分布

図5-13 関前村の柑橘の分布


表5-19 関前村の土地利用の変化

表5-19 関前村の土地利用の変化


表5-20 関前村の農家戸数と耕作面積

表5-20 関前村の農家戸数と耕作面積


図5-14 広島県豊田郡大崎下島(大長村)現豊町と愛媛県越智郡関前村岡村島の昭和初期の土地利用

図5-14 広島県豊田郡大崎下島(大長村)現豊町と愛媛県越智郡関前村岡村島の昭和初期の土地利用


表5-21 広島県豊町(大長・御手洗・久比)の渡り作

表5-21 広島県豊町(大長・御手洗・久比)の渡り作


図5-15 広島県豊田郡豊町(旧大長村)から大長村民の愛媛県内への渡り作による果樹園面積(昭和25年)

図5-15 広島県豊田郡豊町(旧大長村)から大長村民の愛媛県内への渡り作による果樹園面積(昭和25年)