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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

六 共有山組合の山林経営

 共有山組合の成立

 わが国の林野所有は、国有林・公有林・私有林に大きく区分される。公有林は都道府県・林業公社・市町村・財産区などの所有する林野であるが、それは藩政時代以来の入会採草地に起源するものが多い。愛媛県の公有林面積は、昭和五五年の農林業センサスによると三万六七九ha(全林野の七・七%)を占める。うち、一万二四六八ha(四〇・六%)は東予、一万二四〇〇ha(四〇・四%)は南予にあり、東予と南予に公有林の比率が高い。公有林比率の高い町村には、東予の土居町・丹原町・玉川町・朝倉村、南予の宇和町・城川町・津島町などがあるが、このうち、玉川町・朝倉村の公有林は、今治市・玉川町及び朝倉村共有組合の所有林であり、公有林経営の模範として注目されている。
 現在、共有山組合の林野は玉川町と朝倉村に広く分布する(図3-3)。玉川町において林野所有の地域的構成をみると、蒼社川の源流に位置する最奥の林野は国有林、それに続いて共有山組合の林野が展開し、集落背後の林野は私有林となっている。共有山の林野は、藩政時代には今治藩の藩有林であったが、越智郡地方六三か村の入会採草地となっており、野山といわれていた。明治維新後野山は官にも民にも属さない無籍地として、入会慣行が継続していた。しかし、明治六年(一八七三)林野の官民有区分がなされるに及び、この野山は官有林に編入されるおそれが多分にあった。明治一二年(一八七急)越智郡地方六三か村の戸長が今治町寺町の大雄寺に集合したのは、その対応策を協議するためであった。この会合で野山を地方各村の共有地に組みこむことが決議され、ただちに越智郡長に林野所有の陳情書が提出された。これに対して県令からは同年一〇月、野山の共同入会及び共同管理は聞き届けるが、共同所有については改めて伺い出るようにとの指令が発せられた。ここに野山はひとまず官有地への編入をまぬがれたわけであるが、所有権を有しないための将来への不安を残した。
 政府が野山を官有地に組み入れようとの動きのなかで、それを地方各村の共有地にすべく、所有権取得の運動は明治一五年(一八八二)以降執拗に繰り返された。地元住民の熱意がかない、野山の所有権取得が実現したのは、八年後の明治二三年(一八九〇)においてであった。その前年町村制の実施によって、旧来の六三か村は一四か村になったが、所有権の確定にともない野山を管理する組織の必要性が生まれ、明治二四年(一八九一)には、日高村外一三か村組合が設立された。林野の所有名儀は、当初は一三か村と今治町の中の大字今治村に属していたが、大正九年(一九二〇)今治市が近隣の村を合併して発足するに及び、組合に所有権が委譲されることになった。組合の名称は、町村合併などに伴って、その後幾変遷したが、昭和三七年以降、今日の今治市・玉川町及び朝倉村共有山組合となった。


 直営林と部分林
        
 共有山組合の林野は、組合の直接管理する直営林と、組合と諸団体が分収契約を結んでいる部分林に区分されている。直営林の植林が開始されたのは明治三六年(一九〇三)であるが、その契機をなしたものは同二六年(一八九三)の蒼社川の決壊に伴う今治平野一帯の甚大な水害であったといえる。初代組合長に就任した曽我部右吉は、蒼社川の治水は、その源流の治山をおいてはないとの認識のもとに、共有山の植林を積極的に推進していく。植林を推進していく上での支障条件は、造林費の不足と、植林対象地が肥草や薪炭の入会利用地であったことである。前者は共有山の売却と関係市町村からの負担金の徴収によって、後者は住民の協力によって、それぞれ克服された。また当時、綿実粕・油粕などの金肥が次第に普及し、入会採草地の必要性が次第に減少してきたことも、植林の推進を容易にした。
 直営林の植林は明治三六年(一九〇三)から大正七年(一九一八)の間に積極的に推進され、この間に二七〇haの林野が植林された。造林の技術は先進地の吉野に学び、樹種は県技師の意見を入れて、約五〇%は檜の植栽を行っている。これらの人工林が伐採されだしたのは、昭和一五年竜岡上石ヶ内において山火事が発生し、三〇haにわたる直営林が焼けたことを契機とする。罹災木は昭和一六年から一七年にかけて伐採され、以後人工林の伐採が継承される。昭和一七年以降は立木の伐採収入が植林経費などの支出を上回り、余剰金は関係市町村に配分されることになり、共有山の立木伐採収入は第二次大戦後の関係市町村の財政を大いに潤した。
 直営林は共有山組合によって計画的な造林・伐採がなされたわけであるが、その労務者としては、玉川町・朝倉村などの地元住民が雇用された。その雇用は部落総代などを通じてなされ、山林の保護育成には直接または関接的に地元住民がたずさわった。したがって立木の伐採収入がある時には、その販売代金の数%が保護料として地元部落に配分されるのが慣例となっていた。このことからもわかるように、直営林の経営は多分にその所在する集落の村落共同体とのかかわりのもとになされていたといえる。
 二五〇〇haに及ぶ共有山組合の植林は、組合の直営林において実施するには、あまりにも広大であった。そこで、組合では直営林以外に部分林の設定を打ち出す。部分林の設定は関係地域の公共団体またはそれに準ずる団体において可能であった。部分林の設定の申し出は、明治四〇年(一九〇七)に始まるが、このころになると、直営林の植林成果が顕著に表れ、それが地元住民の植林意欲を大いに高めた。部分林の設定を申し出たのは、各市町村・市町村連合・部落・青年団・在郷軍人会・社寺などであり、その植林は各団体の構成員の労力提供によってなされたものが多い。部分林の設定期間は四五年程度であったが、立木伐採時には部分林設定者が八五%、共有山組合が一五%の収益を分収するのが契約内容であった。部分林設定者は、その収入を各団体の運営費や公共施設に投資するものが多かった。部分林設定者で最もその数が多かったのは、関係町村の大字部落やそれを構成する小部落であったので、部分林の経営は各集落の村落共同体とのかかわりのもとになされたといえる(写真3-8)。
 直営林と部分林の面積比率は、大正三年(一九一四)には、直営林七三二ha(二八・八%)、部分林一三四六ha(五二・九%)、学校林七五ha(二・九%)、入会採草地三九二ha(一五・四%)となっており、同一五年(一九二六)には、直営林四五〇ha(一七・七%)、部分林一七四八ha(六八・七%)、学林七五ha(二・九%)、入会採草地二七三ha(一〇・七%)となっている。部分林の植林も着実に進捗し、大正末年には部分林の約六〇%が人工林化されたといわれている。部分林の人工林の伐採は第二次大戦後盛んになされ、それが関係団体の財政を大いに潤した。
 明治三六年(一九〇三)に始まる共有山組合の植林は、この地方の人工造林の嚆矢をなすものであり、それが私有林の人工造林を先導した点に、共有山組合の大きな意義があったといえる。


 共有山組合林の経営の現況

 昭和六〇年八月現在の共有山組合の林野面積は、直営林一三八二ha、部分林一一三七haとなっており、その面積はほぼ相半ばしている。大正年間と比べて直営林の比率が高まっているが、これは昭和六〇年四月に今治市の部分林二八六ha、今治市玉川町組合の部分林五二ha、今治市朝倉村組合の部分林三〇〇ha、計六三八haが共有山組合に返還されたことによるものである。それ以前の直営林は七四四ha、部分林は一七七五haであり、その比率は三〇対七〇で、大正年間とさしたる差異はみられない。
 今治市に関係する六三八haの部分林が、一気に返還されたことは、共有山組合の山林経営が困難な局面を迎えていることを象徴するものである。昭和三五年以降木材価格は低迷しているのに対して、労働賃金は急上昇し、林業経営の収支はつぐなわなくなってくる。加えて、この間に住民意識の都市化が急速に進展し、旧来の村落共同体に依存していたような部分林経営は困難となってくる。今治市が部分林を共有山組合に返還したのは、このような理由によるものである。
 共有山組合の直営林の経営もまた困難な事態に直面している。従来直営林の人工造林における労務者は、その林野の所属する地元部落、いわゆる保護区の総代よって調達された。その労賃は私有林の山仕事に比べて二〇~三〇%程度安価であったが、共有山の仕事であるとの理由によって、地元住民は低賃金にも甘んじてきた。また部落によっては、出役によって共有山の造林に従事したところもあった。直営林が立木伐採時に、保護区に数%の保護料を支給したのは、地元の協力に対する反対給付であった。しかしながら都市化の進展と共に、昭和四七年頃からは、部落総代を通じての山林労務者の調達は困難となってきた。ここに従来、直接雇用制をとっていた伐採搬出労務者と同じように、植林・下刈などの人工造林における労務者も直接雇用制をとらざるを得なくなってきた。このような雇用形態をとるようになったことは、必然的に労賃の上昇をまねき、共有山組合の直営林経営を困難にしているといえる。昭和四二年以降は、直営林の経営は赤字であり、関係町村の負担金によって、その収支をつぐなっている状況である。


 竜岡上地区の部分林経営

 昭和六〇年八月現在、部分林を設定している団体は一〇八団体で、その経営面積は一一三七haである。蒼社川の源流地帯を占める竜岡地区(玉川町合併前の竜岡村)には、共有山組合の林野が広く見られるが、このなかで竜岡地区の関係団体で部分林を設定するものが一五団体ある(表3-16)。部分林を設定する団体には、竜岡上・竜岡下・葛谷などの大字部落、木地・力石・中村・中通・小川・妙見前などの小部落、竜岡青年団・竜岡消防団など旧竜岡村を基盤とする団体、葛谷青年団など小部落を基盤とする団体、竜岡寺・竜岡天神社などの寺社、さらには新たに造林組合を組織した原田造林組合などがみられる。
 大字部落の一つである竜岡下部落の部分林は、部落総代が管轄し、権利保有者の出役によって植林・下刈りなどがなされてきた。立木伐採の収益は部落の公共施設などに使用されるのが原則となっている。権利保有者は近年の転入戸一戸を除き、すべての家である。分家や転入戸が権利を取得できるのは、部落常会に加入したのち、部落の承認を得る必要がある。権利の喪失は部落を転出したときになされ、その補償はなされない。竜岡下部落に属する小部落の一つである小川も部分林を設定しているが、その管理運営は竜岡下部落でみたのとほぼ同様である。
 竜岡寺・竜岡天神社など寺社の設定する部分林は、寺総代・宮総代などが管轄する。植林・下刈りなどは檀家や氏子の労力奉仕によってなされ、立木伐採にともなう収入は寺社の入用に使用される。青年団や消防団の設定する部分林では、青年団長・消防団長が管理青任者であり、傘下の団員の奉仕作業によって造林がなされてきた。収入はそれら団体の会計にくり入れられる。青年団は団員の不足からその管理運営が困難となり、近年は竜岡地区体育愛好会がその管理運営を肩代わりしている。竜岡地区では、このように各種の地縁集団が部分林を設定しているので、一人の住民にとっては、いくつもの部分林に権利を有していることになる。
 竜岡地区は共有山組合を構成する地区内では、最も山村的な性格が強く、住民の生業も林野に依存する点が大きい。また集落の共同体的な性格も強いことから、共同作業による部分林の造林作業なども行われやすかった。このような点から、旧来の部分林の管理運営の形態がよく残されている地区である。しかしながら、この竜岡地区にも新しい部分林の形態が生まれてきた。それが原田造林組合の誕生である。
 原田造林組合は昭和五六年に竜岡下の小川部落の一一名によって結成された個人的な色彩の強い部分林である。竜岡下部落の設定する原田地区二四haの部分林は、まつくい虫被害によって、新たに造林の必要性が生まれてきた。その造林は部落の住民の共同作業によってなされなければならなかったが、住民の兼業化のすすむ今日、部落全戸に多くの労力提供を課すことは困難であった。そこで林業に熱心な小川部落の一一戸が造林組合を結成し、竜岡下部落より権利の委譲を受けて、共有山組合との間に部分林契約を結んだのが、原田造林組合である。この造林組合は結成後一戸が転出したため、現在一〇名によって構成されている。林野は一〇か所に分割され、個人別に造林を行っている。原田造林組合の誕生は、山村的色彩の強い竜岡地区においても、村落共同体にたよる部分林経営は次第に困難になっており、個人的色彩の強い部分林の設定が今後の趨勢になるのではないかという事を暗示しているといえる。


 日高地区の部分林経営

 都市化の進む地区では、部分林経営は一層困難になっている。今治市街地に接する日高地区は、戸数の増加に伴って、部分林の権利者をどのように限定するか、また部分林の経営をどのように維持していくかで苦悩している。日高地区の部分林には、日高管理組合の設定する部分林六二haと、日高地区を構成する馬越・別名・小泉・高橋など小部落の設定する部分林がある(表3-17)。
 日高地区では昭和四八年、日高部落林管理組合規約を制定しているが、これは都市化に伴い部分林の権利者の確定、その権利義務などを明文化しておく必要が生まれたことによるものである。日高管理組合の部分林は、玉川町の九和地区や竜岡地区に依存しているが、平野部に居住する日高地区の住民は植林や下刈りなどの山林労務には不慣れであった。そこで部分林の造林は玉川地区の林業労務者を雇用してなされた。造林の必要経費は立木の販売収入や権利者からの徴収金によってまかなわれてきた。しかしながら木材価格の低迷と、山林労務費の高騰から、次第に収支は償われなくなってくる。昭和四三年の豪雪時には約三〇haに及ぶ能智山の部分林に雪害が発生し、そこに新たに植林をする必要が生じてきた。部落の権利者に造林費の徴収をはかったところ、それが否決されたことから、再造林の見込みはたたず、やむなく部分林契約を解除し、この部分林を共有山組合に返却せざるを得ない破目になった。
 昭和四八年規約制定時には、権利者は三五四名であったが、その後、権利放棄を希望する者が多数存在するという。現在日高管理組合の部分林は人工林が八〇%におよび、うち除間伐の時期に来ている人工林も多い。しかしながら、このような保育作業を行うためには、権利者から多額の負担金を徴収しなければならず、権利者の同意が得られないことから、人工林の保育作業は放置されている状況である。
 馬越・別名などの小部落の設定する部分林は面積も狭小であるので、権利者が日曜日などに共同作業などで保育作業を行っている状況である。しかし、これらの部分林においても、権利者の脱退希望が多く、共同作業が困難となっており、その管理運営は決して容易ではかない。

図3-3 玉川町・朝倉村の林野所有区分

図3-3 玉川町・朝倉村の林野所有区分


表3-16 玉川町竜岡上地区の部分林

表3-16 玉川町竜岡上地区の部分林


表3-17 今治市日高地区の部分林

表3-17 今治市日高地区の部分林